主に一切をまかせるー信仰の真髄 マタイ15:21-28            主の2010.3.21礼拝

船が真っ暗闇の海を進んで行く時に、レーダーで電波を発射します。電波は、前方に他の船などがあれば、確実にそれにぶつかり、反射して発信元へ戻り、何かがあることを知らせます。肉眼で何も見えなくても、レーダーの電波は前方に何かがあれば、それにぶつかり、確実に反応します。私たちは、問題に囲まれて悩む時があります。また先が見えないと言うことで不安になります。そうした中にあって、私たちは聖霊に導かれ、イエス・キリストの御名によって祈ります。祈りはレーダーの電波のように確実に神様に届き、反射して神様からの答えを私たちにもたらします。私たちの神様は天地を創造され、何でもお出来になる、生きている神様です。また遠く離れた神様ではなく、私たちが「お父さん」と呼ぶことができる親しい神様です。
本日はマタイ15:21-28です。ひとりの女性がキリストに娘の癒やしを求めて祈っています。その祈りはなかなか届かないというもどかしさが感じられます。しかし、祈りは必ず届いて行きます。キリストは、天地を創造され、何でもできる(全能)神様を表わすために地上に来られた救主です。レーダーの電波が何かにぶつかって反応するように、彼女の祈りはキリストに届き、素晴しい答えをいただいています。キリストは、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように」と言われ、その時に、娘が癒やされるという祝福をいただいています(28節)。
私たちも祈りを捧げるという恵みを与えられていることを感謝します。祈りは必ず届いて行きます。レーダーの電波は何かがあれば、必ずそれに反応します。キリストは生きておられる主です。必ず私たちの祈りを受け止め、答えを下さる神様です。

内容区分
1、キリストは、ご自分の使命に集中して人生をおくられた救主である。15:21-24
2、キリストは、真剣な信仰を受け入れ、祈りに答えて下さる主である。15:25-28

資料問題
22節「カナンの女」、カナンという語は福音書でここだけに出てくる。他に使徒7:11、13:19。カナンの女が「ダビデの子」というメシアの称号を用いているのは、キリストがご自分の民から排斥され、異邦人から受け入れられたというマタイ福音書の主題を強調するもの。25節「女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」、娘のことも大切であるが、娘のために何もできない自分の無力さを思い、この弱い不信仰な私を憐れんで下さいという思いを訴え、自分の手に握りしめていたものを全て主の御手に委ねたのである。26節「子供たち」、ユダヤ人を指す。「子犬」、ユダヤ人は異邦人を犬と呼んだ。キリストは軽蔑の意味を避けて、優しく「子犬」と呼ぶ。27節「子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」、彼女のへりくだった信仰を示す。

1、キリストは、ご自分の使命に集中して人生をおくられた救主である。15:21-24

しかし、イエスは一言もお答えにならなかった(23節)、イエスは答えて言われた、「わたしはイスラエルの失われた羊以外の者には、遣わされていない」(24節)。


キリストは伝道をしながら、ツロとシドンとの地方へ行かれた(21節)、とあります。その場所は、キリストが伝道活動をしていたイスラエルから見れば外国です。パリサイ人達の反対と伝道妨害を避けて、少しの間イスラエルを離れることにしたのです。そこへ、ユダヤ人から見れば、神様のことを知らない異邦人であるカナンの女が現れ、「自分の娘を助け下さい」とキリストにお願いしています。カナンの女は、ひたすら「自分の娘が苦しんでいます、助けてください」と叫び続けています。彼女はユダヤ人ではないのですが、キリストのことを、「主よ、ダビデの子よ」(22節)と呼んでいます。ここに彼女の信仰が現れています。娘のことで、医者に所に行ったかも知れませんし、或いは占い師などによって悪霊退散の儀式を行ったかもしれませんが、娘は治らずに苦しんでいます。この娘の状態を治すのはキリスト以外にはないという望みをもって、彼女は、「主よ、ダビデの子孫としてお生まれになった救主よ」と、キリストに向かって叫び続けています。ところが、キリストは女性の叫びに対して、冷たい態度をとり、「イエスは一言もお答えにならなかった」(23節)と記されています。苦しむ者の求めに対し、速やかに的確に答えて下さるいつもの姿とはかけ離れているように感じられます。キリストは、彼女に、「わたしは、イスラエルの失われた羊(神様を信じないで滅びに向かっている人々)以外の者には、遣わされていない」(24節)と答えています。
旧約聖書によれば、神様の救いの計画は、

❶救主はユダヤ人の中に生まれること、

❷その救主はユダヤ民族を救いに導き、

❸救われたユダヤ民族が世界の民族に救いを告げ、全人類に救いが及ぶというのが神様の計画でした(しかしユダヤ人の不信仰によって、救いは先ず異邦人に与えられるようになった)。それで、キリストは、「イスラエルの失われた者を救いに導くのが、わたしの第一使命である」と言われたのです。



◎24節から、キリストは自分の使命に対し、責任ある生き方をしておられたことを教えられます。

*キリストは、神様から託された救いの計画の実現のために、先ずユダヤ民族の救いのために集中しておられた、ということです。

聖書に預言者、使徒のことが記されていますが、彼らは一つのことに集中していました。旧約の預言者は神様の御心を受けて、それを人々に語り告げ、預言者は神様の御言葉どおりに生きるということに集中していました。新約の使徒は、十字架にかかって人の罪の赦しの道を開かれ、死を滅ぼして甦ったキリストを伝えることに全力を傾けるという生き方をしていました。使徒パウロは、「わたしは十字架につけられたキリスト以外のことは、何も知るまいと決心した」Ⅰコリント2:2)と言っています。あれもこれも、というような散漫な行き方では、使命を達成するということは無理であったでしょう。キリストは、先ずユダヤ民族の救いを優先させ、ユダヤ民族から全人類に救いが及ぶということが実現するようにと神の計画のために集中して、奉仕しておられたのです。しかし、キリストは愛の救主ですから、25節以下で、カナンの女の願いに素晴しい祝福を与えています。

*キリストは、一人の失われた羊を捜し、求めることに全力を傾けておられた、ということです。
キリストが生活され、伝道して歩かれた地域は、日本で言えば四国ぐらいの広さの所です。その狭い地域の中で、キリストは失われ、滅びに向かって歩んでいる人を捜して歩かれました。一つのことに集中して掘り下げて行くこと、この小さな働きのように見えることが、実は全世界・全人類の救いにつながって行くのです。
インドで貧しい人を助ける働きをしたマザー・テレサがいます。最初の頃は、朝早く何人かの人で町を歩く、そうすると必ず行き倒れになっている人がいる、その人を皆で担いでホームへ運び、体を洗い、清潔な着物を着せ、最後を看取ってあげるという働きをしていました。すると、「この町には何万人もの行き倒れがいる。たった一人を助けても何の役にもたたない」と言う人がいました。それに対し、「満々と水を湛えている大海原も、最初はたった一滴の水から始まりました。このたった一人の人に愛を注ぐことが大切です。たった一人の人を助けることをしないならば、それは永遠にゼロです。すべての始まりは一人から、一つから始まります」と答えています。一人の人を助けることから出発したマザー・テレサの働きは、今や全世界に発展しています。
熊谷の教会は1982年に現在地に移って来ました。そのころの礼拝人数は30-40人でした。現在は120人ぐらいになっています。これは神様の恵みです。「誇るものは主を誇れ」(Ⅰコリ1:31)と言われているように、神様の量り知れない恵みを讃美します。私たちの教会は、聖書を通して、神様が愛であり、すべての人を個人的に愛しておれることを信じて、個人伝道をコツコツと実践しています。私が伝道者になった頃、教会成長論が叫ばれ、その次は韓国のリバイバルに学べと多くの方々が韓国に行きました。また外国から著名な伝道者を呼んで大伝道集会を開くなど様々な方法が行われて来ました。現在も繰り返し、様々なものが紹介されては消えています。私たちはキリストが自ら相手の所に足を運び、個人的に救いを伝えた伝道方策にならって、コツコツと個人伝道を継続しています。この礼拝に集っている皆さんの殆んどは、「私もキリストの十字架と復活の事を個人的に聴いて、心を開いてキリストを信じ、受け入れました」という方々であると思います。
熊谷福音キリスト教会が、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として、聖霊の力により、ますます個人伝道が盛んになって行くように祈って下さい。個人伝道の学びをしていない方々は早く学んで、家族に、友達に救いを伝えて行くために、祈って学んで行くように心からお勧めします。

2、キリストは、真剣な信仰を受け入れ、祈りに答えて下さる主である。

女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」(25節)、イエスは言われた、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。(28節)


カナンの女は、あきらめないで、必死になってキリストに願い続けています。私たちの祈りは粘り強い祈りでしょうか・・・。1度か2度祈って終わりになるような祈りでしょうか、それとも祈りが聴かれるまで祈り続けるという祈りでしょうか。ヤコブが、ヤボクの渡しで、神の使いと相撲をとったことが記されています。ヤコブは必死になって神の使いに組み付き、「あなたが、わたしを祝福して下さるまでは、決して離しません」と言って、遂に祝福を与えられています。これは、ヤコブが神様に、祈りが聴かれるまで必死になって祈った、ということを示しています(創世記32:22-32)。キリストは弟子達に言われました、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう」(マタイ7:7)。真剣に祈り、求めて行くことが大切であることを心に刻んで、私たちも祈って行きましょう。

◎カナンの女の祈りを通して教えられることがあります。

*カナンの女のように、主に必死になって縋ることです。
主に縋るというと、何か自分のことが弱々しく感じられてしまうという人がいます。自分が弱いということを認めないのは、自分の力に頼っているということを示しています。信仰とは、自分は弱い者である、無力な者であるということを認めて、主に縋るということです。自分が強ければ、信仰はいらないのです。弱いから神様の助けが必要なのです。神様に縋ることをためらっている間は、まだ自分で出来るという強がりがあり、プライドがあるということです。「自分は弱い者である」ということを素直に認めて、キリストに祈ることが信仰の秘訣です。神様は、「砕けた、悔いた心」(詩篇51:17)を喜ばれ、豊かに恵みを注いで下さいます。


*カナンの女のような、祈りの姿勢の変化が大切です。
最初は叫び続ける女性に対し、キリストは沈黙しています。やがて、叫び続けるカナンの女とキリストとの問答になり、キリストが最後に、「女よ、あなたの信仰は」見上げたものである」とほめています。その御言葉は真実であり、その印として、「あなたの願いどおりになるように」と言われて、「その時に、娘は癒やされた」と記されています。
彼女の訴えに対して無関心であり、一度は拒絶までされたのに、キリストは彼女に対して、何故あのように心を変えたのたかということを考えてみましょう。彼女がしつこく求め続けたからという事が考えられます。また「子犬でも食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言って、自らを子犬のような者とした彼女の謙遜さに感動なさったからであるとも考えられます。
しかし、この箇所をよく読んで見る時に、25節の「女は近寄り、イエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助け下さい』」というところに、彼女の信仰が表されたということを知ることができます。最初は22節で、カナンの女があらわれて、娘のために叫び続けています。ところが25節では、キリストを拝して(ひれ伏してー新共同訳、新改訳)いる姿があります。拝するとは、ペルシャ人が王の前にひれ伏して床や地、足または衣服の裾に接吻していたことから来た言葉と言われています。

最初は、立ったままで、娘の癒やしを求めていたカナンの女が、自分の身をキリストの足もとに投げ出して、ひれ伏して礼拝したことを示しています。カナンの女が、彼女自身を投げ出した時に、キリストの目は彼女に注がれ、祝福が彼女に及んで行きました。

彼女は身を投げ出して、キリストを礼拝した時に、「主よ、わたしをお助けください」と訴えています。最初は、あれほど執拗に娘のことをお願いしていたのに、キリストの前に身を投げ出した時に、彼女の心に変化が起きています。「これは娘の問題ではなく、自分自身の問題である、自分の手に握りしめている娘のことについて自分の都合ばかりを訴えて、主を利用するようなことはやめます、娘のために何もできないでいる、このわたしをお助けください」と言って、一切を主の御手にまかせ、主の御心がなることを願ったのです。問題や課題を、自分の手にしっかり握りしめ、「自分に都合の良いようにして下さい」と主にお願いするというのは、主を利用しているようなものです。カナンの女がが、「娘のことは主におまかせします」と言った時に、キリストの愛が彼女に注がれたのです。私たちも、祈る時に、つい問題に心を奪われて、その解決を自分の都合の良いように解決するように、主を利用するようなお願いをすることがあります。例えば、「自分の夫(または妻)を救って下さい」と祈ります。その時に、「自分は夫(または妻)のためにどれほど祈ってきただろうか、自分の都合ばかりを求めてはいないだろうか、夫(また妻)のために何もできないでいる自分の不信仰を憐れんで下さい、私を助けて下さい」と自分の弱さ、足りなさを認めて祈って行けば、夫(または妻)の救いは神様が成就して下さいます。

私たちがなすべきことは、「まず自分自身のすべてを主イエス・キリストにまかせる」ことです。自分の一切を主におゆだねすることです。私たちにとって最も大事なことは、主を拝する事、主の前にひれ伏すという事です。

お祈りを捧げます。

創造主である神様、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わし、十字架と復活によって救いを与えて下さったことを感謝します。カナンの女のように、どこまでもキリストの答えを求めて行く信仰を与えて下さい。自分の願いではなく、自分の弱さを認め、「私を憐れんで下さい」という砕かれた祈りを捧げるように、聖霊によって祈りを導いて下さい。病んでいる方々に平安と癒やしが与えられることを信じます。教会の霊的必要を満たして下さい。会堂のことも神様の御心を求めて祈りを積み重ねて行くように導いて下さい。本日の午前2部礼拝、午後の活動、夜の礼拝のすべての中心に主がいて下さる事を感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。


参考文献:マタイ注解―黒崎、フランシスコ会、文語マタイ略解、LAB、シンプソン、バークレー。米田。「祈りと瞑想への道・榎本・聖燈社」。