唯一の永遠の指導者イエス・キリスト へブル13:8            主の2010.1.17礼拝

世の中のものは変わらないのであろうか、という問いがあります。それに対し、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(水面に浮かぶ泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」(方丈記・鴨長明)という考え方があります。ギリシャには「万物は流転する」と説いた哲学者がいます。たしかに世の中のものは日々に変わり、人は移ろい去って行きます。そこで多くの人が心を支えるものとして神を求めます。生活を支えるために経済の安定を得たいと願います。この世だけではなく死後にも自分を支えるものを捜しています。特に多くの人々が日々に自分を支え、導く人間以上の存在に出会いたいという願いをもっています。変わらない確かなものを求めているのが私たち人間の姿であるということを思わされます。
本日はヘブル13:8です。多くの人々は活きている真の神に出会うことができずに、呼んでも答えない、命のない偶像を拝んでいます。経済の安定を願っても、経済は変動し続けています。死後のことが分からずに死を恐れています。自分を支えるものに出会いたいという願いは満たされないままです。その原因は、人間が真の神様に背き、罪人になってしまったからです。罪のため、心は偶像に迷い、頼りにならぬお金や物で心を満たそうとしても満たされずにいます。死ぬことを恐れ、自分を助けてくれるものを求めていますが、罪のために迷いの道を歩いているのが人間の姿です。迷っている人間に対し、聖書は、「イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」と告げています。キリストは活きている真の神様です。世の全てのものは変動しますが、キリストの愛は変わることなく、私たちを罪から救い出し、永遠の命を与えて、日々の生活を導いて下さる主です。主のメッセージを聴き、祈って、共に新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。

内容区分
1、キリストは、きのうをすべて清めて下さる主である。
2、キリストは現在を恵み、いつまでも共にいて下さる主である。
資料問題
へブル書の著者は不明。この著者はユダヤ人でギリシャ語に精通し、文章に巧みであり、旧約聖書の神学及びキリストの福音を理解、把握している熱心なクリスチャンであることは間違いない。本書はクリスチャンになったユダヤ人に宛てられたもの。書かれた年代はエルサレム神殿の記述のある事から紀元70年より前であろうと思われる。本書の内容は、キリストを信じる信仰が全ての点において旧約のユダヤ教に勝っていること、旧約の諸々の聖徒、儀式、犠牲その他はすべてキリストの型であり、キリストによって旧約の霊的意義が実現したことを記している。本書の目的はキリストを信じることが信仰の中心であり、キリストを離れてユダヤ教に復帰することを戒め、また迫害のために信仰を失わんとする者、信仰が停滞しつつある者を慰め、励ますためである。



1、キリストは、きのうをすべて清めて下さる主である。

イエス・キリストは、きのうも・・・・変わることがない。

この聖句は、「イエス・キリストは昨日も今日も同一であり、永遠に至るまでも同一である」ということを表しています。キリストは、私たちの過去、現在、そして将来に至るまで、一貫して変わることのない救主であることを示しています。

*キリストを信じることによって、過去はすべて清められています。

クリスチャン生活の特徴は前に向かって進むことです。うしろを振り返ってばかりいると前に進めなくなります。ある女性ですが、つき合っていた男性と別れることになりました。別れてから4年ほど経った時に、その方とたまたま少しだけ話をする機会があったのですが、別れたいきさつを繰り返し、愚痴のように話していました。別れたという点にこだわって、そこから前へ向かって進み出すことが出来ないようでした。
キリストは、「手を鋤(すき)にかけてから、うしろを見る者は、神に国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)と言われました。
パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走る」(ピリピ2:13-14)と言っています。
キリストを信じる前に、様々なことがありましたが、すべての過去はキリストの十字架によって赦され、清められています。私たちがまだ罪人であった時に、キリストは既に十字架にかかり、私たちに罪の赦しの道を開かれていたのです(ロマ5:8参照)。そのことを信じ、感謝し、前に向かって進んで行くのがクリスチャン生活です。
キリストを信じて、私たちは新しい人間に変えられています。
ところが時々、古い罪の記憶が甦る時があります。その時にキリストの十字架を仰ぎ見て、「私のすべてはキリストの十字架の血の力によって清められている。感謝します」と叫び、祈って下さい。
あるいは、人に言ったことなどで、「あの時に余計なことを言ってしまった」と自分の心の中で思い続けている場合があります。その時には、「主よ、主によってすべてを恵みに変えて下さることを信じ、お委ねします」と祈ることが大事です。
あるいは、「あの時にあんなことを言われて傷ついた」という怨みの気持をもっている場合があります。その時には、「主の祈り」を祈って下さい、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。
キリストは裸で十字架に架けられ、頭にイバラの冠をかぶせられ、両手両足に釘を打たれ、血を流しながら、最も苦しい時に、自分を苦しめ、十字架につけた人々のために、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と愛と赦しの祈りを捧げています。もし恨みが心に残っているならば、「恨みを取り去って下さい」と祈ることが大切です。キリストを信じ、新しい人間に変えられたことを感謝し、恨みを捨ててキリストにあって人を赦して行くことがクリスチャンに与えられた恵みです。
ある青年が親を怨んでいました。心の病気を患い、病院に入院したこともあります。彼は自分が病気になったのは父親のせいであると思っていました。仕事中心で家庭を顧みないでいた父親のせいで、苦しい日々を送っていると考えていました。父親は、何をするにも、人間は頑張ること、うまく行かないのは努力が足りないからであると考え、自分も頑張り、子供にもそう接してきました。しかし、どんなに頑張っても子供の心を変えられないことに気づき、頑張ってもできないことがあると感じて、人間を越えた大いなる存在である神様を求め始めたのです。求めて行くうちに、人間の力には限界があることを知りました。失敗したペテロを受け入れ、愛して下さっているキリストの愛を知り、その愛が自分にも向けられていることを信じ、キリストの弟子になる決断をしました。そして、神様に任せて活きようと思い、神様に祈りをささげるようになったのです。すると断絶していた子供と親しく話せるという新しい変化が与えられました。父親を怨んでいた青年もキリストを信じ、その結果、恨みが消えてしまいました。キリストの十字架の恵みは、人間の手では届くことの出来ない過去の中に働いて、親子に救いを与え、すべての憎しみ、行き違いが清められ、修復され、共に感謝しあって行く者に変えられたのです。どんなに失敗と見えるようなことがあったとしても、キリストの救いの力は過去を清め、新しい出発を与えて下さることを知ることができます。


2、キリストは現在を恵み、いつまでも共にいて下さる主である。

イエス・キリストは・・・・きょうも、いつまでも変わることがない。

聖書は、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)と告げています。私たちの過去はキリストによって清められています。大事なことは「今」という時にキリストを信じて活きるということです。

*キリストは現在を恵んで下さいますが、主の恵みを受けることを具体的に考えてみましょう。

年のはじめにあたり、ごく基本的なことを申し上げます。しかし、これから外れると、信仰の恵みから遠くなってしまいます。

公の礼拝の生活をすることです。
ノンクリスチャンがクリスチャンをどう見ているかと言えば、「クリスチャンは日曜日は教会に行く」ということです。ノンクリスチャンは一年に一回初詣に行って終了ですが、クリスチャンは毎週礼拝を捧げに集まります。クリスチャンが日曜日に礼拝を捧げるのは、キリストが日曜日に復活されたからです。活きている主を礼拝し、主にお会いするために、日曜日ごとに集まります。私たちが共に集まる所にキリストも共にいて下さいます。携帯、パソコンの時代ですから、映像を瞬時に送って、それを自宅で見ながら、聞きながら礼拝ということも考えられます。
しかし、聖書の基本は共に集まるということです(へブル10:25参照)。キリストの周りには、多い時に男の人だけで5千人が集まっていますが、女性、子供を加えれば2万人ぐらいの人々です。赤ちゃんの泣き声が聞こえ、病気の人々や年配の人々は前のほうに座っていたと思います。キリストの声は、澄んだよく響く声で遠くまで聞こえたと思いますが、大勢の人々がキリストの言葉、その態度に注目しながら、集会が行われている様子を想像することができます。現在、それぞれの教会で、キリストの召しを受けた牧師によって聖書の御言葉が語られています。きょう、全世界で20億人以上の人々が様々な場所に集まり、礼拝を捧げています。日本では120万人ほどの人々が共に集まって礼拝を捧げています。礼拝では讃美があり、祈りがあり、献金があり、必ず聖書のメッセージが語られます。遠くから近くから、皆さんが礼拝のために集まっていますが、礼拝を捧げることはクリスチャンに与えられた特権であり、恵みです。
祈りの生活をすることです。
世の中には様々な力があります。
金銭の力があります。お金によっていろいろなものを手に入れることができます。しかし、お金で薬を手にいれても健康は買えません。お金で食料品を手にいれても食欲は買えません。お金で立派な家を手にいれても家族の温(ぬく)もりを買うことはできません。お金で最新の治療をしてもらっても命を買うことは出来ません。
権力の力があります。政治の力などで人々を支配することができます。
知識の力があり、頭の良いことによって名誉などを手にいれることがあります。
それらに勝って最も大きな力は祈りの力です。金銭はなくなり、権力は失われて行き、知識には限界があります。しかし祈りの力は無限です。なぜなら祈りは神様に向かって捧げられます。私たちは何も持たない無力な者ですが、祈りを受ける神様は無限のお方ですから、私たちに必要なものを恵みとして与えて下さいます。
祈る時に、主のために私たちのなすべきことが分ってきます。今年も奉仕に加わって行くことが出来るように、また私に出来る奉仕を示して下さいと祈り、教会の働きが推進されるために共に力を合わせて行くようにいたしましょう。

*キリストは、明日を備えて下さいます。きょうという日に信仰に励んで行きましょう。

私たちの明日は何があるのかは予測できません。しかし、私たちの過去を清めて下さった主に感謝し、現在を生きるために礼拝と祈りに励んで行くならば、明日のことを主に任せて行くことができます。
キリストは言われました、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身がおもいわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6:34)。
パウロは、「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(Ⅰコリント15:58)。
一日を祈りによって始め、一週間の初めの日曜日に礼拝を捧げ、一週間の半ばの水曜日に祈り会で祈りを捧げ、共に集まることを重んじて「今」という時に主に従って行くならば、明日は主が一番よいように導いて下さいます。

先週月曜日、86歳で天に召されたYさんの告別式が教会で行われました。役員会が中心になって準備などの奉仕にあたり、心のこもる良い式を行うことができました。Yさんは10年前に病気になってから、東京に移り、最後の数年間は熊谷の施設ですごしていました。東京の病院に見舞いに行った時に、「先々のことを考えると心配なこともあります。でも先生、私はイエス様に祈ります。祈ると心がスッとします」と言われたことがあります。教会に出席できない日々が続きましたが、心はいつも教会にあり、黙々と祈っていました。そして家族に囲まれて食事をし、その後に入院され、5日(火)穏やかに天に召されて行きました。告別式には、家族・親族が遠くは福岡、名古屋から集まり、教会員が加わり、施設の方々も参列し、最後のお別れの時がもたれました。この事は家族・親族全員の心に残り、救いにつながって行くことを信じています。



まとめ

へブル13:8の御言葉を読みます。

1、キリストによって、私たちの過去は清められています。キリストによって赦され、救われていることを感謝し、うしろのものに惑わされることなく、キリストにある恵みの日々を歩んで行くように祈りましょう。

2、キリストは現在を恵み、いつまでも共にいて下さいます。礼拝に励み、祈りに励む生活を実践して行くように祈りましょう。きょうという日を真剣に生きれば、明日の日は主が一番よいように導いて下さいます。きょうという日に信仰に励んで行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、救主イエス・キリストによって神の子にされていることを感謝します。イエス・キリストは変わることのない愛をもって私たちに最善をして下さることを感謝します。私たちの過去はキリストの十字架によって清められていることを感謝し、前に向かって進んで行くように導いて下さい。今という時に信仰生活に励んで行くならば、明日の日は主が一番よいように導いて下さることを信じます。病の方々、戦いの中にある方々に恵みをいっぱいに満たして下さい。

永遠に変わることのない私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヘブル注解―フランシスコ会、黒崎、バークレー、米田、文語新約略解、名尾、川村、ヴォス、LABN。