クリスチャン生活の力の源(エネルギー)  列王記(上)19:1-18     主の2010.2.7礼拝

現代は疲れている人が多いようです。疲れを癒すために「栄養ドリンク」が売れています。雨だれの音、波の音などを録音した「癒しの音楽」が人々に好まれています。よく眠って疲れを取り去るために「癒しの安眠枕」も宣伝されています。疲れを取り去る様々なものがありますが、心の中から、また体の中から根本的に疲れを取り去り、命を回復させるものはないようです。疲れがたまると、体に影響を及ぼし、食欲不振になり、不眠症になります。心にも影響が及んで、気分が晴れないまま鬱状態になってしまいます。
本日は列王記上19:1-18です。預言者エリヤは、女王イゼベルから「あなたを殺す」と脅され、自分の命を救うために逃げ出しています。彼はサマリヤからベエルシバを通って、ホレブの山つまりシナイ山に行きます(サマリヤからシナイ山までは片道徒歩45日ぐらい)。彼はシナイ山で、神様によって霊的な力を回復していただき、彼の後継者にエリシャがなることを示され、バアルの偶像にひざをかがめない信仰者が七千人もいるということを知らされます。エリヤは命の危険を抱え、疲れきっていたのですが、神様によって癒やされ、神様のエネルギーいただきました。私たちも神様から新しいエネルギーを受けて、新しい一週間の旅路へ、祈って、出発して行きましょう。

内容区分
1、神様は、エリヤを絶望させず、行くべき道を示している。19:1-8
2、神様は、エリヤに語りかけ、希望の道を示している。19:9-18
資料問題
列王記上17章からエリヤが登場。彼は死を見ずに火の馬車でつむじ風にのって天へ移された(列下2:11)。出身地ギレアデの山地テシベは不毛の山岳地帯。彼が生きた時代は3000年ほど昔のアハブ王の時代。ソロモンの死後、イスラエルは北王国イスラエル、南王国ユダに分裂。北王国イスラエルは偶像礼拝がはびこっていた。アハブ王はシドンの王の娘イゼベルと結婚したが、彼女は多数の偶像をイスラエルに持ち込んだ。サマリヤからシナイ山までは徒歩で片道45日ほどの旅路。3節「しもべ」、エリヤがかつて甦らせたザレパテのやもめの男の子であったと言われている。4節「れだまの木」、エニシダの一種で高さ3メートルから3メートル半に達し、パレスチナとユダヤの間の荒野に多く、その日陰は避難所となる。「自分の死を求めて」、カルメル山の勝利の後にきたイゼベルの圧迫に死を願った。5節「天の使いが彼にさわり」、死を求めた彼の祈りに、神様は生きるようにという答えを与え、食事を備えている。9節「ほら穴」、伝説ではモーセが神の栄光が通りすぎる時に入った「岩の裂け目」(出33:22)であった。12節「静かな細い声」、ヨブ4:16を見よ。18節「七千人」、イスラエルに主に忠実な者が多く残されている。「口づけしない者」、偶像に接吻することはバアル礼拝の一つの型。


1、神様は、エリヤを絶望させずに、行くべき道を示している。19:1-8

彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた(8節)

エリヤは、今から3000年ほど前、列王記上17章から登場します。ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル王国が、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂します。北王国イスラエルは創造主である神を忘れ、偶像礼拝が盛んであり、不道徳な乱れた国になっていました。その頃の王様が1節にあるアハブで、その妻がイゼベルです。イゼベルは現代のレバノンにあるシドンの王の娘で、アハブ王と結婚する際に多くの偶像をイスラエルに持ち込んだ女性です。その乱れた時代に現れたのが預言者エリヤです。エリヤという名前には、「主は神である」という意味があります。



*19:1-8を通して教えられることを見てみましょう。



得意の絶頂の時、これで一安心という時が危ないということを知らされます。

エリヤは、18章でバアルの預言者450人、アシラの預言者400人をカルメル山に集め、たった一人で彼らと対決します。彼は祈りによって天から火を呼び下し、主がまことの神であることを人々に知らせ、バアルの預言者達をキション川で殺しています。その後に彼は祈り、3年6ヶ月雨の降らなかったイスラエルに大雨をもたらします。そんな素晴しい活動をし、得意の絶頂にあった彼が死を願うほどの絶望の中に追いやられています。

なぜ絶望に追いやられたのか・・・人は成功する時に、それが自分の力で勝ち得たかのように思ってしまうからです。エリヤの中に、「私はバアルの預言者に勝利した。偶像礼拝をやめさせ、神様を信じるという原点に皆を引き戻すのだ。私が祈ったら大雨になった。私には力がある」と誇る気持があったのかも知れません。人が誇る気持を持つ時に、心は神様から離れています。その時に「お前を殺す」と言われ、自分の無力さに気がついて恐れて逃げ出しています。何かがうまく行った時に、私たちは、使徒パウロの「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリ1:31)との勧めを思い起し、主に縋って行くことが大事です。

彼が逃げ出したのは孤独であったからです。

本当は仲間の預言者たちの所に行き、信仰の交わりを深め、祈ってもらうことが出来たはずです。使徒行伝には迫害の中で、弟子達が「主よ、いま彼らの脅迫に目をとめて下さい」と祈っています(使徒4:30)。その祈りによって、弟子達は迫害に打ち勝って行きます。教会の信仰の仲間に祈ってもらうことは、勝利と祝福をもたらします。エリヤは預言者の群れから離れ、ただ一人で逃げ出し、後についてきた僕とも別れています(3節)。群れから離れ、自分の判断に頼る時、人は神の御心を見失い、遂には4節にあるように死を願うようになります。ところで、エリヤはれだまの木の下で祈っています。この木はエニシダの一種で3メートルほどあり、その木陰は暑い荒野の中で避難所になります。本当に死にたいなら、木陰を出て、荒野に出ていれば暑さで死ぬことが出来たのです。しかし、木陰にいて「命をとってください」と祈っているのは、本当に死にたいのではなく、神様に助けを求めていたと理解することができます。

神様は、エリヤに二度の眠りを与えています(5,6節)。

ひとりで行動し、荒野の中で、「わたしの命を取って下さい」と神様に助けを求めるエリヤに対し、神様は答えています。

まず神様はエリヤを眠らせています。眠るということは、一切のことを神様に委ねて、自分の全てを神様に任せるということを表しています。

少し逸れますが、眠りに関してですが、旧約のヨセフ、ダニエルは夢の中で神様の知らせを受けています。新約のヨセフは夢の中でマリヤとの結婚と共にイエス・キリストの降誕を教えられています。神様は、昔は預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で語って下さったのですが、この終わりの時代、神様はご自分の御子イエス・キリストによって、私たちに語って下さいました(へブル1:1-2前半参照)。神様が語って下さったことは聖書になって私たちに与えられています(Ⅱテモテ3:16参照)。現代は聖書を読むことによって、神様の御心のすべてを知ることができます。私たちの主イエス・キリストはサタンと対決する時に、神様の御言葉によってサタンを退けています(マタイ4:Ⅰ-11参照)。私たちも聖書を読んで、主に従う日々を送って行きましょう。

本題に戻って、神様はエリヤに充分な眠りを与えています。そしてパンと水を備え、それによって、エリヤにエネルギーが与えられています。この時に、エリヤは神様が自分を守っていることを実感し、自分の考えではなく、神様の導きに従っています。それは神の山であるホレブ(シナイ山)に向かって進んで行くという道です。サマリヤからホレブの山までは、300キロぐらいあります。エリヤはイゼベルに殺されるという恐れから、夢中になって逃げて来ました。しかし、神様によってれだまの木の下でよく眠り、パンを食べ、水を飲んで元気を回復し、神の山に向かっています。神様からのエネルギーを受けて元気を回復したから、その勢いでアハブ、イゼベルの所に戻って対決するのではなく、先ず神様の御言葉を聴くために新しい気持でホレブの山に向かっています。一度はイゼベルの脅しによって逃げ出したのですが、神様はエリヤが神様の御言葉を聴いて、預言者としての務めを全うするように、新しい道へ前進するように導いておられます。



2、神様は、エリヤに語りかけ、希望の道を示している。19:9-18

火の後に静かな細い声が聞こえた(12節)。「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。(18節)

エリヤはホレブの山に着き、ほら穴の中に入っています。そこは神の人モーセが神の栄光が通り過ぎる時に身を隠した所と言われています(出33:22参照)。そこでエリヤは神様の語りかけを聴いて希望を新たにしています。



*19:9-18を通して教えられることを見て行きましょう。



エリヤは自分の熱心さを吹聴しているが、神様に正され、希望を示されています。

エリヤはモーセと並び称せられる偉大な預言者です。キリストが山上で姿変わりをした時に、モーセと共に現れてキリストと親しく語り合っています(マルコ9:2-4)。そんな偉大な預言者ですが、この箇所では「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました・・・ただわたしだけが残りました」と自分のことを神様に吹聴しています。人間の心の中には「私がやっている、熱心にやっている、皆は熱心さが足りない」という思いが湧いてくることがあります。確かにエリヤは人が真似できないような信仰の熱心さをもって、偶像礼拝者と戦った素晴しい人です。彼は自らの熱心さを2回も言っています(10節、14節)。本当は神の山ホレブに来たのですから、イスラエルの救いのために祈るのが彼の務めだったはずです。しかし、彼は自分の事を神様に訴えています。それは自分を誇る心、自分の働きを自慢する心です。自分の働き、熱心さを誇る心は、人を見下げる心であり、皆は十分なことをしていないという人を審く怒りの心です。また失望する心、恐れる心、つぶやく心です。

神様はエリヤに言っています、「あなたが熱心であるとすれば、自分の務めに忠実でありなさい」。そして、15,16節で、神様がすべての働きを備えているから、その働きをしなさい、と告げています。さらに18節では、「あなた一人だけが信仰をもっていると言うが、それは違う。わたしはイスラエルのうちに七千人を残している。それはバアルを拝まない者である」と言われています。

少し逸れますが、日本ではクリスチャン人口は少ないとよく言われます。私は今のところは少ないが、クリスチャンは確実に増えて行くと信じています。昭和5年ごろ(1930年)、熊谷にキリスト教講義所(教会のこと)があって、日曜日には20名ほどが集っているようであると、古い本で読んだことがあります。私たちの教会が発足した時、信徒ゼロでしたが、現在こうして多くの方々が集っています。ゆるやかですが、確実に神様が教会の歩みを導いておられることを感謝します。18節は教会にとって希望の聖句です。

本題に戻ります、エリヤは「自分が、自分が」と言っていたことを心の中で恥じたと思います。神様がいつでも主導権をとって私たちを導いて下さっていることを感謝して行きましょう。

エリヤは静かな細い声を聴いています。主の声を聴くことが信仰生活のエネルギーの源です。

主は、大きな強い風、地震の中、火の中にもおられませんでした。静かな細い声をもってご自身を現しておられます。神様は創造主であり、大きな力の中にご自身を表すことがお出来になります。しかし、神様は大事なことを知らせる時は、静かに語りかける場合が多いようです。アブラハムは月を礼拝する地にいましたが、その中で「わたしが示す地に行きなさい」という神の声を聴いて故郷を出ています(創世記12;1-4)。イザヤは神殿の中で神の栄光に包まれ、「わたしは誰を遣わそうか」という主の声を聴き、「ここにわたしがおります。わたしをお遣わしてください」と答えています(イザヤ6:8-9)。ペテロとアンデレはガリラヤ湖の岸辺で「わたしに従って来なさい」というキリストの招きの声に応じて、弟子になる決心をして従っています(マタイ4:18-20)。

神様の語りかけを聴くことが大事です。キリストの力の源は神様との交わりから得たものです。

主イエス・キリストは公生涯3年6ヶ月の間、四国ぐらいの広さのイスラエルの国を休むヒマもなく巡回伝道して歩かれ、十字架に向かって進んで行かれました。時には、キリストは旅の疲れを覚えて、サマリヤのスカルの井戸のそばに座っておられたこともあります(ヨハネ4:6)。しかし、キリストは疲れて倒れることなく、救主としての使命を果たしておられます。次の聖句をご覧下さい。



朝早く、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)。



キリストは、一日を始める前に、神様の静かな細い声を聴いて、伝道活動のエネルギーを受けていたことが分かります。あるクリスチャンは言っています・・・・「一日は尊い一生である。これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用するの道は、神の言を聴いてこれを始むるにある。一日の成敗(せいはい、成功か失敗か)は朝の心持いかんによって定まる。朝起きてまず第一に神の言を読みて神に祈る。かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるを得ない(必ず勝利である)。・・・そしてかかる生涯を継続して、一生は成功をもって終るのである」。

この教会は「キリストを喜び、キリストを伝える教会になろう」ということを目標にしています。そのために、聖霊に助けられて、朝ごとに聖書を読んで、主の語りかけを心に聴き、主の御名によって祈りに励もう、どんなことでも祈ろう、ということを願っています。会堂が狭くなってきたということは神様の恵みです。そのために神様の御心を求めて祈って行くことが大切です。



まとめ

1、19:1-8、神様は、恐れて逃げ出したエリヤに霊の回復、体の回復を与え、彼を新しい道に導いています。自分の力を誇らず、また教会から離れることなく、どんな時でも主に縋って行くならば、主は私たちを正しい方向に導いて下さいます。

2、19:9-18、神様はエリヤに個人的に語りかけ、彼の進む道は備えられていることを示しています。自分だけが熱心である、自分一人が信仰をもっているという高ぶりを捨てよう。神様は七千人の忠実な神を信じる者がいることを教えています。キリストのごとくに朝ごとに主の語りかけを聴き、祈って日々を前進しましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架の救いに感謝をささげます。自分が、自分がという思いから解放されて、主に縋って行く信仰を与えて下さい。朝ごとに聖書を通して主の語りかけを聴き、主の御名によって祈って、恵みある一日一日を積み上げて行くように導いて下さい。聖餐式を通して恵み深い御霊によって、「キリストの十字架は私のためでした」という信仰を深めることができるように導いて下さい。特に病気の方々、様々な戦いの中にある方々を支えて下さい。私たちの主イエス・キリストの尊いお名前によってお祈りをささげます、アーメン。



参考文献:列王注解―舊約聖書略註、口語旧約聖書略解、オールド、有木、米田、フランシスコ会、LAB。「一日一生・内村鑑三・教文館」、「聖書事典・日本基督教団出版部」