主の招きと選び ルカ5:1-11 主の2010.1.10礼拝
これから受験シーズンに入り、幼稚園のお受験から大学受験に至るまで各地で試験があります。世の中はお笑いブームで、お笑い芸人養成所には多くの若者が集って必死になってお笑いを学び、コンテストを通して認めてもらい、テレビ出演を狙っています。入学試験は学ぶ学力があるかどうかをテストして、入学者を決めます。お笑い芸人志望者は、コンテストを通して世間に認めてもらい、テレビなどに出演できるようになります。
本日はルカ5:1-11です。10節で、イエス・キリストはペテロに対し、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と声をかけています。これは「わたし(キリスト)の弟子になりなさい」という招きの言葉で、ペテロは主の招きに応じて弟子になっています。ペテロが弟子になれたのは、人よりも信仰が強く、また弟子試験に合格したからである、とは言われていません。ペテロは、最初は「沖へ漕ぎ出し、網をおろせ」というキリストの御言葉を疑いますが、キリストの命令に従っています。彼が網をおろすのを嫌がったのは、長年の漁師の体験から、日中は魚は湖の底にいるので、網をおろしても獲れないことを知っていたからです。ところが、舟が沈みそうになるくらい魚が獲れたのです。ペテロは、キリストの神としての力を目の当たりに見て、即座にキリストの弟子になっています。彼がキリストの弟子になれたのは、キリストが彼を招いて下さったからです。今朝主イエス・キリストは、私たちひとりひとりに対して、「わたしの弟子になる決断をして、わたしに従って来なさい」と呼びかけておられます。ご一緒に、主のメッセージに耳を傾けて参りましょう。
内容区分
1、主の御言葉に従う時に、主の恵みを体験することができる。5:1-10前半
2、主の招きに応じて、主の弟子となって進んで行こう。5:10後半―11
資料問題
1節「ゲネサレ湖」、ガリラヤ湖のこと。湖の西北岸にあった肥沃な地ゲネサレにちなんでゲネサレ湖と呼ばれた。キンネレテの海、テベリヤ湖とも言われる。南北20キロ、東西12キロ、深い所は60メートル、海抜下207メートル。魚に富み、景色も美しい。4-5節にペテロの名前だけが出ているが、兄弟アンデレもいたと思われる(マルコ1:16参照)。8節「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」、ペテロはキリストのなされた奇蹟を見ていたので(4:38-40、ペテロの姑のいやし。4:40-41、大勢の人々の病をいやし、悪霊を追い出した)、心はすでに準備されていた。この大漁の奇蹟によって、キリストの神としての権能、聖性に触れて、自分の卑しさを素直に認め、謙遜になっている。10節「人間をとる漁師」、ペテロは魚をとっていたが、今後は人をキリストのもとに導くという務めを与えられ、魂を勝ち取る者になり、キリストの弟子として生きるのである。
1、主の御言葉に従う時に、主の恵みを体験することができる。5:1-10前半
話がすむと、シモンに「沖へ漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(4-5節)。これを見てシモン・ペテロはイエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、私から離れてください。わたしは罪深い者です」(8節)
キリストが伝道して歩かれたイスラエルの地域は、日本の四国ぐらいの広さです。湖が二つあり、一つは塩の湖として有名な死海、もう一つが本日の舞台になっているゲネサレ湖で、ふつうはガリラヤ湖と呼ばれています。キリストは、押し寄せる群衆を見て、漁から帰って来たペテロの舟に乗り込んで、そこから聖書の話を語っています。話が終わり、ペテロはこれで休めると思っていたのですが、キリストから、「沖へ漕ぎ出し、漁をしてみなさい」と言われます。ペテロは答えます、「先生、これからですか。私たちは魚が湖の上に上がってくる夜を狙って、一晩中網をおろしたのですが、一匹もとれませんでした。日中は魚は湖の底にいて、網にはかかりません。しかし、先生のお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。ペテロはキリストのお言葉に従って網をおろしたところ、とれるはずのない日中に、舟が沈みそうになるほどの多くの魚がとれるという奇蹟を体験します。
*キリストの御言葉(聖書)に従うことが信仰です。
ペテロは、長い間の漁師の経験から、魚は明るい時は湖の底に潜んでいて、網をおろしても魚が網にかからないことを知っていました。キリストは漁師をしたことがないので、魚とりのことは知らないはずですが、ところがペテロはキリストの御言葉に従っています。彼がキリストの御言葉に従ったのは、4:38-41で、キリストによって自分の姑が熱病を癒されたこと、多くの人々が癒され、悪霊を追い出してもらったことを直接に見ていたからです。さらに彼がキリストに従ったのは、キリストを特別なお方であると思っていたからです。そのことは、5節で、キリストを「先生」と呼んでいる呼び方から推測できます。ここで使っている「先生」とは、律法の教師に対する「ラビ(先生)」という言葉ではなくて、「上に立つ者エピスタテース」という意味の言葉で、人間以上のお方であるという意味を込めての呼び方です。ペテロは、最初は夜通し働いて一匹も魚が獲れなかったことを訴えていますが、自分の姑の高熱を癒して下さった人間以上のお方であるキリストの御言葉を受け入れ、「しかし、お言葉ですから、網をおろしましょう」と言って、キリストの命令に従っています。
このことから教えられることは、神の御言葉に従うことが信仰の原型、信仰の基礎であるということです。神の御言葉に従うとは聖書に従うことです。現在はキリスト以前の旧約聖書39巻、キリスト以後の新約聖書27巻が一つになって聖書66巻になっています。聖書は神の言葉の集大成です。聖書を読んで下さい。毎日キチンと、何でも食べれば健康が保たれます。聖書もキチンと、規則正しく読むことが大切です。規則正しく読むため、毎日旧約聖書1章、新約聖書を1章ずつ読む聖書日課があります。2年5ヶ月で旧約全体を読み、その間に新約を3回半読むことができます。聖書を読めば読むほど、心は恵まれます。祈りの力が与えられます。祈ることによって生きる知恵が与えられ、迷いのない人生を生きて行くことができます。
*「しかし」という言葉の後に信仰があり、信仰はキリストに従うことです。
ペテロは、キリストの「漁をしなさい」という命令に対して、と自分の考えに固執せず、「しかし」と言って、自分の考えを捨てて、キリストの考えに焦点を合わせ、従っています。自分の考えか、キリストの御言葉か、あれか、これかではなく、「どんなことがあっても、しかし、私はキリストの御言葉に従います」、というのが信仰です。
昔、ギリシャにダブリンという人がいて、1匹のロバを飼っていました。そのロバの前に二つの飼葉オケが並べてありました。ロバはお腹がすいて一つの飼葉オケから食べようとして、ちらりと隣りの飼葉オケを見ると、そちらも美味しそうです。あわてて最初のものからではなく、隣りの飼葉オケから食べようとしたのですが、すると今度は最初の飼葉オケが気になりました。右か左か、あれかこれかと迷っているうちに、ロバは飼葉オケの間で飢えて死んでしまいました。ペテロは、あれかこれかではなく、「しかし、御言葉ですから」ということでキリストに従って祝福を得ています。
アメリカのとうもろこし畑で、ひとりの青年が、かたわらで働いている仲間に話しかけました。「ムーデーくん、僕が働きに出る時に、母が聖書を開いて、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)は、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ6:13)という御言葉を読んで、どんなことがあっても、この御言葉を忘れてはいけませんよ、と教えてくれたのだ。それから町へ出て仕事を探しつつ、日曜日に教会へ行ってみた。そしたら驚いたね、『まず神の国と神の義とを求めなさい』というメッセージだった。それから仕事探しに別の町へ行き、日曜日に教会へ行くと、牧師さんが『青年よ、まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)は、すべて添えて与えられるであろう』と言われた。僕はその夜、静かな墓場で考えた。「今すぐに神様に従おうか。それともお金をもうけてから従おうか。ムーデーくん、僕はお金をもうける道を選んだが、そしたらその時から、神様の御声はやんでしまった」と言って、悲しげにうつむいてしまった。ムーデーは神様に従い、伝道者になりました。ある日、むかし、一緒に畑で働いていた青年のことを思い出し、ブラットル・ボローの病院に入院していることがわかり、お見舞いに行った。するとひとりの老人が古びた聖書を膝の上に置いて、「青年よ、まず神の国と神の義とを求めなさい・・・」と熱にうなされるようにして繰り返し言っている姿を見ました。
イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従うことは、今です、きょうです。あれかこれかではなく、すぐに神様の御言葉に従うことが祝福につながります。
2、主の招きに応じて、主の弟子となって進んで行こう。5:10後半―11節
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(10節後半―11節)
奇蹟の漁を体験したペテロは、8節、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んでいます。「主よ」というのはキリストを神として呼んでいる言葉です。「わたしは罪深い者です」トは、「私はきよい神様の前に出られない罪人です」と自らの卑しさを素直に認めている、謙った告白です。それに対し、キリストは「恐れるな」と呼びかけています。人の心から恐れを取り除き、すべての人をやさしく受け入れて下さるキリストの愛の呼びかけです。この時からペテロと一緒にいた仲間達も、キリストの弟子になって、一生を通じて信仰の道を歩み続けて行く者になります。
*キリストは私たちを選び、召してくださる救主です。
ペテロはキリストの弟子になっていますが、それはキリストの一方的な選びと招きによることです。キリストはペテロ達が役に立ちそうだからということで、彼らを弟子にしたのではありません。彼らに特別な学歴があったわけではありません。弟子達は無学の、ただの人たちであると言われているからです(使徒4:13)。キリストは、ご自分の働きを助けてくれる有能な人を必要としたわけではありません。キリストは最も大切な瞬間はただひとりで使命を果たしておられます。例えばゲッセマネの祈り、十字架、復活などはキリストただひとりの働きです。
それでは、なぜ、キリストは弟子達を選び、私たちを選んだのでしょうか。その理由はたった一つ、それはキリストの愛です。キリストが愛をもって多くの人々の中より、私たちを選んで下さったからです。キリストは言われました、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)。私はこの御言葉が真実であることを実感します。私が高校生の頃、一クラス55人でした。休み時間に聖書を読んでいたら、友達が「キリスト教の本だ。キリスト教はいいよな」と言ってくれたのを覚えています。しかし、多くの級友に声をかけたのですが、教会に行ってくれたのは55人のうち6名でした。みんな私より頭の良い友達でしたが、結局クリスチャンとして残ったのは私一人でした。なぜ自分がクリスチャンになれたんだろうかと考えている時に、「我なんじらを選べり」という御言葉に接し、神様の愛の選びによって救われているのだということを感謝しました。本日は洗礼式があります。12月20日に続いて、キリストが私たちの教会に救いの喜びを満たして下さっていることを感謝します。
*キリストは私たちを選び、奉仕の場に召して下さっている。
私たちは救いをいただいて、様々な奉仕に携わるようになります。命を捨てて十字架にかかって下さったキリストの愛に感謝して、奉仕ができることを感謝します。私たちは奉仕を通して、具体的にキリストに仕えて行くという恵みを得ることが出来ます。自分のためにだけ生きる人生は、つまらないものであると思います。奉仕を通して、キリストのために、人のためにお役に立ち、教会の働きを進めることに加わることを通して喜びが与えられることを感謝します。
話は変わりますが、明日午後2時からTさんの告別式を行います。Tさんは10年ほど前にクモ膜下出血で倒れ、奇蹟の快復をし、東京に移られ、ここ最近は妻沼の施設に入っておられました。暮れに、今は軽井沢で暮している娘さんの所に行かれたのですが、28日に具合を悪くし、緊急入院となり、5日午前4時に天に召されて行きました。Tさんは20年以上も入っていた立正佼成会をやめて、大阪から熊谷に来られて、1991年個人伝道を通してキリストを信じ1993年12月5日に洗礼を受け、熱心に信仰生活を送っていました。素晴しいことにご主人は1993年8月23日に救われ、9月9日天に召され、教会墓地に葬られています。東京の病院におられる時、家内と訪問をして讃美と祈りの時をもったことを思い出します。5日に召された知らせを受けて、6日私たち夫婦は軽井沢に行きました。大変安らかな、きれいなお顔をしているTさんを囲んで、お祈りの時をもちました。そして明日、脇長さんの心の故郷である熊谷の教会で告別式を行います。脇長さんとお交わりのあった方々、名前だけ知っている方々も、明日の告別式に参列して下さるようにお願いをします。Tさんの意志を汲んで、祭壇は飾らずに、いま礼拝をささげているスタイルで告別式を行います。皆さんが参列し、家族・親族を慰め、励まし、主の愛が注がれるように、祈り、讃美して下さるようにお願いします。昨日、娘さんが教会に見えました。「仕事のことなどで、教会から離れてしまい、母を教会に連れてくるこもできず、母に申し訳なかったと思っています。母を見ていると、母は寝る前に正座して、背中を丸めるようにして熱心に祈っていました。母は祈りを通して、教会へ帰りなさいと、私に呼びかけてくれていたんだと思います」と話してくれました。
Tさんは、病気になられ、教会出席ができませんでしたが、しかし、キリストに結びつき、キリストの弟子として、祈りという尊い奉仕を最後まで全うされたことを思い、胸が熱くなりました。先週は水曜集会、早天祈祷会はなかったのですが、洗礼式準備、日曜洗礼式、告別式とその準備などで、主の助けを求めて、昨日早天祈祷会を行いました。広く知らせる時間がなかったのですが、4名が集まりました。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)という約束のとおり、主の臨在の中に祈ることが出来ました、背後にある多くの皆さんの祈りに感謝します。私たちひとりひとりが主に選ばれ、救いをいただき、教会につながり、キリストの弟子として様々な分野で奉仕をし、教会の働きが推進されていることを感謝します。
まとめ
1、5:1-10前半、主のお言葉に従う時に、主の恵みを体験することができます。聖書の御言葉に先ず従って行くようにお祈りしましょう。
2、5:10後半―11、主の招きに応じて、主の弟子となって進んで行くことが大切です。選ばれていることを感謝し、主の弟子となって、奉仕の中に加わって行くようにお祈りしましょう。
祈 り
天地の主である神様、独り子イエス・キリストの救いをいただき、キリストの弟子として生きるようにされていることを感謝します。私たちはこの身を献げ、奉仕に加わって行きますので、主よ、私たちを用いて下さい。洗礼式を祝福して下さい。ファミリー、ゴスペル、臨時役員会、夕べの礼拝を導いて下さい。明日のTさんの告別式を主の愛と栄光で覆って下さい。家族、親族に主の愛が注がれるようにお願いをします。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献
ルカ注解:黒崎、フランシスコ会、米田、榊原、矢内原、LABN文語新約略解。
「ダブリンのろば・高木輝夫・クリスチャン社」