信仰の勝利 詩篇73:1-28          主の2010.5.9礼拝

テレビ番組の中で根強い人気を保っているものに時代劇があります。代表的なものでは、「水戸黄門」、「大岡越前」、「遠山の金さん」、「暴れん坊将軍」などが何十年にもわたって放送されています。それらの番組が多くの人々に好まれる理由は、物語の筋が「勧善懲悪」であるからです。例えば、「水戸黄門」では、最初は悪い者が幅を利かして善良な人々を苦しめています。そこへ、元副将軍という立場にいたご老公・水戸光圀が出現することによって、悪い者達の罪があばかれ、審かれ、善良な人々には助けが与えられ、万事が目出度し目出度しで終ります。
この世では、悪人が我が物顔に威張り散らし、好き勝手に生きている場合が多く見受けられます。その一方で、正直に、真面目にコツコツと働いている人たちが差別、圧迫を受け、虐げられている場合が数多くあります。そうした中にあって、悪人が必ず滅び、善良な者が助けられるという物語は多くの人々に支持されていると言えます。
本日は詩篇73:1-28です。詩人は、2節で「自分は足がつまずかくばかりである(信仰的に落ち込んでいる)」と述べ、その原因は、3節で、「悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と言っています。それは、3-15節にあるように、神様を信じない者が栄え、我が物顔にふるまっている様子を見ているからです。ところが、16節の「しかし」という言葉によって、落ち込んでいた詩人の信仰は回復され、17-22節に、神様を信じない者たちの末路が示されています。そして、23-28節に神様を信じる者に与えられる祝福が、力強い確信として歌われています。
聖書の示す創造主である神様は生きている神様です。水戸黄門のような架空の物語ではなく何があろうとも、神様を信じる者を見捨てることなく、決して忘れることなく、見離すことなく、守り、支えて下さいます。今朝、詩篇73:1-28を通して、主なる神様の語りかけを聴き、祈って、信仰の道を進んで行く決断を捧げ、新しい一週間の旅路へ出発して行きましょう。


内容区分
1、神様を信じているが、信仰の疑問を感じる場合があることが正直に歌われている。1-15節
2、神様を信じる者に与えられる信仰の勝利が力強く歌われている。16-28節
資料問題
本篇は、詩篇37篇、49篇、またはヨブ記のように、義人が患難にあるのに反して悪人の繁栄するのを見て、思慮深い人の心に自ずと起る人生の疑問を取り扱っている。詩人は、前半のほうで、悪しき者の栄えを見て、心の中で悩み、苦しんだことを述べている。しかし、後半のほうで、詩人は神殿に入り、悪しき者の最後を神様から知らされ、神様に従うことの喜びを歌っている。

1、神様を信じているが、信仰の疑問を感じる場合があることが正直に歌われている。1-15節

神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。(1-3節)


「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」(1節)
正しい者、心の清い者とは、常に神様を見上げ、心と行いにおいて神様に忠実であろうとする人のことです。神様はそのような人に恵みをもって報いて下さいます。詩人は「まことに恵みふかい」と言って、「まことに」ということを強調しています。それは2節以下にある信仰の疑問という体験を通して、やはり神様は恵みふかいということを再確認した信仰の確信であったからです。
「わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった」(2節)
詩人は、「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって恵みふかい」という信仰に生きてきました。ところが、ある時から、その信仰を疑うようになったという心の動揺を述べています。私たちも信仰を疑わせるような事柄に巻き込まれ、あるいは信仰生活の中で思わぬ出来事に見舞われます。神学生の時、ひとりの男子学生が私たちのクラスに加えられました。彼は長い闘病生活の中で癒やされ、献身してきたのですが、体調を崩して休学し、再び元気になって学びを始めることになったのです。ところが、卒業一年前に病が再発し、入院しました。クラス全員で、時には断食をして彼の癒やしのために祈りましたが、召されて行きました。遺体を神学校に運んで祈り、その次に母教会に搬送し、火葬をいたしました。あれほどみんなで祈り、主の癒やしを信じていたのに、「なぜ」という思いが私の心に去来しました。それは、詩人が歌った「わたしの足がすべるばかりであった」ということであり、私の信仰が試された出来事であったことを思い出します。(なぜという信仰の疑問から解放され、そこから立ち上がれたことを感謝します。機会があればその時の体験を話します)

「悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者を憎んだからである」(3節)
自分の回りにいるクリスチャンや指導者に躓いたのではありません。詩人は、世の中を見て、悪しき者が栄えているのを見て、信仰に動揺をきたしています。悪しき者とは、神様を信じない者、高ぶる者、暴力を衣のようにおおう者、あざける者、悪意をもって神様をののしり、人を傷つける者です。そんな彼らが栄えている、苦しみがない、その身は健康で艶(つや)があり、打たれることなく、常に安らかであり、その富が増し加わっています。詩人は、「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって恵みふかい」と信じているのに、神様は悪しき者を栄えさせているではないかという疑問をもって、葛藤し、悩んでいます。

「わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った」(13節)
詩人は、悪しき者の栄えるのを見て、「神様、これでいいんですか」という神様への疑いの気持を強くしています。悪しき者は、暴力、賄賂、暴力に頼っているが、詩人はひたすら神様を見上げること、純粋に神様を信じて行くことを願って、心をきよめ手を洗って、神様に信頼する態度を示しています。ひたすら神様に頼って、信仰第一に生きてきたはずですが、しかし、「ひねもす打たれ、朝ごとに苦しみを受ける」だけで、悪しき者の受けている繁栄を得ていないと嘆いています。詩人は「いたずらに、無意味に心をきよめ、手を洗っているような思いでいる、自分の心は恵まれていない」と嘆いています。
詩人は、悪しき者が栄え、見たところ羨ましい生活をしていることを見て、心にそれを羨み、信仰の動揺をきたしたことを告げています。しかし、ここで考えておきたいのです。よく言われることですが、別に神様を信じなくても、この世で繁栄している、自分は豊かになっている、だからこれでいいのだと思う人々がいます。これは実に危険な考えで、そこから滅びが始まって行きます。この世において繁栄する時に、目の前の楽しみだけに満足してしまい、永遠に対する目が閉ざされてしまうからです。

先日、北東教区聖会が北区の滝野川会館で開かれました。道路一つを越えると、西洋式庭園の古河庭園があります。そこから少し行くと中央聖書神学校があります。神学校は、昔はある大名の屋敷があった所です。そこから少し行き、JR駒込駅を過ぎると徳川将軍の側近であった人の庭園・六義園があります。財閥として大きな古河庭園をつくり上げた人はいなくなり、権勢を誇り、六義園を築き上げた大名もいなくなっています。キリストは言われました、「たとえ人が全世界をもうけても(手に入れても)、自分の命を損したら(死んだら)、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ16:26)。
詩人は、悪しき者が栄えるのを見て、信仰が動揺しました。私たちも物質的に繁栄している世
の人を見て、心が揺れ動くことがあるかも知れません。しかし、忘れないで下さい、お金や物によって、真の平安を得ることはできません。お金があって最新の薬を買いこんでも、健康は手に入りません。お金があってたくさんの美味しい物を手に入れても、食欲は買えません。お金があって豪華な家を造っても、家族団欒(だんらん)の喜びを買うことはできません。詩人は、悪しき者の繁栄するのを見て、大いに悩み、信仰が揺れ動きました。しかし、神様は愛です。16節以下に神様の答えを与えられて、詩人の心は喜びにあふれ、「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」(25節)という神様への信頼を声高らかに歌っています。

2、神様を信じる者に与えられる信仰の勝利が力強く歌われている。16-28節

しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった(16-17節)。しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神を避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう(28節)。



「しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしに面倒な仕事のように思われた」(16節)

詩人は悪しき者が栄えるのを見て、「思いめぐらして」います。「神は正しい者に向かい、心の清い者にむかって恵みふかい」ということが本当であるとするならば、なぜ神様を信じない悪人が栄えているのかという疑問がある。神様を信じる者が「打たれ、懲らしめられている」のはなぜか。「これを思いめぐらしても、面倒な仕事(分からないままで終る苦役)のように思われた」と言っています。詩人は切羽詰ってしまいました。その時、「聖所に行く」という導きを与えられ、彼は決断して聖所に行きました。人間がいくら考えても分からないことがたくさんあります。その時こそ、神様の答えを得るために「聖所(教会)」に行くことが、その問題に対する根本的解決をもたらします。



なぜ聖所に行ったのかということを考えてみます。

それは神様の御言葉を聴くためです。詩人は、祭司を通して神の御言葉を聴いたと思います。祭司は、神の御言葉を朗読し、その解説をします。詩人は聖所に行き、祭司から直接に神様の御言葉を聴く、そして御言葉を瞑想したと考えられます。

現代の私たちは、キリストを信じる者の群れである教会につながっています。日曜日ごとに、主イエス・キリストの復活を祝い、記念し、共に集まり、礼拝を捧げています。日本で約8000のプロテスタント教会が礼拝を捧げています。関東には約2600の教会があり、埼玉には約400の教会があり、熊谷には約10の教会があります。



*そこがまことの教会である証は、次のとおりです

①聖書を信仰と生活の唯一の基準としていること、

②イエス・キリストを救主であり主と告白していること、

③キリストを中心にして、互いに愛し合い、赦し合い、祈り合って行く群れであること、

④讃美を歌う喜びにあふれていること、

⑤聖霊に頼って、キリストを喜び、キリストを伝える群れであること。



今週も礼拝に出席し、神の御言葉が開かれ、今朝は詩篇73篇を通して、メッセージが語られています。御言葉は心の中に浸透し、そこに根づき、私たちを霊的に成長させます。個人的には、毎日聖書を開いて、少しずつ読み進んで行くことが大切です。私たちが聖書を読むことから遠ざかる原因のひとつに、一辺にたくさん読むということがあります。いっぱい読んだので、少し休んでも大丈夫いう安易な気持になって、次に読むまでに間が空いてしまうのです。私たちはご飯を日に三度食べています。今週は忙しいので、一週間分食べ溜めをします、ということはできません。毎日食べることが食事の基本です。聖書は心のご飯です。毎日食べることが心を丈夫にします。教会の聖書日課は無理なく聖書を読み進んで行くのにちょうど良いペースになっています。キリストは聖書の人でした。キリストがたくさんの旧約聖書を引用していますが、全て頭の中に覚えていて、その場にふさわしい御言葉を語っています。

「彼らの最後を悟りえたまではそうであった」(17節)

詩人は悟ったと言っていますが、それは御言葉を聴き、心に答えを与えられたということです。詩

人の悟ったことは何かといえば、それは悪しき者の最後です。彼らの最後がどうなるのかを知り、悟ったのです。今は悪しき者がえているかもしれない。だが大事なことは、最後です。悪しき者

が栄えているのは、僅かの期間である。神様は万物を創造された力をもって、私たちに最後の勝利、永遠につながる勝利を与えて下さるのです。

悪しき者の最後は何か・・・それは滅びです。今は繁栄し、おごり高ぶっているが、間違いなく彼らの最後は滅びである、「彼らはまたたく間に滅ぼされ、恐れをもって一掃される」(19節)と言われています。滅びに陥ることは恐ろしいことです。悪しき者は、永遠の滅びの中で昔の繁栄を思い起し、世々限りなく苦しんで行かなければならないのです。

「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」(23-24節)

詩人は21-22節で、自分が不信仰であったことを悔改めています。そして自分が不信仰な思いをもって、神様に疑いをもっていた時にも、神様から離れずにいたことによって、神様の助けがあったことを感謝し、そのことを歌っています。

ある方が救われ、全集会に出席し、メッセージを丹念にメモして恵まれていました。しかし教会の中で人間関係がこじれ、その方は教会を離れました。教会を離れても結構やって行けるではないかと思っていました。ところがある大きな試練を受けて、このまま行けば滅びであることに気づかされ、神の御許に帰る決心をしました。神様に「わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」(22節)ということを悔改め、再出発しました。長い間のブランクの時にも、自分を支えていて下さった神様に感謝を捧げ、信仰の生涯を全うして天国へ召されて行きました。

本当に大事なことは、繁栄することでもなく、健康であることでもなく、成功することでもなく、長生きすることでもなく、人から注目されることでもなく、神様が共にいて下さる事、常に神様が導いて下さる事、そして勝利に導いて下さる事を信じることです。時には、神様につぶやき、愚かな獣のようであったことを悔改め、神様に従って行く決断をし、祈って下さい。

「しかし神に近くあることはわたしに良いことである。

わたしは主なる神をわが避け所として

あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう」(28節)

新約の時代に生きる私たちは、キリストの十字架を通して救われ、永遠の命を受けています。死を滅ぼして復活されたキリストは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)という約束をもって、私たちの心の中にいて、支えて下さっていることを感謝します。



お祈りを捧げます。

天地の主である神様、詩人アサフの信仰を通して、神様に頼ることの大切さを教えていただき感謝を捧げます。私たちの周りには、神様を信じない者が権勢を誇り、経済的に繁栄し、神様を嘲っています。そうしたことを見聞きしても、躓くことなく、心が揺らぐことがないように導いて下さい。神様を信じない者の最後は滅びです。神様を信じる者には勝利が約束され、神様が人生を支え、天の御国に導いて下さることを感謝します。神様に近くおらせるために、キリストの十字架の恵みが与えられたことを感謝します。復活されたキリストが心の中に住み、支え、守って下さることを感謝します。もし信仰の動揺がある方がいれば、神様の愛と力とをもって覆い、信仰の喜びを心に満たして下さい。病の方々に平安を与え、癒して、回復させて下さい。信仰の戦いの中にある方々に逃れの道と共に勝利の道を備えて下さい。午後からの野外親睦会を祝福し、事故、危険から守られ、主にある交わりを通して恵まれますように導いて下さい。ゴスペルの集まり、夜の礼拝も祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によってこの祈りを天の神様に捧げます、アーメン。



参考文献:詩篇注解―浅野、米田、フランシスコ会、文語旧約略註、岸井、LAB、「旧約聖書一日一章・榎本・主婦の友社」、「幸せはここに・盛永・新教出版社」