クリスマスーキリストを心に迎える日― ヨハネ黙示録3:20―22     

主の2009.12.20クリスマス礼拝


*主の2009年クリスマスおめでとうございます!



私たち夫婦が熊谷開拓伝道に遣わされた最初の年1968年、クリスマスは8名が集い、キリストのご降誕を祝いました。8名のうち1名は家内のお腹の中でクリスマスを祝い、翌年生まれた子どもは、現在は諏訪で牧師夫人として開拓伝道を進めています。あれから月日を重ねて、私たちが熊谷で迎えるクリスマスは今年で41回目です(私は神学生、独身時代を入れると43回目)。

主の2009年クリスマスを多くの方々とお祝いできることを感謝します。この後に3名の方々の洗礼式があります。教会に新しい神の家族が加えられることは大きな喜びです。個人的な事ですが、私の姉の娘すなわち私の姪・知子とその主人が洗礼を受けることは、私たち夫婦にとって心の底から「超うれしいー!」神様からのクリスマスプレンゼントです。午後は明日の教会を担う子供クリスマスの集まりがあります。夜7時からクリスマス夕べの礼拝を行います。23日(水・祝)はクリスマスの集いを行田商工センターで行いますが、50名以上の新しい方々を加えて、全体で180名を越える方々が集う予定です。

本日はヨハネ黙示録3:20-22です。20節、キリストは、「わたしをあなたの心の中に迎え入れて下さい」と、私たちの心の戸をノックしています。私たちの心は罪で汚れているかもしれませんが、キリストを心に迎え入れると、罪は赦され、汚れは清められ、喜びが与えられます。キリストは私たちの心の中に永続的に住んで、中から、内から私たちを支え、導いて下さいます。私たちの心の真ん中にキリストを迎え、クリスマスをお祝いしましょう。



内容区分

1、キリストは、私たちの心の戸をたたいている。3:20

2、キリストは、「耳を開いて、御霊の言うことを聴け」と言われる。3:21-22

資料問題

本日の箇所は復活のキリストがラオデキヤ教会に告げたメッセージの結論である。ラオデキヤ教会は平穏無事な時代の中にあって、教会はある程度の成長を遂げ、自己満足に陥っていた。彼らの信仰は生ぬるく、鈍感になり、心の戸はキリストに対して閉じられていた。キリストは彼らに近づき、心の戸を開いてキリストを迎え入れるように促している。20節「食を共にする・ダイプナイン」、ここで言われている食事は、一日のうちの最も主要な食事を言い、普通は夕食。一日の仕事が終わってから、ゆっくり、くつろいで食べるもので、時間に制限されずに心ゆくまで交わりを楽しんだ。この事から、食を共にするとはキリストとの親しい交わりを意味している。21節「わたしの座につかせよう」、個別のイスではなく、長イスのようなもの。私たちは勝利のキリストの座に共に坐ることができる。22節「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」、キリストの言はすなわち御霊の言である。肉体の耳ではなく、霊の耳(複数形)をもって霊の言(キリストの言)を聴くのである。



1、キリストは、私たちの心の戸をたたいている。3:20

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。(20節)



キリストは人々に、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」と呼びかけています。救主であるキリストの方から人の心の戸をノックしています。世の中の宗教は、説得、論争、脅しなどによって、無理やりに自分たちの教えの中に人を引きずり込もうとします。また、「いい話がありますよ」と自分たちの身分を隠して近づき、多くの人々を洗脳して考える力を奪い、自分たちの組織の中に引き入れてロボットのように働かせる偽宗教があります。キリストは、初めから自らを明らかにして私たちに呼びかけ、キリストの招きの言葉を聴いた者が、自分の決断で信じるようにと願っています。



*20節を通して教えられるキリストの恵みに注目して参りましょう。



第一に、キリストは、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と言われる救主です。

キリストは、人々の心の戸口にたって、「わたしを迎え入れて下さい」と呼びかけています。この事から、神様の側から人を捜し求めるという驚くべき真理を知ることができます。世の中の宗教は、いつでも人間の方から神様を尋ね求めて行きます。神様を見出すために高い山に登り、滝に打たれ、断食をし、高額のお布施を寄進し、何千巻もある経典を学んだりします。いつも人間の方から神様を求めて行くのですが、しかし、この方法で神様に到達したものは誰ひとりありません。

聖書の教えが他の宗教と根本的に異なる点は、「人間の方から神を求めるのではなく、神がまず最初に人間を求められる」ということです。キリストは神の独り子として天の栄光の中におられたお方ですが、私たち人間を救うために、栄光の位をかなぐり捨てて、最初のクリスマスの晩に地上で最も貧しい場所である馬小屋に生まれました。キリストが最初に寝かされた所は飼葉オケでした。キリストが王宮で誕生すれば、特定の人々だけしか近づく事ができません。そこで、キリストは、全ての人の救主になるために、身を低くして最も貧しい所に生まれ、誰でもキリストに近づけるようにして下さったのです。

京都に行くと大小のお寺がありますが、少し有名な寺は拝観料を払わなければ中に入ることができません。中に入れば重要文化財である仏像などが飾られていますが、呼んでも答えず、自分で動くことが出来ず、一定の場所に坐ったままです(置かれたままです)。寺では年の暮れになりますと、お身拭いと称して、お坊さんが仏像の上に積もり溜まったほこり・塵をきれいにします。仏像の所に行くのに拝観料というお金がかかります。せっかく行っても仏像は自分では動けずに坐ったまま無表情でいます。自分の体を自分できれいにすることもできません。何故なら、それは命がないからです。命がないから動くこともできず、話すこともできず、何の力もないのです。命のない無力なものが私たちを救うことが出来ない、ということが分かります。

キリストは、今この瞬間にも私たちの心の戸をノックしておられます。いつでも、どこででも、心の戸を開いてキリストに心に迎え入れるならば、即座に罪を赦されて救われ、永遠の命の恵みを得ることができます。

病院のベッドでキリストを心に迎えて平安を与えられ、死の恐れから解放され、安らかに死を迎えて天国に召されて行った人がいます。脱獄を何べんも繰り返した死刑囚が、冷たい刑務所の独房の中で新約聖書を読み、罪を悔い改めてキリストを心に迎え入れました。増した。彼の心は生まれ変わり、模範囚となり、法務大臣の特別許可を受けて釈放され、刑務所にいる囚人たちにキリストを伝える伝道の生涯を送りました。私の娘はイギリスの田舎で、真夜中に空に向かって、「イエス様」と呼びかけた時に、イエス・キリストがすぐに心の中に入って来られ、まことの救いを受け、今は伝道者として献身の日々を送っています。私たちも心の戸を開いてキリストを迎え入れ、クリスマスを喜び、祝いましょう。

第二に、キリストは、「わたしはその中(心の中)に入って彼と食を共にしよう」と言われる救主です。

食事を共にするという事は、親しい間柄であることを示しています。

今週の23日(水・祝日)行田商工センターで開かれるクリスマスの集いは、第一部礼拝、第二部が祝会です。

第一部クリスマス礼拝では、出席者全員の讃美、聖歌隊賛美、聖書ドラマがあります。礼拝の中心はイエス・キリストの救いのメッセージうぃ伝える時です。私の心からの願いは、クリスチャンがキリストの救いを喜び、感謝し、クリスマスを祝うことです。そして、ノンクリスチャンの来会者一同がキリストの救いに与るようにと祈り願っています。限られた時間の中でキリストの救いのメッセージを伝える私のために、聖霊の助けが豊かにあるようにお祈り下さい。

第二部クリスマス祝会は食事持ち寄りで、食べながら交わりの時があります。私たちは食べることによって心が和みます。180名の申し込みがあり、新しい方々が50名以上参加します。新しい方々に笑顔をもって声をかけ、歓迎の気持を伝えて下さい。もう一つお願いしたいことは、新しい方々を歓迎するために、皆で食事をたくさん持ち寄って下さるようにということです。

キリストは、「食を共にする」と言われています。この地方の朝の食事は一枚の乾パンをぶどう酒につけたものでした。昼食は携帯食を道ばたや町の広場などで食べました。夕食は一日の仕事が終わってから、家でゆっくりと、くつろいで食べました。これが一日の主食で、時間を制限されずに心ゆくまで交わりを楽しんで食べました。心の戸を開き、キリストを迎えた人々が、キリストと共に与る食事は、この夕食のことです。

キリストは「わたしはその中(心の中)にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたし食を共にするであろう」と言われました。これはハンバーガーを大急ぎで、歩きながら食べるという食事ではありません。吉野家に行って、牛丼をかっ込んで食べるという食事ではありません。通りがかりに立ち寄って短く形式的に訪問して、急いで食べる食事ではありません。ゆっくりと交わりを楽しみながらとる食事のことです。キリストが約束されているのは、親しい交わりのことです。心の戸を開ければ、キリストは私たちの心の中に入って来られ、いつまでも共にいて下さるのです。

第三に、キリストは「わたしの声を聞いて戸をあけるなら」と言われる救主です。

キリストは心の戸をたたいておられます。それに対し、私たちは答えることもできるし、その逆に拒むこともできます。キリストは戸をこじ開け、また戸を壊して無理やりに侵入するようなことはなさらないお方です。私たちの側でキリストを招き入れることが必要です。エマオに行く道で「イエスはなお先へ進み行かれる様子であった」ので、二人の弟子が強いて引き止めた時に、イエス・キリストは家に入られ、夕食の席で彼らに祝福を与えています(ルカ24:28-32)。

キリストは、私たちに心の戸を開けるように訴えておられます。主の2009年クリスマス、心の戸をいっぱいに開けて、私たちひとりひとりの救主であるイエス・キリストを心の真ん中に迎え入れ、まことのクリスマスをお祝いしましょう。



2、キリストは、「耳を開いて、御霊の言うことを聞け」と言われる。3:21-22

「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(21-22節)



*21-22節を通してキリストの恵みを教えていただきましょう。



第一に、キリストは「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう」(22節)と言われます。

キリストは、「わたしの座につかせよう」と言われています。キリストと共に坐るイスはどんなイスでしょうか。このイスは、ひとりひとりが坐る個別のイスではなく、長イスを指しています。それで、キリストは「わたしと共にわたしの座につかせよう」と言われたのです。キリストと同じ座につかせてもらえるということは、私たちがキリストと並んで坐るということです。私たちはキリストに近づけなかった罪人でしたが、キリストの十字架によって罪を赦され、キリストの隣りに坐るという恵みが与えられるのです。自分がキリストと並んで坐っている様子を想像して下されば、それがいかに素晴しい祝福に満ちた約束であるかが分かると思います。

第二に、キリストは、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(23節)と言われます。

この御言葉の意味を考えて見ましょう。

「御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」という呼びかけは、私たちひとりひとりにメッセージが語られているということです。聖書の御言葉は常に私自身のためです。ここに100名を越える方々が礼拝を捧げ、メッセージを聴いています。主は言われます、「回りに何人いようとも関係ない。このメッセージはすべてあなたのためである。わたしは常にあなたに向かって語っている」。

私たちはメッセージを聴く時に、「あの御言葉はあの人にピッタリだ。この御言葉は、この人のためだ」と考えながら、何故か自分を除外している場合があります。「このきびしいメッセージが私に語られるはずはない」と思ったり、「あの御言葉の約束は良すぎてなかなか信じられない」と思っている場合があります。しかし、主は「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と言われます。この意味は、「主のメッセージは全部あなたのためである」ということです。

先ほど「クリスマスメッセージのために祈って下さい」とお願いしましたが、26日(土)上野公園ホームレ伝道のメッセージがあり、

翌日27日(日)2009年最終礼拝メッセージがあります。年が明けて2010年元旦礼拝メッセージがあり、すぐに1月3日(日)礼拝メッセージと続きますので、お祈りを宜しくお願いします。

第三に、「イエス・キリストは今どこにおられますか」・・・・

聖歌に、「うちの戸をいま開き、まごころより汝(なれ・キリストのこと)を迎えん、入(い)りたまえ、住みたまえ、救主よ、わが主よ」と歌われています(聖歌85番(旧137番)3節)。私たちひとりひとりが心の戸を大きく開いて、イエス・キリストを心の真ん中に迎え入れましょう。



まとめ

1、3:20、キリストは、私たちの心の戸をたたいて(ノックして)おられます。私たちを捜し求め、心の戸をノックして下さる主に感謝します。キリストは私たちの心に入り、親しい交わりをもって、内から、中から支えて下さる救主です。

2、3:21-22、キリストは私たちをご自分と同じ座につかせて下さいます。キリストの語りかけは私たち一人一人のためです。主のメッセージは自分のためであることを覚え、しっかりとメッセージに耳を傾けて行きましょう。



*聖歌85番(旧137番)「入れまつる家あらず」を讃美し、祈りを捧げます。



祈 り  天地の主である神様、クリスマスの日に独り子イエス・キリストをこの世に遣わされ、救いの道を開いて下さったことを感謝します。誰もが近づけるように馬小屋の中に生まれたイエス様に感謝します。十字架にかかり、全ての人に救いを与えるために来られたイエス様に感謝します。ここにいる全ての人がイエス・キリストを心に迎え、まことのクリスマスをお祝いしていることを信じ、感謝します。洗礼式を豊かに祝福して下さい。午後の親子クリスマス、夜のクリスマス礼拝、23日(水)クリスマスの集まり(於:行田商工センター)、26日(土)上野公園ホームレス伝道、27日(日)2009年最終礼拝及び感謝会、1月1日(金)元旦初詣礼拝、1月3日(日)2010年第一回聖日礼拝を聖霊によって導いて下さい。我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:黙示録注解―黒崎、バークレー、文語新約略註、フランシスコ会、LABN、米田、佐竹。