キリストの復活と永遠の生命 ヨハネ福音書11:25-26 主の2010.4.4主の復活祭礼拝
主の復活祭、おめでとうございます!復活祭のことを英語ではイースターと言います。イースターという言葉は、古代ゲルマン民族の春の女神の祭りからきた言葉と言われていますので、イースターという言葉に、キリストの復活の意味はないのです。では、主の復活祭を何故イースターと呼ぶのでしょうか。今は春です。冷たい冬が去って、天地に生気のみなぎる春の到来によって、枯れていた木々の枝に緑の葉が現れ、美しい花が咲き、心が明るくなります。キリストの復活を通して永遠の命を与えられたことは、私たちにとって大いなる喜びです。春の喜びとキリストの復活によって与えられた命の喜びが合わさって、復活祭をイースターと呼ぶようになっています。
イースターは、キリストの復活を記念する教会最古の祝日です。紀元33年に誕生した教会は、土曜安息をやめて、キリストの復活された週の初めの日、すなわち日曜日を主の日として礼拝を行うようになり、現代の私たちもキリストの復活を信じ、記念して、日曜礼拝を継続しています。
本日はヨハネ福音書11:25-26です。キリストは、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」と言われました。キリストは金曜日に私たちの罪の身代りになって十字架にその清い命を捧げて下さいました。そして三日後の日曜日の早朝、キリストは死を滅ぼして墓から復活され、永遠の命を与えるという約束が確かなものであることを示して下さいました。ところで、キリストの墓はどこにあるのでしょうか。エルサレムにそれらしい場所がありますが、墓の場所は正確には分かりません。分からなくても良いのです。何故ならキリストは復活されたので、墓は必要ないからです。
主の復活祭、イースターを感謝し、聖書のメッセージに耳を傾け、祈って、今もそして永遠に生きておられるキリスに従う信仰の決断をして、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。
内容区分
1、人間には死の現実があるが、クリスチャンは死んで終わりではない。11:25
2、永遠の命を受けた者は、キリストを信じて日々を真剣に生きる。11:26
資料問題
ヨハネ11:1-44にマリヤとマルタの兄弟ラザロの死と甦りのことが記されている。キリストは「わたしはよみがえりであり、命である」と言われ、死んで4日も経っているラザロを墓から甦らせている。25節「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」、キリストは死者を復活させる力をもち、永遠のいのちの源であることを示している。「生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない」、キリストを信じる者は、死んでも肉体的いのちを失うだけで、霊的には永遠に生き続けるのである。26節「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」、現在キリストを信じ復活の生命に与っている者は、既に生命に移っているのであって(5:24)、既にキリストと共に甦って天の処に座しているのである(ロマ8:10、Ⅱコリント4:14、エペソ2:6、コロサイ2:12, 3:1、Ⅰペテロ1:23)。
1、人間には死の現実があるが、クリスチャンは死んで終わりではない。11:25
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。(25節)
*人は誰でも例外なく、必ず死んで行く。
人は誰でも、「おめでとう!」という祝福の言葉に包まれてこの世に誕生して来ます。両親、祖父母をはじめ、周りの人々は、生まれ出た子供に対し、「幸多かれ」と声をかけ、神様の恵みを祈ります。私たちは、生まれてきた子供がいつまでも生き続けて行くという思いをもって祝福しますが、しかし、生まれて来たことが確実であるように、すべての人がやがて人生の終わりの時を迎え、確実に死んで行きます。誕生した時の祝福の言葉に代わって、人は涙と哀悼の言葉に送られて、死んでこの世を去って行きます。
中世の修道院の壁には、「死を記憶せよ」という言葉が刻まれていました。それは、死が突然にやってくるので、死がいつ自分の身に起っても、泣いたり取り乱したりしないように、日ごろから死に備え、神様に会う備えをしておくように、ということを教えている言葉です。
*クリスチャンは死んで終わりでないことを信じている。
死について、ある人々は死んで無になると考えています。ある人々は死んで何かに生まれ変わるだろうと思っています(輪廻転生)。多くの人々は死んでどうなるのか分からないと考えていますが、一般的には、死は人生の終わりであると思われています。
しかし、クリスチャンは違います。私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を与えられています。この肉体は、一度は古くなって死を迎えますが、霊は天国に行くということを信じています。そして世の終わりの日に、一度は古くなって死んだ体が栄光の姿に変えられてよみがえり、霊と体とが再び一つになり、永遠に生きることを信じています。クリスチャンは、人間は死んで終わりではないということを信じています。それは、キリストが死を滅ぼして復活され、生きている主だからです。それを教えてくれるのがヨハネ11:25-26です。
*25節に注目して下さい。「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である』」。
「イエスは彼女に言われた」とあります。彼女というのはマルタのことです。キリストはマルタを見つめながら、個人的に語りかけています。イースターをお祝いするために130名を越える方々がいますが、130名の一人一人に、キリストは個人的に語っておられます。いま私が皆さんに取り次いでいる御言葉は、「他の誰でもない、この私に語られているものである」ということを信じる時に、キリストの恵みが心に与えられます。
「わたしは」とキリストは言っています。「わたしは」という言葉で、キリストはマルタの心をご自分のほうに引き寄せています。信仰の与え主は生きているキリストです。私たちの信仰の対象はキリストです。キリストを信じることがまことの信仰です。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」とキリストは語りかけています。キリストは、私たちの罪の身代りになって一度は十字架の上で死んだのですが、死を滅ぼして復活され、今も生きておられる救主です。私たちの霊はキリストの十字架によって新しい生まれ変わりを与えられ、キリストの復活によって永遠の命を受けています。「たとい死んでも」とは肉体は一度は滅びるが、霊は救われていて、滅びる事はないということを教えています。
人は間違いなく死んで行きます。多くの人々は死を恐れます。日本では部屋の番号などに、4という数字を使わないようにしています。4が死に通じると考え、4号室(しごうしつ)は嫌だと思うからです。それほど死を恐れているということです。因みに教会の電話は522-4442と4が三つもあります。4は死ではなく、4は喜びに通じると思い、感謝しています。クリスチャンになる前は死を恐れていましたが、クリスチャンになると、死を恐れなくなります。肉体は一度は死にますが、キリストを信じれば霊は救われて永遠の天国に導かれることを信じているからです。「わたし(イエス・キリスト)はよみがえりであり、命である」ということを信じる者は、死を恐れることがなくなります。
私事になりますが、家内の父は1994年、88歳の時に「前立腺ガン」が発見されました。父は「ガン告知」を静かに受け入れました。それは「自分はキリストによって救われている。死んで終わりではなく、天国がある」ということを信じ、心に揺るぎない平安があったからです。一年ほど自宅療養をしましたが、常に感謝をもって日々を穏やかに過ごしていました。地上最後の日、家内の母は詩篇23篇を朗読し、最後の6節「わたしの生きている限りは必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」との御言葉を読み終わってから、主に祈りを捧げました。祈り終わると、母は、「天国へ先に行って待っていて下さい。私も後から行きます。長い間、本当に有り難うございました」という言葉をもって、父を天に送ったのです。その2年後に、母は信仰の友の讃美と祈りに包まれ、愛する夫の待つ天国へと旅立って行きました。
2、永遠の命を受けた者は、キリストを信じて日々を真剣に生きる。11:26
「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(26節)
死はいつ訪れて来るのか誰にも分かりません。荻野弘子さんと共に熊谷教会初めての受洗者である松下成子(旧姓福島)さんのご主人が、先週木曜日に70歳で天に召されて行きました。ご主人は結婚してからクリスチャンになり、この教会の礼拝にも出席したことがあります。身近な人の死に接すると、死がいつ自分にやって来るか分からないということを思い、厳粛な気持になります。漫然と一日を過ごすのではなく、生きている今のこの一日が永遠の天国に結びついていることを信じ、いつ天国に召されてもよいように、今日という一日を大切に真剣に生きて行くことが大切であることを思わされます。
*永遠の命を信じる者は、キリストを信じて生きる。
「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」とキリストは言われました。私たちがキリストを信じると、永遠の命が与えられ、天国を目指して進むようになります。与えられた今日という一日を、キリストを信じて、悔いなく、真剣に生きるためには、どうしたら良いのでしょうか。
*キリストを信じて生きる者は、キリストの御言葉に従います。キリストは呼びかけておられます。
「わたしについてきなさい」。(マタイ4:19)
「あなたは、わたしに従ってきなさい」。(ヨハネ21:22)
キリストは複雑なことを要求しません。「わたしについてきなさい」という単純な御言葉で私たちを招いておられます。キリストから離れないで、キリストについて行く時に祝福が与えられます。
私事になりますが、信仰の初めの時、牧師が、「イエス様について行きなさい。イエス様から離れたらだめだよ」と語ってくれたことを思い出します。また、私が牧会伝道して5年目ぐらいの時に、大先輩の牧師から、「イエス様はいつも個人的に語りかけている。主は御言葉を通して君自身に語っている。イエス様に従いなさい。あの問題、この問題があるでしょう。家族の救いのことも急務でしょう。人のことも結構気になるでしょう。でも、君がひたすらイエス様に縋り、祈って行けば、抱えている問題も、家族のことも、周りの人のことも、イエス様が一番よいようにして下さる」と教えてくれたことが心に残っています。あれから長い年月が経っていますが、きょうも依然としてキリストに従う道を歩ませてもらっていることを感謝します。振り返って見ると、どんなに問題が降りかかってきても、聖霊によって祈る心を与えられ、イエス・キリストの御名による祈りを通して良き解決が与えられて来ました。私の両親もイエス様を信じる機会を与えられ、天国に旅立って行きました。人を恐れることなく、主に信頼してくることができました。イエス様についてきて良かったと心から思います。これからもイエス様が万事を益とする恵みをもって導いて下さることを信じています。
*26節の御言葉の最後、「あなたはこれを信じるか」に注目して下さい。
キリストは死を打ち破って復活され、私たちの人生を守り、支え、導かれ、私たちを天国に連れて行って下さる救主です。きょうの一日が永遠の天国に結びついていることを信じ、毎日聖書を読み、祈り、教会にしっかり繋がって行くことが大切です。あなたは、キリストを生きている主として信じていますか・・。キリストを信じると、現在を精一杯に生き、天国を目指して進むことができます。
アフリカが暗黒大陸と言われていた時代、イギリスのリビングストンは宣教師としてアフリカの奥深くに入り込み、伝道と共に地理上の発見などで、神様に大きく用いられました。彼はアフリカ奥地の小屋の中で、粗末な手製のベッドの傍で、ひざまずいて祈っている姿のままで息を引き取っていたのを発見されました。遺体は丁重にイギリスに運ばれてウエストミンスター寺院に葬られました。彼は生きている間は全力を尽くして自分に与えられ、託された働きをしました。それが永遠の世界に繋がっていることを信じていたからです。そして天国を目指して真剣に生きていることの証しとして、日々に聖書を読み、祈ったままの姿で天国へ召されて行きました。
もう一度、ヨハネ11:25-26を読みます。
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
「あなたは信じるか」とキリストは私たちに個人的に問いかけておられます。あなたの答えはなんでしょうか・・・。
私は答えます、「アーメン、主よ、十字架に上って私の罪の身代りになって、罪の赦しの道を開いて下さったことを感謝します。主よ、死を打ち破って、きょうのイースターの日に復活され、私に永遠の命を与えて下さったことを感謝します。私はキリストが生きておられる真の救主であることを信じ、告白し、主をほめ讃えます」。
あなたの答えはなんでしょうか・・・。私と同じ答えであることを信じます
お祈りを捧げます。
天地の主である神様、私たちは尊い御子イエス・キリストの十字架と復活とによって、神の子にされていることを感謝します。きょうはイエス様が死を滅ぼして復活された勝利の日であることを感謝します。日本で、全世界でイースター礼拝が捧げられていることを感謝します。キリストは生きている真の救主です。死んで終わりではなく、キリストを信じる者には永遠の天国が備えられていることを感謝します。生きている主に頼り、どんなことでも主に祈って行くように導いて下さい。この後に続く「イースター祝会」、夜の「イースター夕べの礼拝」を豊かに祝福して下さい。
甦って、今もそして永遠に生きておられる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、ライル、米田、バークレー、榊原、文語ヨハネ略解、LAB、口語略解。「永遠の命と望み・渡辺・福音出版」、「クリスマスとイースターの祝い方・石川和夫・日基教団出版局」