喜びと平安  ピリピ4:4-7                主の2010.1.24礼拝

人間の感情には喜び、怒り、哀しみ、楽しみがあり、喜怒哀楽と言われています。怒りは血圧をあげ、怒りが顔に出ると、例えば苦虫を噛み潰したような表情になります。哀しみによって気持が沈みこんでしまい、食欲もなくなります。喜びは顔に明るさをもたらし、心が軽くなります。楽しみは人間を快活にし、動きを軽快にします。人間ですから喜怒哀楽があるのは当然ですが、出来ることなら怒り、哀しみではなく、喜び、楽しみなどの思いが持続しているようにと願うものです。
本日はピリピ4:4-7です。4節に「喜び」があり、7節に「平安」があります。喜びと平安はキリストによって私たちに与えられた素晴しい祝福です。元旦に「信仰・希望・愛」(Ⅰコリント13:13)という御言葉をいただきました。「信仰・希望・愛」をもって生きるために、3日(日)「後のものを忘れて前に向かうこと」(ピリピ3:13-14)、10日(日)「前に向かって進むために、私たちはキリストの招きと選びとを受けていること」ルカ5:1-11)、17日(日)「私たちを招き、選んで下さったイエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることのない永遠の救主である」(へブル13:8)ことを御言葉によって教えられ、励ましをいただきました。本日のメッセージを通して、私たちクリスチャンの特徴は、喜びをもつ者であること、何があっても心に平安をもつ者であることを再確認し、主に従い続けて行くことを決断し、祈って、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。

内容区分
1、我らは、主にあって喜びの民である。4:7-5
2、我らは、主にあって平安の民である。4:6-7

資料問題
ピリピ書は使徒パウロによって紀元62年頃、ロマ獄中で記されたもの。ロマの獄中からはエペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモンの四つが記され、それらは獄中書簡と呼ばれている。ピリピ書の基調は「喜び」であり、読む者に希望を与える手紙である。4節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」、キリストを信じる者は喜びの民である。喜びは「いつも」であり、間断があってはならない。喜びは「主にあって」であって、生まれ変わった者にキリストが与えて下さる喜びである。5節「寛容」、人に対する忍耐。不当な扱いを受けても、すぐ怒らず、報復せず、長く耐えること。他の人の落ち度、欠点をきびしく追及せず、受け入れること。寛容は「みんなの人」に表されなければならない。「主は近い」、主の再臨の近いこと。Ⅰコリント16:22マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)参照。6節「思い煩うな」、神様から離れると思い煩うようになる。7節「神の平安」、人間の理解を越えた広い高い深いもので、心配が消えてしまうまことの平安。「心と思い」、心は思想、感情、思いは判断、企画。


1、我らは、主にあって喜びの民である。4:4-5

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(4節)

この手紙は、今から1950年程前に、使徒パウロが、キリストを信じる信仰のために迫害を受けて捕らわれ、ロマの獄中で記したものです。ロマ皇帝によって、いつ死刑になるのか分からないという厳しい状況の中で書かれたものですが、「喜び」という言葉が繰り返し出てきます。この手紙を読む者は、「キリストにあって喜ぼう」という励ましを与えられます。また、「わたしたちの国籍は天にある」(3:20)という希望を新たにする手紙としても知られています。


*「主にあって喜びなさい」と命じられていますが、「主にあって」ということを考えてみましょう。


キリスト以外にも私たちに喜びをもたらすものがあります。美味しいものを食べて喜びます。きれいな洋服を身にまとって喜びます。仕事が見つかれば大いに喜びます。ピカピカの新車を手に入れて喜びます。健康を喜びます。こうした事柄によって喜びが与えられるのは確かです。しかし、よく考えてみると、これらの喜びは長続きしません。美味しいものを食べ終われば喜びは失せます。きれいな洋服も、新しい流行によって、すぐに色あせてしまいます。仕事も会社が倒産するかもしれません。ピカピカの新車もすぐに古くなります。健康であっても突然病気になることがあります。この世のこと、自分に関係することなどは一時的に喜びをもたらしてくれますが、長続きしません。
先週、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13:8)ということを教えられました。キリストは、約2000年前に十字架に上り、私たちの罪の身代りになって死んで下さいました。しかし死んで終わりではなく、十字架の三日後に復活され、今も活きておられる救主です。私たちは聖霊によって罪を悔い改めキリストを信じ、神の子になったという喜びを与えられました。キリストを心に迎えた瞬間から、キリストは「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)という愛をもって私たちを支え、天国にまで導いて下さる救主です。「主にあって」とは、キリストを信じて、どこまでもキリストに従って行くという信仰に立つことです。
ポリュカルポス(69-155)は、「ロマ皇帝の祭壇に香をたき、キリストを呪え」と言われました。「生まれてこのかた86年間、私はイエス・キリストに仕えてきた、キリストは一度も私を棄てなかった。それなのに、どうして私の救主をそしることができようか」と答え、火あぶりになって殉教の死を通して天国に帰って行きました。私たちも主にあって神の子になったという喜びを与えられていることを感謝します。キリストに固く結びついて、何があっても信仰の道から逸れることなく、信仰生活を継続して行くことを決断し、主に祈って下さい。


*「主にあって喜びなさい」ということですが、「喜び」について考えてみましょう。



主にあって喜んでいる者は、讃美の民です。

旧約聖書には沢山の讃美があり、聖歌隊がうたい、あらゆる楽器が使われています(詩篇150篇)。新約聖書にも多くの讃美があります(ルカ10:21、10:37など)。黙示録では、キリストを讃える大讃美が記されています(黙示録5:11,14:3など)。

パウロとシラスはピリピの獄中で祈り、讃美をささげ、神の助けによって獄中から解放されました(使徒16:25)。タイタニック号が沈没する時、大勢の人々が「主よ、みもとに近ずん」と讃美しつつ、この世を去って行きました。1989年ベルリンの壁が崩壊した時、宗教改革者マルティン・ルッターが作詞した「み神は城なり」の讃美が世界中に響き渡りました(聖歌202)。

讃美は、キリストを信じる喜びの現れであり、信仰の思いを神様に届けるものです。主にあって喜んでいる者は、主の恵みを歌う讃美の民です。教会に手話讃美があることを感謝します。

ところで、生涯の最後に歌う讃美は決まっていますか。家内の母は、私たちが歌う「カルバリ山の十字架」の讃美に包まれ、眠るようにして天国へ帰って行きました。アメリカの公民権運動の指導者キング牧師は暗殺者によって狙撃され、「慕いまつる主なるイエスよPrecious Lord, take my hand」と讃美しつつ天国へ召されて行きました。



主にあって喜んでいる者は、主の恵みを分かち合います。

人間は、自分が喜んでいること、楽しかったことなどを他の人に話したくなります。私たちはキリストを信じて喜びを与えられています。喜びが心より溢れ出て、周りの人々にキリストの恵みを話したくなります。また周りの人が「何故そんなに喜んでいるのですか」と聴きにきます。

Mちゃんの証しです。「今日の夜、同じ病室の方に、私はクリスチャンであることを伝え、ロマ書5:3-5の御言葉を伝え、ベッドの上で手をつなぎ祈りました。私の今までの治療のことを話しましたが、それが辛くても、主にあって何ひとつムダにならず、何かしら人のためになっていると感じました」。人の言葉ではなく、神様の御言葉を分ち合ったことによって、キリストの愛が相手の人に注がれていることを信じます。Oさんも入院生活を送りましたが、「あの部屋からは讃美歌が聞こえてくる」と言われていました。讃美が恵みとなって、病院の方々に届いていたことを信じ、感謝します。



2、我らは、主にあって平安の民である。4:6-7

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(6-7節)

生きて行くために必要なものとして、代表的なものを言えば健康、良い友達、そしてお金が必要です。しかし「あなたは一生病気知らずでしょう」という健康の保証は誰にも与えられていません。良い友達を得たとしても、人はやがていなくなって行きます。私の小学、中学、高校、大学と大切な良い友達がいましたが、みんな世を去って行きました。経済を支えるためにお金があれば安心かも知れません。ところが最近の円高経済のように、お金の価値は絶えず変動し、確かな支えにはなりません。

では生きて行くために必要なものは何でしょうか。それは心の平安です。何があっても揺らぐことのない心の安定、平安です。嵐がやってくれば、海上は大波になり、荒れ模様になります。ところが海の底のほうは静かです。人生に問題が起り、生活がガタガタし、心も落ち着きを失い、慌てふためくことがあります。この手紙を書いた使徒パウロは、晩年になって迫害され、ロマ獄中に閉じ込められていました。牢獄の中で手紙を書いたり、面会も許されていましたが、しかし片方の手は番兵と鎖でつながれていた、と伝えられています。牢獄の中を歩けば、鎖でつながっている番兵も動く、パウロがトイレに行けば、戸の外には鎖でつながっている番兵が立っているという状況でした。年を取ってからの牢獄生活、生活の不自由さ、いつ死刑になるか分からない不安定な日々のことを考えると、イライラしたり、神様に呟きたくなるのが当然ですが、パウロは「喜ぼう」と人々に呼びかけています。パウロの生活の表面は荒れ模様のようでしたが、彼の心の奥底は静かで、キリストの平安に満ちていました。それで、どんな状況のなかにあっても「喜ぼう」と叫ぶ心の平安があったのです。

パウロの平安の源はどこにあったのでしょうか。それはキリストにあります。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、また怖じけるな」(ヨハネ14:27)と約束されました。キリストは信じる者に平安を与えて下さいます。

私事ですが、「私たち夫婦のために祈って下さい」ということを皆さんにお願いしています。伝道牧会に携わっていると、教会の中に不安になるようなことが次々に起ります。病気の問題があります。家庭の事柄があります。仕事のことがあり、それは経済問題につながっています。出身献身者のことがあります。神学校分校で主任をしていますが、生徒に関することがあります。きょうは午前二回の礼拝をしていますが、もう少し広い会堂をという願いがあります。私たちの年齢的問題もあります。使徒パウロが「労し、苦しみ、たびたび眠られぬ世を過ごし」と言っていますが、私はすぐ眠れる特技をもっているのに眠れないことも度々あります。きょうの「何事も思い煩ってはならない」というのは私に向かって語りかけられている主の御言葉であることを実感します。少し愚痴っぽいことで脱線をしましたが、パウロのように何があっても揺らぐことがない伝道者になれるように、どうぞ私たち夫婦のために祈って下さい。



*平安について考えましょう。



感謝をして、思い切って、祈りに集中することです。

主の恵みを数えて下さい。お祈りする時に、まず感謝を数えることが大切です。詩篇の記者は「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべての恵みを心にとめよ(何ひとつ忘れるな)」(詩篇103:2)と歌っています。主の恵みを10個以上数えて下さい。そして、一生懸命に祈ることです。祈らない人は祝福を受け損ないます。祈りは聴かれます。祈りましょう。

古いお話をしましょう。私が神学校に入る時に、牧師が「3年間は学びと訓練に励みなさい。結婚は考えてはだめ、ただ祈りなさい」ときつく言われました。そういうわけで、私ほど女子神学生に冷たかった人はいないと思います。すると「神学校の間は結婚問題はダメ」と命じた牧師が、ある時、「君、いい人がいるんだが」と言って来ましたが、「私はいいです」と断りました。そして神学校卒業という時に不思議な出会いがあって、伴侶の問題は解決しました。ささやかな私の祈りはちゃんと神様に届いていたのです。



5節の御言葉は重要です。

喜びと平安の間に、「寛容でありなさい」と言われています。また「主は近い」と告げられています。寛容とは人に対する忍耐です。人の落ち度、欠点をきびしく追及せず、赦し、受け入れることです。不当な扱いを受けても、すぐ怒らず、報復せず、長く耐えることです。まもなく主の再臨があります。主がすべての決着をつけて下さいます。人ばっかり見ていると、寛容な心が失われて行きます。キリストを見つめて下さい。救われて、一生懸命に信仰生活をして行かねばならないのに、結構いい加減な信仰生活をしている私たちを見捨てないで、主は寛容な心をもって受け入れ、愛をもって導いて下さっています。主の寛容、憐れみに感謝して、私たちも寛容な心をもって、全ての人に接して行くようにお祈りしましょう。



人知を越えた平安です。

祈って与えられるのは心の平安です。私たちは具体的にいろいろお願いをしますが、神様具体的な答えの前に、先ず、第一に「大丈夫、心配するな」という心の平安を下さいます。

今朝の皆さんのお祈りはなんでしょうか・・・お祈りに先立って、感謝を数えて下さい。出来るだけたくさん数えて下さい。そして具体的に祈って下さい。祈りが聴かれているという印として、心に平安がやってきます。



まとめ

1、4:4-5、我らは、主にあって喜びの民です。キリストにしっかり、つながっていることが祝福です。主の恵みを喜びをもって讃美しましょう。主の恵みを他の人と分かち合って行きましょう。

2、4:6-7、我らは、主にあって平安の民です。平安の源はイエス・キリストです。平安を得るために、先ず感謝を数えて下さい。そして、祈りましょう。5節の「寛容」は大切な教えです。主の平安は人知を越えた平安です。具体的に祈る時に、祈りが聴かれる印として、心に平安がやってきます。



*ご一緒に祈りましょう。私たち夫婦のためにもお祈りを宜しくお願いします。



祈 り  天地の主である神様、独り子イエス・キリストの救いを感謝します。主にあって喜びの日々を送るように導いて下さい。不安定な時代の中にあって、感謝を数え、祈りを捧げ、人知を越えたキリストの平安によって心を満たして下さい。病気の方々に平安を与え、癒して下さい。仕事などそれぞれの経済生活を支えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ピリピ注解―黒崎、バ-クレー、米田、ピリピ文語訳略解、LABN、口語略解、佐竹。