神の光に心を照らされて コリント第二4:1-6 主の2009.11.15礼拝
私の小学校時代、全校生徒が学年別に歌、楽器演奏、劇などをする学芸会がありました。私が3年生の時の学芸会で、6年生による「クリスマスを迎える幸せな一家」という劇があり、その中で「諸人こぞりて迎えまつれ」という讃美歌の1-3節が何べんも歌われました。初めて聴いた讃美歌でしたが、あまりにもいい歌だったので、私はすぐに歌詞を覚えて歌ったことを思い出します。特に、「この世の闇路を照らしたもう たえなる光の 主は来ませり 主は来ませり 主は、主は来ませり」という3節を歌うと、意味がよく分からないのに、なぜか心が明るくなるように感じて気にいっていました。後に光である主イエス・キリストを心に迎え入れ、心の闇である罪を赦され、文字通り心が明るくなり、信仰の道を歩み続けて来ることができたことを主に感謝しています。
本日はコリント第Ⅱ4:1-6です。6節に「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである」と言われています。神様が心を照らして下さったので、私たちはキリストの十字架の恵みを信じてクリスチャンになることができました。詩篇119篇130節で「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」と詩人は歌っていました。聖書が開かれる時に、神の聖霊が私たちの心を照らし、御言葉の一つ一つが心を照らし、心が明るくなり、神様を信じる信仰が与えられて行きます。
今朝も共に主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。
内容
1、キリストの福音を聴く者は幸いである。4:1-4
2、キリストの福音を宣べ伝える者は幸いである。4:5-6
資料問題
1節「このように」、3:12以下、特にその17,18に示しているように福音の伝道者として、光栄と自由とを得ているので、私たちは神のあわれみにによって、2節のように神の言を曲げず、真理を明らかにするのである。2節「悪巧み」、誠実の反対。「曲げず」、混合物を入れないこと。品質を落とさないこと。3節「わたしたちの福音」、偽教師の教えるものではなく、パウロたちが伝えるイエス・キリストの福音のこと。4節「この世の神」、新約聖書中、ここにだけ見られる表現。「この世の君」(ヨハネ12:31、14:30、16:11、Ⅰコリント2:6)とも呼ばれる「悪魔(サタン)」と同じ意。まことの神から離反し、罪の中に沈んで、悪の勢力下にあるのがこの世である。やがて、あらゆるものがキリストに従い、神が「すべてにおいてすべてとなる」来るべき世とは区別されている(Ⅰコリント15:24,25,28)。この世の神は、キリストを信じようとしない人々の心を盲目にして、キリストの栄光が彼らの心の闇を照らすことをさえぎっている。使徒パウロは神により、宣教を通して信じる全ての人にキリストの栄光を悟らせる(6節)。「神のかたちであるキリスト」、ヨハネ14:9参照。6節「やみの中から光が照りいでよ」、創世記1:3参照。
1、キリストの福音を聴く者は幸いである。4:1-4
このように、わたしたちは、あわれみを受けてこの務めについているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませ、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。(1-4節)
使徒パウロはキリストの救いを受け、全世界に福音を宣べ伝えた伝道者です。彼は、自分以外の伝道者のことも含めて、「わたしたちはあわれみを受けてこの務め(伝道者の務め)についている」と言っています。パウロは、かつてはユダヤ教を信奉し、人は行いによって救われると信じ、誰よりも律法を守り行うことに熱心でした。ところが、どんなに頑張って良いことをしたいと思っても出来ない。悪いことはしたくないと思っても、どんどん悪い方向に引きずられて行ってしまう。彼は自分の内には罪が宿っているということに気づきます。彼は罪の力に勝てずに「わたしは、なんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:17-24)という悩みの日々をおくりますが、キリストの十字架による救いを受けて、彼の心は生まれ変わります。パウロは、自分の力を信じ、キリストに敵対し、クリスチャンを迫害していた者でした。そんな彼に対し、キリストは彼の罪のために、十字架にかかって、罪の身代りになって下さった救主です。そのことを感謝して、「わたしたちはあわれみを受けている」と言っているのです。
さらに、パウロは、キリストの救いを受けたことを感謝し、「悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにする」と言っています。「悪巧みによって歩かず」とはずるがしこいことをしないということです。「神の言を曲げず」とは、キリストの福音の品質を落とさないということです。例えば、「キリストの十字架は神の愛のシンボルです」と言って、真の意味を知らないまま、ただきれいな十字架のネックレスを下げるだけでは救いはありません。私たちに救いという真理を与えて下さるのはキリストです。聖書は、人が罪から救われ、生まれ変わって永遠の命を受けるためには、キリストの十字架以外に救いの道はないと告げています(使徒4:12参照)。それを知ことが救いです。
話は変りますが、民主党の小沢幹事長が仏教界の人々と会い、「キリスト教は排他的だ」と言ったということです。キリスト以外に救いがないということを排他的だと言ったのかもしれませんが、もしそうだとすれば、それは救いのことを知らない無知から出た発言であり、ずるがしこい、神の真理を曲げた発言です。何故なら人の罪の身代りになって死んで下さったのはキリストだけだからです。今日は子供たちのために祝福の祈りを捧げることができて幸いでした。親にとって自分の子供は限りなく愛しい存在であり、神様が与えて下さった宝物のように思い、どの親も子どもを大事に育てています。親はわが子のためであれば、自分の体を張って(命を賭けて)子供を守るでしょう。しかし、どんなに可愛くても、他人の子供のためにわが身を投げ出せるかといえば難しいでしょう。たぶんできないでしょう。ところが、キリストは、見ず知らずの私たちのために、しかも神に背いていた罪人のために、ご自分の身を十字架の上に投げ出して罪の身代りになり、罪の罰を引き受けて死んで下さった救主です。古今東西あらゆる宗教、あらゆる教えを調べても、罪ある人間のために、神であるお方が罪の身代りになったということはありません。ただ聖書だけが、神である救主イエス・キリストが罪の身代りになった事実を告げ、キリストを信じて何百何千万という数え切れない人々が救いの恵みを受けています。私たちもその中の一人であることを感謝します。
キリストにことさら反対し、信じようとしない人々のことが「滅びる者ども」(3節)と言われています。彼らがキリストを信じられないのは、「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの目をくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(4節)と説明されています。
「この世の神」というのは悪魔・サタンのことです。サタンは神様に敵対し、人間を神様から引き離し、人間を地獄の滅びに追いやろうと企んでいます。キリストは、サタンは大うそつきであり、サタンは偽りの父であると述べています(ヨハネ8:44)。
偽りの父であるサタンは、私たちに偶像礼拝をさせます。偶像礼拝は、モーセを通して3500年前から、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト20:3-4)と明確に禁じられています。偶像礼拝から、占い、手相、暦(大安、仏滅など)、星座、血液型、手相、人相、姓名占い、お守り、霊媒(死人を呼び寄せる、あなたの背後に霊が見えるなど)などが派生しています。細木数子の占いは100%当たる占いと言われています。それには理由があります。例えば「このままの姿勢だったら、来年の五月、文春新書はスッテンテンになって、文春新書の編集長は地獄に落ちるわよ」と予言します。来年の五月、編集長が更迭になっていたら、予言が当たったことになる。ところが編集長に留まり、文春新書が売れていたら、「私が言ったとおりに心を入れ換えたからだ」ということになって、やっぱり予言は当たるということになります。これは「明日の天気は雨か、雨以外のいずれかです」という天気予報をしているようなものです。だから、彼女の占いは100%当たるということになるのです(佐藤優氏による)。
さらに偽りの父であるサタンは、人々の思いをくらませて、この世のものが一番であるかのように思わせます。お金、権力、地位、人気など人々が崇めるものに、関心が行過ぎて、キリストが一番でなくなるなら、それも偶像礼拝になります。キリストが一番であることが常に大切なことです。
2、キリストの福音を宣べ伝える者は幸いである。4:5-6
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである。(5-6節)
「この世の神」であるサタンは、私たちを神様から遠ざけ、偶像礼拝を行わせ、偶像礼拝から派生する占いの類に誘い込み、キリストが一番ではないという生活をさせようとします。
使徒パウロは、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」と宣言しています。パウロは、「自分自身を宣べ伝えない」と言っています。これはとても大切なことです。彼はひたすら主であるキリストの救いをを宣べ伝えることに全力を傾けています。
この世の神であるサタンはいつでも自分を宣べ伝えています。サタンは多くの宗教を操っていますが、偽宗教を見分けるには次のポイントを見れば分かります。
*偽宗教の見分け方
①教祖、指導者が質素な慎ましい祈りの生活をしているかどうか。
②自分が生き神さまである、例えば仏の生まれ変わりであると言わないかどうか。
③強制的な金集めをして、しない人を責めていないかどうか。
④宗教団体の名で、選挙の時に票集めをし、政治を動かそうとしていないかどうか。
現在、韓国において、キリスト教の異端が勢力を伸ばして、社会問題になっていることがクリスチャン新聞で報じられています。韓国の教会には異端のスパイが忍び込んでいて、教会ごと乗っ取りを図ったり、集会に混乱を与えているということです。それが日本にも忍び込んで来ているので、警戒して下さいと韓国の牧師が日本に来て訴えています。韓国起源で日本に入ってきている 異端としては次のようなものがあります。
世界基督教統一神霊協会(統一協会)、JMS(摂理)、新天地イエス教(新天地)、
万民中央聖潔教会、タラッパン、インターナショナル・ユース・フェローシップ(IYF)
その他に、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)があります。
*異端の特徴
①キリストよりも偉い教祖がいると教える(キリストを信じない)。
②聖書よりもすぐれた教典があると教える(聖書を神の言葉として信じない)。
③自分たちの名前を言わないで仲間に引き入れる(騙して勧誘し洗脳する)。
④仲間同士の接触、外部との連絡を禁止する(限られた情報しか与えない)。
⑤自分で考えてはいけない。全て命令に従う(奴隷状態にする)。
⑥人を騙してもいいから金集めをする(倫理観の喪失)。
パウロの心の願いは、キリストを知ってもらいたいということです。キリストの行い、教え、奇蹟の御業、キリストの御言葉を知ることは大切なことです。そうした事以上に、パウロが切に願っていることは、私たちひとりひとりが、個人的にキリストを直接に知って欲しいということです。キリストを個人的に直接に知るということは。キリストを自分の心の中にお迎えすることです。私たちの心の中にキリストが住んでいて下さることは信仰の奥義です(コロサイ1:27)。きょう、皆さんの心の真中にキリストが住んでおられますか・・・。
私たちがキリストを信じるようになったのは、「やみの中から光が照りいでよ」という神様の恵みによったのです。創世記の初めに、世界は混沌としていて、闇であったが、神様の「光あれ」という力強い御言葉によって、光が現れ、世界の創造が開始されたことが記されています(創世記1:1-3)。
キリストを信じる前、私たちの心は罪の闇に覆われていましたが、聖書の御言葉と聖霊の導きによって、心の闇が照らされた時に、闇は追い払われました。そして「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われるキリストを心にお迎えして、私たちは霊的に生まれ変わり、神の子になることができました。パウロは救われ、クリスチャンになったことを感謝し、「主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」と声を大にして叫んでいます。
キリストだけが十字架の上で私たちの罪の身代りになって下さった唯一の救主です。キリストを信じれば、人生は明るく豊かなものに変えられて行きます。日本では年間3万人以上の自殺者があります。自殺未遂の人々はその何倍もいると思われます。行き場のないホームレスの人々も増えています(28日本年11回目の上野公園ホームレス伝道です)。私たちはあらゆる機会を捉えて、キリストを宣べ伝える使命があることを忘れないで祈って下さい。私たちが救われたのは、キリストを伝えてくれたクリスチャンがいたからです。私たちもキリストを伝えることを受け継いで伝道しましょう。午後からネームレスの集まりがあります。ネームレスとは自分をキリストに捧げ、キリストの救いを伝えるために自分を神様に捧げて伝道して行く集まりです。今までにネームレスの集まりの祈りと伝道を通して多くの方々が救われています。心から家族、友人の救いを願って、伝道の働きに加わって行くように心からお勧めします。
神仏を否定し、自分の力を信じて一代で会社を築き上げた方がいました。神仏を否定することを徹底して、葬祭の場に出れば宗教に関わることになるので出席しないという徹底ぶりでした。晩年、病を得て入院し、それでも自分の力を信じ、クリスチャンである子どもに祈ってもらうことを拒むという頑固さでした。この世の神であるサタンによって心の目がくらまされていたのですが、クリスチャンである子供の祈りが届き、神様は「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになって、キリストを信じる機会を与えて下さったのです。キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、心が照らされ、罪を悔い改め、救われ、洗礼を受けました。召される前に、部下に「葬儀はキリスト教式で行う」と指示して天国に帰って行きました。葬儀で福音が語られ、聖書が配られました。その葬儀に参列した一人の方は救われて、九州に越して行かれました。その蒔かれた福音の種は様々な形で現れつつあります。(その方は馬場信裕さんの父上で、私には忘れることの出来ない方です)。
まとめ
1、4:1-4、キリストの福音を聴く者は幸いです。キリストの十字架に救いがあります。サタンはキリストの福音に反対します。偶像礼拝、占いなどから離れて、キリストの恵みの中に信仰生活を前進して行きましょう。
2、4:5-6、キリストの福音を宣べ伝える者は幸いです。異端に惑わされないで、キリストが唯一の救主であることを声を大にして伝道して行くように祈って行きましょう。
祈 り
天地の主である神様、独り子イエス・キリストを信じる信仰を与えられている恵みに感謝します。神様の大きなあわれみを受けていることを感謝して、真理であるイエス・キリストを宣べ伝えて行くように導いて下さい。異端がはびこっています。騙されないように、教会が常にキリスト中心であるように聖霊によって導いて下さい。主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。
参考文献:コリント注解―バークレー、黒崎、フランシスコ会、佐藤、福田、文語略註、LABN、藤田。「ぼくらの頭脳の鍛え方・立花・佐藤著・文春新書」、「いい人をやめると楽にな・曽野綾子・詳伝社」