キリストに結びつく感謝と喜び ルカ17:11-19 主の2010.2.28礼拝
テレビは連日バンクーバーで行われている冬季オリンピックを中継しています。競技ですから、勝つ者があり、敗れる者がいます。敗れた者は肩を落としたりして残念そうですが、勝った者は笑顔を浮かべ、躍り上がって全身で喜びを表現します。応援している人々も大声をあげて選手を讃へ、拍手をし、国旗を振ったりして、やはり体全体で喜びを表します。そうした光景を眺めながら、選手も応援の人々も体全体で自分のうれしい気持を表すのが、もっとも原始的な、もっとも素朴な喜びの表し方ではないかということを思いました。
本日はルカ17:11-19です。キリストによって10人の者が病を癒されましたが、そのうちの1人だけが、キリストに感謝を捧げるために戻って来た、とあります。キリストは戻って来たサマリヤ人の信仰を喜ばれ、彼に、「あなたの信仰があなたを救った」という宣言をもって、罪の赦しと永遠の命の祝福を与えています。癒やされた10人のうちの9人は体の癒やしを与えられましたが、心の生まれ変わり、永遠の命の祝福を受けないままで、どこかへ行ってしまい、その後の消息は分かりません。体の癒やしを受けたことは素晴しい恵みですが、その恵みはこの世だけのものです。サマリヤ人は、キリストの足元にひれ伏して、自分の体全体で癒やされたことを喜び感謝し、キリストを神として崇めました。キリストは彼を神の子にし、サマリヤ人はキリストにつながるという大いなる祝福を受けたのです。キリストは言われます、「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:5)。文語訳聖書は「我に居(お)れ」と訳しています。それは、「わたしを信じて、わたしにつながり、わたしの愛のうちにいなさい」という呼びかけです。サマリヤ人は、キリストの御許にひれ伏して感謝を表し、キリストの愛の中に飛び込んで行き、キリストに結びつき、豊かな恵みを受けました。キリストの中に飛び込んで行くことが恵みを受ける秘訣です。ご一緒に主のメッセージを聴き、きょうも、そしていつまでもキリストにつながり、結びついて行く決断をして、祈って、一週間の旅路へと出発いたしましょう。
内容区分
1、私たちはキリストに頼り、何事でも祈って行く者である。17:11-14
2、私たちはキリストにつながり、豊かな恵みを受ける者である。17:15-19
資料問題
11節「サマリヤとガリラヤとの間」、サマリヤとガリラヤとの境を通り、ヨルダン川の谷に下り、エリコを通って、エルサレムに上る。12節「10人のらい病人」、彼らは病気の故に一般人と生活できないと定められていたので、集団生活を営んでいた。16節「サマリヤ人」、サマリヤ人は、イスラエル人とアッシリヤから移住した異邦人との混血種族(列下17:24)。宗教上では主である神と偶像礼拝とが混合していた。伝統的にユダヤ人と仲が悪かった(ヨハネ4:9)。19節「あなたの信仰があなたを救ったのだ」、同じ言葉が7:50、8:48、18:42、マルコ10:52、マタイ9:22などに見られる。*らい病は日本でいうらい病、ハンセン病とはまったく違うもので、強いていえば重い皮膚病のようなもの。これは家の壁などにも現れるので聖書独特のものと言われている(レビ記13-14章)。
1、私たちはキリストに頼り、何事でも祈って行く者である。17:11-14
そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張り上げて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。(12-13節)
人生は順風満帆の日ばかりではなく、向かい風があり、時には荒れ狂う暴風もあります。困難に遭遇した時、不意の病気に襲われた時、トラブルに巻き込まれた時、一体だれに頼り、助けてもらえるのか分からずに途方にくれてしまいます。ここに10人のライ病人が登場しています。当時この病気になった者は、皆と共に住むことを許されず、社会から隔離された場所で住むという決まりになっていました。本日の聖書では、人々から見捨てられた毎日を送っていた病人達はキリストに助けを求めています。彼らはライ病であるという理由で社会から切り離されて、暮らさなければなりませんでした。社会から見捨てられ、暗い日々を送っている彼らに、ライ病の者に手を触れ、癒やして下さるイエス・キリストのことが伝わってきました(ルカ5:12-14)。彼らはキリストの来られることを聞いて出かけて来ましたが、ライ病の人々は一般の人々の中に入ってくることが制限されていたので、遠くの方からキリストに向かって助けを求めています。キリストは彼らの願いに答え、癒やしの恵みを与えています(14節)。
ところで、私たちは生きている限り、病気だけではなく、様々な困難な事柄に直面します。例えば多くの人々が家族のこと、経済のこと、仕事のことでトラブルに巻き込まれ、先行き不安な気持ちを抱えています。昨日は上野公園ホームレス伝道に7名で行って来ました。皆さんのお祈り、オニギリの捧げ物、お米、衣料品、生活用品の支援、そして献金に感謝します。昨日は、上野は非常に寒くて、300名の方々が冷たい地面に座っていて、私たちも震えながら集会をしました。礼拝後にトポス教会が用意したコーヒーを配ったのですが、押し頂くようにして温かいコーヒーの入った紙コップを受け取るホームレスの方々の姿を見て、路上生活の苦しみを思わされました。多くの人々は、抱えている苦しみを誰にも打ち明けることができず、助けてもらえず、重荷を背負って暗い日々を過ごしています。また、誰にも言えない心の罪の問題で苦しんでいる人々もいます。
キリストは、悩み苦しむ者に、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12前半)と語りかけています。世とはこの世界に住む私たち一人一人のことです。光はどんなに闇が濃くても、その闇の中に浸透して行き、闇を打ち砕き、全てを光に変える力を持っています。キリストは「わたしは闇を打ち砕く世の光である」と言われた後に次のように言われます、「わたしに従って来る者は、闇の中を歩くことがなく、命の光を持つであろう」(ヨハネ8:12後半)。
このキリストの御言葉は本当でしょうか。本当です。そしてこの御言葉が全ての人に当てはまるようになるため、キリストは人間を苦しめる闇の力である罪を解決するために、私たちの罪の身代りになって十字架で死んで下さいました。それは罪の支払う報酬は死であるからです(ロマ6:23)。しかしキリストは死んで終わりではなく、十字架の死後三日目に復活されて、今も生きている救主です。キリストの十字架と復活によって、罪という闇の力は砕かれ、私たちは闇のもたらすあらゆる重荷から解放され、キリストの命の光に照らされて喜びと希望をもって生きることができる、そして死んで終わりではなく、永遠の天国に導かれるという約束を与えられているのです。
Aさんに娘が与えられました。元気な子でしたが、突然高熱が出て、それが何日も続きました。ようやく熱が引いたのですが、娘の様子が違うことに気づき、医師に相談に行きました。診断結果は、「あまりにも高熱が続いて、脳に影響して、たぶん知能の面において発達障害になるでしょう」との答えでした。Aさんは気も狂わんばかりになって、医者という医者を尋ね歩きますが、どの医者の答えも同じでした。医者がダメなら宗教と思い、いろいろなものに縋りましたが、「先祖が祟っている」からとか「親のあなたが悪い」など言われるだけでした。拝んでもらうと、高い拝み料を取られるだけで、娘さんは癒されないままでした。娘さんの体は成長して行きますが、知能は成長しないままでした。そうした時に、聖書の中にあるキリストの御言葉に触れることができました。生まれつきの盲人が道ばたで乞食をしている姿を見て、人々は「親の罪だ。本人の罪だ」と議論していました。キリストは、「本人の罪でもない、親の罪でもない。この人の上に神の御業が現れるためである」と言われたのです。(ヨハネ9:1-3)。神は愛です。現在の境遇が不幸のような中にあるとしても、しかし愛の神はそれを放っておかれずに救いの手を差し伸べて下さるのです。娘を病気にした自分を責め、神も仏もあるものかと思っていたAさんの心に、明るい光が差し込んで来ました。Aさんはキリストを信じ、心を苦しめていた重荷から解放され、娘さんを今まで以上にいとおしく思い、感謝しています。
キリストの御許に行きましょう。キリストに祈りましょう。キリストに叫びましょう。
キリストは遠く離れた所から叫び求めているライ病の人々の声を聞き逃しませんでした。
キリストは私たちが心に抱えている重荷を見過ごしにせず、「わたしが重荷を負ってあげよう。わたしに縋りなさい」と言われます。
キリストは私たちを助けて下さる救主です。今、キリストに祈り、キリストの恵みを受けましょう。
2、私たちはキリストにつながり、豊かな恵みを受ける者である。17:15-19
そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった(15-16節)。それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(19節)。
キリストはライ病の人々の願いを聴きいれ、彼ら10人全員を癒やして下さいました。ところがキリストの所に感謝を言い表すために戻って来たのはたった一人です。人間は求める時には一生懸命であるのに、一度願いをかなうと、感謝を忘れてしまうことがしばしばです。先週、感謝を数えるということをお伝えしましたが、私たちも主イエス・キリストから受けた恵みに感謝することを忘れないようにすることが大事です。また、人から受けた様々な助けや愛の心遣いや祈りに対して、心からの感謝を忘れないようにしたいということを教えられます。
キリストの御許に帰って来たのは、サマリヤ人でした。ユダヤ人は自分たちこそは神に選ばれた民族であり、他の民族と違う信仰深い者であるということを誇っていました。しかし、9人のユダヤ人は癒やして下さった神様への感謝を忘れてしまい、どこかへ消えてしまっています。感謝を言いに来たのは信仰のレベルが低いとユダヤ人が馬鹿にしていたサマリヤ人です。私たちは人のことをあれこれ言うことは出来ないのです。ユダヤ人でもサマリヤ人でも、男でも女でも、若くても年をとっていても、大事なのは神様に対する信仰です。
サマリヤ人は癒やされたことを知った瞬間に、大声で神様を讃美しながら、躍り上がるようにして、真っ直ぐにキリストの御許に駆けつけ、ひれ伏して感謝の気持を表しています。彼を苦しめていた病気は跡形もなく消えてしまいました。彼の心は、「古い過去は過ぎ去った。今、自分は癒やされ、恵まれ、新しい人生へ入って行くのだ」という希望にあふれています。
このサマリヤ人から教えられることがあります。
それは過去のうちに生きてはならないということです。サマリヤ人は、つい先ほどまで、社会から隔離され、病気ということで差別を受け、淋しい日々を送っていました。ところが、彼は癒やされたことを知った時から、すべての忌まわしい過去はなくなり、新しい人生の第一歩を踏み出しているという喜びに包まれています。使徒パウロは「うしろのものを忘れる」(ピリピ3:13)ということを人生の指針にしていました。私たちは過去に捕らわれずに、今日という一日を生きることが大事なのです。
昔、3500年前ですが、イスラエル民族は荒野を旅していました。神様は、何もない荒野でイスラエルの人々に毎朝マナという食べ物を与えてくれました。神様は、「朝ごとに自分の家族の分だけ取りなさい。翌朝まで持ち越さずに、その日のうちに食べなさい」と命じられました。中には翌朝まで残していた人がいましたが、それは虫がわき、悪臭を放ったとあります。中には一日分以上のものをコッソリ取った人がいましたが、一日に必要なもの以外は全部腐ってしまいました(出エジプト16章)。神様はマナを通して、一日一日を神様に頼って生きるようにということを教えています。
今日という一日を神様を見上げて生きて行くことが信仰生活です。聖書は、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント5:2)と告げています。後(うしろ)のものを忘れ、今日という一日を神様に頼って生きるのが信仰生活です。
多くの人が思い煩い、喜びを失うのは、昨日のものを持ち越しているからです。主が与えて下さった今日の一日を感謝して生きるということが大切です。神様が私たちに今日という日を与えて下さったのです。神様は、私たちの昨日という日をすべて取り除かれています。今この一日を神様に縋って生きることが大切です。今日という日をつかんで、今日一日を生きることが大事です
多くの人が起りもしないことのために、心配しながら生きています。ある人の母親は、40年の間、自分はガンで死ぬと心配していました。彼女は73歳まで生きて、死んだのは肺炎でした。起りもしないことのために、40年間心労の日々を送り、周りの者に陰気な思いを与えてきた人生でした。彼女が、今日も生かされていることを感謝し、神様に信頼して生きれば、明るい希望の日々を送ることができ、周りの人々を明るくすることができたはずです。
今日、今、キリストの救いを受けていることを感謝しましょう。
キリストは戻ってきたサマリヤ人に声をかけ、彼に魂の救いを与えています。
19節の御言葉を読みます。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
「立って行きなさい」・・・あなたの人生を神様が導かれる、安心して新しい人生へ踏み出して行きなさい」という励ましと祝福の言葉です。
「あなたの信仰があなたを救ったのだ」・・・9人の者は癒やされましたが、それはこの世だけの恵みです。やがて迎える死の門を通って天国へ行くことはできません。「救ったのだ」という「救い」の意味は、サマリヤ人は体の癒やしを受けましたが、キリストの御許にきたことによって、魂の救いを受け、キリストにしっかり結びつき、天国に通じる永遠の命の祝福を受けたということです。
キリストは「救った」と言われています。キリストを信じるのは今であり、キリストを信じるという決意をした時に、間違いなく即座に救われることができるのです。
ある方が一日の大半を病院のベッドで眠り続け、人生最後の時を迎えようとしていました。その人のベッドに近づいた時、なぜか目を覚ましたのです。挨拶をすると明瞭な返事が返ってきました。そこで、聖書より、人間の罪の事、イエス・キリストの十字架と復活についてお話をし、「キリストを自分の救主として信じますか」とたずねると、「ハイ」と答えてくれました。私の後について、キリストを信じ受け入れる祈りを捧げることができました。「キリストは今どこにおられるでしょうか」と聞いて見ると、自分の胸に手を置き「心の中です」と答え、また眠りに入って行きました(そのあと間もなくして召されて行きました)。体全体で喜びを表すことはできませんでしたが、「心の中にいる」と答えた時の穏やかな顔を忘れることができません。キリストは間違いなく、信じる人に対して、「救った」とハッキリと言われ、信じた者の名前を天の命の書に記してくださるのです(ルカ10:20)。
人を罪から救い、永遠の命を与えて下さるキリストは、私たちの抱えるあらゆる問題に答えて下さる主です。家族のこと、仕事のこと、病気のこと、経済のこと、人間関係のことなど主の御名によって祈って下さい。後(うしろ)のものを忘れ、今日という一日を与えられていることを感謝して、祈って行くことが主の恵みを受ける秘訣です。今日という一日を主に縋って生きて行けば、明日の日も主が守って下さるという思いをもって、明日の日を平安のうちに迎えることができます。
まとめ
1、17:11-14、キリストに頼りましょう。どんなことでもキリストに助けを求め、祈って行きましょう。その祈りは必ず答えられて行きます。祈りましょう。
2、17:15-19、キリストの救いに感謝し、キリストにつながって行くことが信仰です。後(うしろ)のものを忘れ、今日という一日を感謝をもって、主に従って行くことが信仰生活に恵みをもたらします。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」という御言葉をしっかり握ってキリストにつながって行く日々を送って参りましょう。
祈 り
天地の主である神様、私たちをキリストを信じる信仰によって救い、神の子にして下さったことを感謝します。十字架と復活によって救って下さったキリストに感謝をささげ、讃美をささげます。どんな時でも祈ることができるように聖霊によって導いて下さい。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」という御言葉を握って、今週も主に従って行きます。仕事、学びなど一人一人の日々の生活を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ルカ注解―黒崎、フランシスコ会、米田、LAB、文語略註、口語略解、新共同訳略解。