博士たちの来訪―キリストは全ての民の救主  マタイ2:1-12  2009.12.6アドベント第二週礼拝


140年前ぐらいの日本は封建時代で、全国を治める将軍の下に60ほどの藩があり、各藩に殿様がいて、それぞれの藩を治めていました。自分の藩に他の藩の人がやって来ると「よそ者」として扱い、よそ者がその土地の人と仲良くなるためには長い年月をそこで暮すことが条件でした。現代は、日本国内はもちろんのこと、世界各地を自由に往来できるようになり、様々な民族同士が交流し、友達になり、結婚することが自由になっています。しかし、民族間の争いのために戦争をしている所があり、人種差別があり、自由の陰に平和を妨げる様々な問題があることも事実です。

アドベント第二週に入りました。キリストが誕生された時、主の御使いは、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える」(ルカ2:10)と羊飼たちに告げています。キリストは全ての民に喜びと平和を与えるために来られた救主です。キリストによる喜びと平和が全ての人々に与えられるように祈りながら、クリスマスに向かって進んで参りましょう。
本日はマタイ2:1-12です。救主イエス・キリストはユダヤ人の中に生まれると預言されていました。しかし、1-2節に「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みに来ました』」とあります。ユダヤ人は救主の降誕に気づかず、ユダヤの国から遠く離れたユダヤ人以外の博士たちが、キリストを拝みに来たのです。この事からキリストがユダヤ人という民族のワクを越えて、全ての民の救主であることを知ることができます。

内容区分
1、キリストの誕生を信じ、受け入れる者は幸いである。2:1-10
2、キリストを礼拝する者は、豊かな祝福を受ける。2:11-12
資料問題
キリストの属していたユダヤ人はキリストを退け、最後にはキリストを十字架につけて殺すが、異邦人は遠くからやって来て、キリストを神として認める。ヘロデとエルサレムの人々はユダヤ人を代表し。博士たちは、光を見て礼拝を捧げに来る異邦人を代表する。1節「ヘロデ王」、ヘロデ大王のこと(BC37-4)。キリストはヘロデの治世の終わりのBC4年ごろ生まれたとみられる。ヘロデはエサウを先祖とするイドマヤ人(聖書ではエドム、創世記36:9)で疑い深く残忍であった(権力維持のために妻、母、息子3人を殺害している)。「東からきた博士たち」、占星術、医術を行なっていた学者を表す言葉で、ここでは天文学者を指していると考えられている。本来は高潔な真理を探究する善良な聖(きよ)い人。5節「ベツレヘム」、へブル語でパンの家の意。ダビデの出身地(サムエル上16:1-13)。2節「東の方でその星を見たので」、どのような星かは分からない。『ヤコブから一つの星が出て(高貴な人の生まれを象徴)、イスラエルから一本の杖(王位の象徴)が起る』(民数記24:17)という預言がある。6節はミカ5:2の引用。11節「黄金」、王権の象徴。「乳香」、キリストの神性の象徴、「没薬」、キリストの受難の象徴。12節「他の道を通って自分の国へ帰って行った」、神様に従う者を神様は守って下さるのである。




1、キリストの誕生を信じ、受け入れる者は幸いを受ける。2:1-9

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いていった、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みに来ました(1-2節)、彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった(9節)

現代は夜遅くまで、あるいは一晩中電気がついていて、夜が暗いということをあまり感じないので、いつの間にか星空を仰ぐということを忘れているように思います。キリストの時代は、日が沈めば真っ暗になり、夜道は月の光、星の光を頼りに歩いて行きました。
本日の箇所は、東の方で星を観測していた博士たちが、夜空にひときわ輝く星を見つけたことが発端です。彼らは、ユダヤ人が伝えてくれた「ヤコブから一つの星(高貴な人の生まれの象徴)が出、イスラエルから一本の杖(王位の象徴)が起る」(民数記24:17)という預言の成就であることを確信し、エルサレムへと向かいました。

*2:1-10、博士たちのエルサレム来訪を通して教えられることを見て参りましょう。

第一に、キリストは、救いを求めて飢え渇いている人々に救いを与える救主で。
キリストの救いはユダヤ人から始まることになっていました。ユダヤ人は旧約聖書に基づいて、長い間にわたって救主の到来を待ち望んでいました。ところがエルサレム南方8キロのベツレヘムで誕生したキリストのことを知りませんでした。そこへ東の博士たちが救主を求めてやって来たので、ヘロデ大王をはじめ、エルサレムの住民は慌てふためいています。この事から、キリストはユダヤ人というワクを越えて、求める者に現れて下さる救主であることが明らかにされています。

博士たちが住んでいた所は今のイラン、イラクのあたりで、エルサレムまで2000キロはあります。彼らはユダヤたちの伝えてくれた民数記の預言に基づいて、荷物を担いでテクテク歩き、砂漠地帯はラクダに乗りながら、エルサレムを目当てにひたすら旅をしました。彼らのキリストを求める願いは叶えられ、遂にベツレヘムでイエス・キリストに出会い、ひれ伏して礼拝を捧げ、感謝の献げ物をしています(11節)。博士たちはキリストに出会い、心の救いを得て、喜びにあふれて故郷に帰ることができました(12節)。全て求める者はキリストの御許に導かれ、救いを与えられます。
あるご婦人は東京の外れの辺鄙な所に住んでいましたが、経済問題、子供を失った悲しみ、心を打ち明ける友達のいない寂しさを抱えていました。電話もない、ホームページもない時代でしたが、ある時、教会があるということを人づてに聞きました。彼女は自宅から10キロほど歩いて、都電に乗り、教会があると聞いた駅まで行き、少し迷いましたが遂に教会を捜し当てました。教会に入った瞬間に自分が温かい光に包まれたように感じました。メッセージを通してキリストを受け入れた時に涙があふれ、心の罪が赦され神の子になった喜びを与えられました。それから毎週10キロの道を歩き、都電に乗って教会へ行き、礼拝を捧げていましたが、神様は彼女の友人を救い、やがて自宅の近くに教会が誕生したのです。
第二に、キリストは全ての人を愛するために来られた愛の救主です。
博士も無学な者も、ユダヤ人も外国人も、男も女も、若い者も年配の者も、心に罪の重荷をもち、愛されているという喜びをもたないままで人生を送っています。聖書の示すまことの神様は愛の神様です(Ⅰヨハネ4:8参照)。神様はすべての人が、真理であるキリストを知り、信じ、救われることを願っておられます(Ⅰテモテ2:4参照)。また、どんなに物質的に恵まれていても、愛がなければ全ては空しく、命がないことを知らねばなりません。
ある残酷な王様が赤ちゃんを二組に分けました。一組のほうの赤ちゃん達は普通の生活のままで、赤ちゃんに語りかけながら育てました。もう一組のほうは、清潔な部屋、整った医療設備、時間ごとに栄養のあるミルクを飲ませる、オムツを替えてあげる、但し話しかけてはいけないということにしました。普通に生活し、話しかけられた赤ちゃんは健やかに成長して行きました。ところが育児環境は完璧でしたが、声をかけてもらえなかった赤ちゃんは可哀想に育つことが出来ず亡くなって行きました。残酷な実験ですが、愛がなければ命は育たないということが分かります。
私たちの心に、キリストによって愛されている喜びがいっぱいにあるでしょうか。キリストは愛の救主です。私たちを愛するために地上に来られたのはキリストだけです。私たちを愛している印として、私たちの罪の身代りになって十字架に命を捧げて下さったのはキリストだけです。
ある牧師さんと、山奥の設備の整った病院に行ったことがあります。目的の人に会えなかったのですが、隣のベッドに男性の年配の人がいました。「自分は淋しい」と訴えるのです。淋しさの原因は「家族が会いに来てくれない」ということでした。初対面でしたが、思い切ってその方にキリストの十字架と復活を伝えたところ、キリストを心に迎え入れる決心をしてくれました。お祈りの後に「イエス様がいつまでも心の中にいて下さいますよ。イエス様は『わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない(ヨハネ14:18)』と約束しておられます。イエス様―といつでも呼んで下さい」と伝えると、涙を流して「うれしい」と感謝していました。私と現地の牧師さんがが用いられて、山奥にいる孤独な人にキリストの愛を分ち与えることができたことを主に感謝します。
第三に、キリストによって愛されていることを感謝しましょう。
ヘロデ王、祭司長たち、律法学者たちは、旧約聖書によってキリストの生まれた場所を知っていながら、キリストを礼拝しに行くことを拒否しています。キリストを前にして、人は信じるか、信じないかを決めなければなりません。私たちは幸いにもキリストの愛を受けて、キリストを信じるという決断に導かれたことを感謝します。「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」(イザヤ45:22)と告げられています。キリストの十字架を仰ぎ見ることだけが求められています。今朝、私たち全ての者の目が生けるキリストを仰いで、心に救いと愛を与えられていることを感謝しましょう。

2、キリストを礼拝する者は豊かな祝福を受ける。2:11-12

そして、家に入って、母マリヤのそばにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。(2:11-12)

博士たちは、神の御言葉に従い、また星の導きの下にキリストのおられる所にたどり着くことができました。キリストが誕生された時、野原にいた羊飼いたちが,天使に導かれて礼拝を捧げにやって来ました(ルカ2:15-17)。そして、きょうの箇所では博士たちが礼拝に来ています。名もなき人々が真っ先にキリストを礼拝し、今度は遠く離れた外国の博士たちが礼拝を捧げています。私たちも名もなく、貧しい者ですが、神の独り子イエス・キリストの誕生であるクリスマスを迎え、お祝いし、キリストを礼拝する者の一人になっていることを感謝します。

*2:11-12、博士たちの礼拝を通しての恵みを見て参りましょう。


第一に、博士たちは、まず何よりもキリストを礼拝しています。

博士たちは長旅の疲れもあったでしょうし、時刻は夜ですし、少し間をおいてから礼拝することも出来たでしょうが、しかし、まず真っ先にキリストの前にひれ伏しています。礼拝こそキリストを求め、信じる者のなすべきことであることを教えられます。
❶クリスチャンは礼拝の民です。博士たちはキリストのおられる所に来て礼拝を捧げました。今、私たちはどこにあっても礼拝を捧げることができます。キリストは私たち信じる者の心の中に住んでおられます。キリストは、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束されました。キリストを信じる者の集まりが教会です。今こうして集まっている中心にキリストがおられます。
❷クリスチャンにとって礼拝は命です。礼拝の素晴しさは共に集まるということです。キリストを中心にして共に集まり、祈り、讃美し、励まし合い、奉仕をするということが恵みとなって心にたくわえられて行きます。キリストは言われました、「わたしにつながっていなさい(ヨハネ15:4)、わたしの愛のうちにいなさい(ヨハネ15:9)」。
❸クリスチャンにとって礼拝は喜びです。愛と喜びの源はキリストです。クリスチャンは喜びの民です。つらいこともあるし、問題もあるし、病気もあるが、キリストにすがって行く時に、キリストが重荷を背負って下さる、そして私たちの心に平安を与えて下さいます。

第二に、キリストに自分たちの宝物をささげています。

礼拝を捧げることは、キリストに私たち自身を捧げることです。自分自身を捧げる印として、博士たちは黄金、乳香、没薬をキリストに捧げています。

「黄金」は地上のあらゆるものに勝って、不変の価値を有しているものと言われています。キリストは王の王であることを示しています。また、キリストは主の主であるということも示しています。キリストこそまことの神であり、私たちを救う唯一の救主であることを表しています。

「乳香」は礼拝の時に使われるものです。また祈りを表していま。私たちはキリストを神として崇め、またキリストに祈りを捧げ、その祈りは聴かれて行くと信じています。

「没薬」は死んだ時に体に塗るものです。キリストが人間の救いのために十字架にかかり、罪の身代わりになって死ぬことを表しています。

博士たちはキリストを愛する心を捧げ物という形で表しました。キリストは言われました、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒20:35)。キリストの一生は与える一生でした。キリストの与えて下さった最大のものである十字架の愛に感謝し、私たちも喜びをもって捧げましょう。

*どのようにして捧げるのか・・・「時と財をキリストに捧げることです」。

「時」とは礼拝、祈り会出席、奉仕などキリストを最優先する生活をすることによって表されます。聖書を読み、祈る時間よりもテレビを見たり、ゲームをする時間のほうが多くては困ります。与えられた一日24時間をキリストのために正しく管理して行くことが大切です。

「財」とは献金という形で表されます。私は、思いきって献金を捧げることが祝福になるということを体験しています。いただいた最初の十分の一を神様に捧げることが献金の出発です。献金は目に見える形で神様からの祝福を受けることができます。神様を試みていけないのですが、例外として、神様は「献金を通して恵まれるかどうかを試してもよい」と言われています。

第三に、キリストを礼拝し、キリストに捧げて行く者は守られるということです。

12節をご覧下さい。博士たちはヘロデ王に会わないで、別の道から帰国しています。ヘロデ王に会えば、間違いなく殺されていました。キリストは、信じる者を守り、逃れの道を備えて下さいます。牧師としていろいろ祈るべき課題を抱えていますが、どんな苦境の中にあっても、また病気の中にあっても、主を第一にしている方々のことを思うと、祈っている私が励まされます。主は別の良い道を必ず示して下さることを信じて日々に祈っています。



まとめ

1、2:1-10、キリストの誕生を信じ、受け入れる者は幸いを受けます。キリストの救いを受け、愛を受けて恵まれます。キリストの救いの恵みに感謝を捧げましょう。

2、2:11-12、キリストを礼拝する者は豊かな祝福を受けます。いつでも礼拝が最優先です。

クリスチャンは礼拝の民です。礼拝はクリスチャンの命です。礼拝はクリスチャンに喜びをもたらします。キリストに時と財を捧げることを実践して行く時に祝福が与えられます。

礼拝を捧げる者は守られます。神様は別の祝福の道を備えて下さいます。



祈 り

天地の主である神様、クリスマスが近づいて来ました。私たちを救うために来られたキリストの恵みに感謝を捧げます。キリストは救いを求める者に、分け隔てなく救いを与え、愛と喜びを満たして下さる救主であることを感謝します。真心からキリストの救いに感謝し、キリストを讃美する日々をおくらせて下さい。私たちは礼拝の民であることを感謝します。クリスマスの全ての準備を祝福して下さい。病気の方々に平安を与え、速やかな回復を与えて下さい。試練の中で戦っている方々に逃れの道を速やかに示して下さい。今週も祈り会を祝福して下さい。早天祈祷会を祝福して下さい。私たちの愛する主イエス・キリストの尊い御名によって祈りと願いとを捧げます、アーメン。





参考文献:マタイ注解―シンプソン、黒崎、米田、バークレー、Ryle、文語新約略註、フランシスコ会、LANB。 「新約聖書小辞典・山谷・新教出版社」