十字架―救いの完成 ヨハネ福音書19:28-37 主の2010.3.28受難週
世界の著名人が人生を終える時の様子を記した「人間臨終図鑑」という本があります。30代で生涯を終えた人々の中にキリストが出てきます。「キリストはユダの密告で捕らえられ、ゴルゴタの丘で十字架にかけられ、午後3時に死んだ。この人物の臨終については、『異教徒(ノンクリスチャン)』にとってまことに書くことが難しい」と述べられていて、何のコメントも記されていません。キリストは、不法裁判により死刑判決を受け、朝9時にゴルゴタの丘で、両手両足に釘を打ち込まれて十字架につけられ、昼の3時に息を引き取って行きました。四つの福音書は、キリストが十字架の上で言われた七つの言葉を記録していますが、驚くべきことにキリストは自分の苦しみを訴えていません。また自分を十字架にかけた人々に対して何の恨み言も言っていません。それは、キリストが人間の罪の身代りになって十字架で苦しみ、自分の命を捧げて死んで行かれた救主であることを示しています。その事が理解できないので、「人間臨終図鑑」では、キリストについて「異教徒にとって書くことが難しい」と言っているのです。
本日はヨハネ19:28-37です。キリストは、朝の9時に十字架にかかられ、午後3時ごろ、「わたしは、かわく」と言われ、差し出されたぶどう酒を含ませた海綿を受けて、「すべてが終った」と宣言され、息を引き取って行かれました。十字架は苦しく、耐え難い痛みを伴うのですが、キリストは、「すべてが終った、救いの業は完了した」という勝利の宣言をもって、そのきよい命を私たちの罪のために献げ、罪の赦しの道を開いて下さいました。今週はキリストが十字架につかれた「受難週」です。週報にキリストの地上最後の日々が記されています。キリストの御足の跡をたどり、十字架による救いの恵みに感謝を新たにし、来週のイースターに向かって進んで参りましょう。
内容区分
1、キリストは十字架に命を捧げ、救いの業を完了された。19:28-30
2、キリストは血と水によって、信じる者を神の子にする救主である。19:31-37
資料問題
28節「わたしは、かわく」、キリストは死の直前まで完全に出来事を意識していた。これは詩篇69:21からの引用。30節「イエスはそのぶどう酒を受け」、釘付けられた両手両足からの大量出血と呼吸困難のため激しい渇きを覚えていた。「息をひきとられた」、直訳は「霊を渡した」。31節「その日が準備の日であったので」、準備の日は安息日の前日、すなわち今日の金曜日にあり、翌日の安息日のためにすべての準備をする日であった(出16:22-30)。当時の一日は日没から次の日没まであったので、もし三人の死が日没後になれば、安息日になるので、死体を十字架から取り下ろすことはできなかった。律法は死体を夜通し、さらすことを禁じていた(申21:22-23)。その日に主の遺体が取り下ろされなければ、日曜日または月曜日まで放置され、おそらく腐敗したであろう。金曜日に遺体が墓に入れられたことによって、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)という復活の預言が成就したのである。34節「血と水が流れ出た」、ゼカリヤ13:1の預言の成就。血は贖罪、水は洗いきよめを表す。すなわち義認と聖化である。
1、キリストは十字架に命を捧げ、救いの業を完了された。19:28-30
そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった(28節)。イエスは、そのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首を垂れて息をひきとられた(30節)。
キリストは、金曜日朝の九時に十字架につけられ、午後三時に息を引きとっています。十字架上の6時間の間に七つの言葉を言っていますが、28節、30節はその一部です。
キリストの十字架上の七つの言葉
1、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)
2、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)
3、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19:26,27)
4、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46、マルコ15:34、詩篇22:1)
5、「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)
6、「すべてが終った」(ヨハネ19:30)
7、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46、詩篇31:5)
今日から「受難週」に入ります。キリストが地上最後の一週間を過ごされ、金曜日に私たちの罪の身代りになって十字架にかかって下さったことを覚える大切な週です。キリストの十字架を身近に覚えるために、断食をしたり、好きなものを断ったりして、その分を献金として捧げ、イースターを迎える備えをする週です。
*「受難週」ですので、キリストの十字架の恵みに注目して行きます。
キリストの十字架によって、私たちは罪から解放され、永遠の命を与えられました。
人間は創造主であるまことの神様に背き、罪人になっています。命と愛の源である神様から離れているので、人間は偶像を拝み、心は悪い思いで満ちています。聖書は、「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23前半)と厳粛に告げています。死には二つの意味があります。一つは肉体が死ぬことです。日本人は平均すれば大体80年ぐらいで肉体の死を迎えます。ところが、それで終わりではなく、死のもう一つの意味は、私たちは一人残らず、まことの神様の前に出て審(さば)きを受け、永遠に生きる天国か永遠に滅びる地獄のいずれかに行くことになります。罪をもったままであれば、神様から切り離されて、永遠の滅びの中に投げ入れられてしまいます。しかし、神様は愛です。「罪の支払う報酬は死である」に続いて、「しかし神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」(ロマ6:23後半)という喜びの約束が告げられています。
キリストは神の独り子でしたが、人間の罪を赦し、永遠の命を与えるために、人間となって地上に来られ、33年半の人生を送られました。人生の最後に、罪のない、潔(きよ)い身を十字架に捧げ、私たちの罪の身代りになって死んで下さった救主です。キリストは、裸にされ、両手両足に釘を打ち込まれ、十字架の上で、朝の9時から昼の3時まで苦しまれました。私たちが受けるべき罪の罰を、罪のない神の御子であるキリストが身代りになって受けて下さったのです。キリストは極限まで苦しみに耐えていましたが、釘付けにされた傷の痛み、大量の出血、呼吸困難により、激しい喉の渇きによって死が目前に迫った時、「わたしは、かわく」と言われ、ぶどう酒を受け、「すべてが終った」と救いの完成を宣言され、首を垂れて息を引きとっています。
「首を垂れた」というのは、「枕に頭をおく」という意味です。「息を引きとる」というのは、「ご自分の霊を神様に渡された」という意味です。キリストは、人間の罪のために徹底的に苦しまれ、「すべてが終った、人間の救いのための働きをわたしは成し遂げた」と宣言され、枕に頭をおいて安心するようにして、その霊を神様に任せたということを示しています。聖書朗読のイザヤ53:5を思い出して下さい。
「彼(キリスト)はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼(キリスト)は自ら懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」。
キリスト以前700年の昔に預言された事柄が、十字架によって成就したことが分かります。主イエス・キリストが十字架に、罪のない尊い命を捧げて下さったことによって、私たちの救いの道が開かれました。
ある牧師が畑にジャガイモを植えました。数ヶ月して掘ってみると、十数個の芋が親芋の回りに鈴なりについていました。ところが親芋はと見れば、中身はまったくなくなって、皮ばかりがわずかに残っている。子芋にいのちを与えるためには親芋の死が必要であった。それを見て、牧師はキリストが十字架に命を捧げ、その命によって自分たちは生かされているということを感謝しました。
ロシアが過激派などによって政情不安の時代に飢饉がありました。宣教師として遣わされた人が、モスクワの郊外を歩いていると、子供を抱いたまま道ばたに倒れている婦人がいました。飢えのために歩く力がなく、子供に飲ませる乳も出ない。しかし、彼女のせめて一日なりとも我が子の命を長らえさせたいという思いからでしょう、よく見れば、彼女は乳房の上をナイフでえぐり、その傷口からにじみ出る血を吸わせながら、子供を養っていたところであったということです。なんという愛でしょう。ひとりの子供の一日の命を保つために、母親の血を必要としました。全人類が永遠の死より救い出されるためには、神の子キリストの十字架の犠牲の血が必要とされたのです。
キリストは十字架に上るとき、痛みを和らげる没薬を混ぜたぶどう酒(一種の麻酔薬)を受けていません(マルコ15:23)。
それは、私たち人間の罪の身代りになって、徹底的に苦しみを受けるためでした。そして、息を引きとる直前に、ロマ兵が飲むぶどう酢に水と卵を混ぜてつくった飲み物に口をつけ、それから息を引きとって行かれました。神の御子キリストが自分の命を注ぎ出して、私たちに命を与えて下さったことを、ただ感謝するのみです。
2、キリストは血と水とによって、信じる者を神の子とする救主である。19:31-37
しかし、ひとりの兵卒がやりでその脇を突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。(34-35節)
キリストは金曜日の午後3時に息を引きとりました。ユダヤでは日没から次の一日が始まります。翌日は土曜日で安息日になり、仕事、労働などができません。そこで日没前に急いで十字架から遺体を取り下ろして布を巻き、岩をくり抜いた墓に納めることになりました。死を確認するために、二人の犯罪人は足の骨を折られています。キリストは既に死んでいたので、足を折られませんでした。ところが一人の兵卒がキリストの脇を槍で刺し、そこから血と水とが流れ出たのです(34節)。
*34節に注目し、キリストの十字架がどんなに素晴しいものであるかを知って行きましょう。
「やりでその脇を突きさすと、すぐ血と水が流れ出た」とあります。
これは何でもないことのようですが、キリストの心臓が突き刺されたこと、したがって、完全に命が絶たれたという事実を示しています。キリストの心臓は実際に鼓動を止め、キリストは本当に死なれたのです。真の死がなければ真の犠牲はあり得ません。真の死がなければ真の復活はあり得ません。ロマの兵隊は何気なく、キリストの脇腹を槍で突き刺したのですが、それがキリストが確かに死んだことを示す証拠になり、三日後にキリストが死を打ち破って復活されたことが、いかに素晴しいことであるかを表すことになったのです。
「血と水」の意味はなんでしょうか。
血は聖餐式を表し、水は洗礼を表すという解釈があります。しかし、洗礼と聖餐式は、キリストが死なれる時にはすでに制定されていたので、改めてここで持ち出されることはないと思われます。 血と水の本当の意味は、ゼカリヤの有名な預言の中に見つけ出すことができます
その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民のために開かれる。(ゼカリヤ13:1)
血と水がキリストの脇腹より流れ出たことは、ユダヤ人すべてに対し、また今やついにすべての罪人のために救いの泉が開かれたことを表しています。キリストの死によって罪の贖いと赦しを与える、「罪と汚れとを清める泉」が開かれたことを示しています。
*血はキリストの十字架による罪の赦しを表しています。キリスト以前の旧約の時代、人は罪を犯すと、自分の身代りに動物を殺して血を流し、神様から罪の赦しを受けていました。キリスト以後の新約の時代、罪のないキリストが人間の罪の身代りになって十字架に命を捧げ、血を流して罪の赦しの道を開いて下さいました。ヨハネは言っています、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:7後半)。昔、日曜学校で、「福音の汽車に乗ってる、天国行きに、罪の駅から出てもう戻らない、切符はいらない、主の血が定期券、おゝ走るよ、ハレルヤ号、天国さして」と歌ったことを思い出します(記憶によるので正確な歌詞ではないかも知れません)。私たちは「子羊であるキリストの血で洗って、白く」されているものであることを感謝します(黙示録7:14)。
*水とは、洗い清めることを表しています。キリストの救いを受けた者は、日々にキリストを仰いで、聖霊によって祈り、罪から離れ、心を新しくされ、古い罪の習慣から解放されて、心も生活も清められて行きます。
来週はイースターです。イースターを迎える真の備えは、血を流して救いの道を開いて下さったキリストの十字架に感謝することです。そして、水が汚れを洗い清めるように、キリストを仰ぎ見て、罪の古い習慣を捨てて、清められて行くことです。聖書は、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくなければ、だれも主を見ることができない」(ヘブル12:14)と告げています。「すべての人と相和し」とありますが、その印は自分については謙遜、人に対しては思い遣り、神様に対しては感謝の心をもつことによって表されます。「きよくなる」ということは大切です。テレビの宣伝の多くはアルコールです。アルコールの次は麻薬になり、やがては身を滅ぼします。タバコは自分を害すると同時にその煙は周りの人を害します。目から入るもの、例えばポルノがあります。携帯には出会い系サイトなどがあり、犯罪を引き起こしています。キリストが私のそばにいたら、これは隠そうと思うようなものから遠ざかることです。キリストに見られても大丈夫という生活をして行くように、祈って、日々キリストを仰ぎ見る生活をして行くように、心からお勧めします。
お祈りを捧げます。
天地の主である神様、独り子イエス・キリストによる救いを与えていただき感謝します。私たちを救うために、朝の9時から昼の3時まで十字架にかけられ、「わたしは、かわく」と言われ、私たちの罪の身代りになって徹底的に苦しんで下さったキリストの愛の犠牲に感謝します。今週はキリストの受難の週です、仕事をしながら、学びながら、家事をしながら、キリストの十字架に感謝して行く日々であるように導いて下さい。キリストの救いに感謝すると同時に、私たちを清めて下さい。きよくならなければ、だれも主をみることはできません。聖霊の力により、古い罪を振り捨て、心と体を害する汚れたものを遠ざけ、退ける力を与えられ、私たちを清い者にして下さい。
来週は主の復活祭、イースターです。死を滅ぼし、永遠の命を与えるために復活されたキリストを心から讃美し、喜びのイースターを祝う素晴しい時を与えて下さい。病気の方々に平安を与え、回復を確実に与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―黒崎、ライル、バークレー、文語略註、フランシスコ会、矢内原、LAB。
「救いは今です(キリスト教案内)・沢村著・ことば社」