聖霊に導かれ、キリストを信じて生きる ヨハネ15:26-16:4  主の2010.5.23ペンテコステ礼拝

今日は教会暦ではイースター、クリスマスに並んで大切なペンテコストの日です(ペンテコステの意味については週報に記してあります)。この日、エルサレムで祈っていた120名の弟子達に聖霊が注がれ、ペテロは、旧約聖書を引用して、イスエ・キリストが十字架と復活による真の救主であることを人々に伝え、一度に3000人の人が救われ、洗礼を受け、教会が誕生しました(使徒2:1-42)。

ところで、私たちは書物を通して多くの知識を得ています。私は神学校関東分校で教えていましたが、一つの教科のために、少なくとも30冊の本を読破します。すると教える教科の内容が把握できます。しかし知識だけでは不十分な所があります。「聖書地理」を受け持った時、参考書を読み、聖書地図に基づき教えました。その頃、聖地旅行に行く機会が与えられ、書物と地図で理解していた聖書の舞台を自分の目で見てしっかりと心の中に記憶し、書物では分からないイスラエルの風のそよぎ、空の深い青さ、ガリラヤ湖で泳ぐことによって、ペテロが沈んだ水の感触を知り、聖地についての生きた知識が身についたことを体験しました。

本日はヨハネ15:26-16:4です。キリストは、「真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」と弟子達に教えています。弟子達は、キリストがふつうのラビ(ユダヤ教の教師)とは違うお方で、旧約聖書に現れたエレミヤのような預言者であると考えていたようです。ペテロは、「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と告白しましたが、しかし、キリストが十字架に命を捧げると言われた時に、「そんなことがあってはいけません」と十字架に反対しています。イザヤ53章に預言されている、人間の身代りになって死ぬ神の僕である救主が現れることを知っていたかも知れませんが、それがイエス・キリストであるということを理解していなかったのです。ですから、ペテロはキリストの十字架の時には逃げ出しています。そこで、ペテロをはじめとする弟子達に、キリストは「わたしは十字架にかかり、復活して天に帰るが、わたしについて証をする真理の聖霊がやってくる。聖霊は、あなたがたの信仰を確かなものにする」と告げています。



内容区分

1、聖霊は、私たちにキリストを信じさせ、キリストをあらわすように導いて下さる。15:26-27

2、聖霊は、私たちがどんな状況の中でもキリスト信仰に立つように導いて下さる。16:1-4

資料問題

ヨハネ福音書には、聖霊についての教えが語られている。ルカ福音書の最後に、キリストの「上から力を授けられるまでは(聖霊による力のこと)、都にとどまれ」という命令がある。聖霊は、使徒2章において弟子達に注がれ、教会がはじまり、世界伝道が展開されて行った。ルカ福音書と使徒行伝の間にヨハネ福音書があるのは、聖霊に関するキリストの教えがあるからである。上からの力の源は聖霊であり、聖霊の具体的働きについての知識を得て、使徒行伝を読み、聖霊の偉大な働きを充分に理解し、信じることが出来るのである。17節、「わたしについてあかしをするであろう」、聖霊の偉大な務めはキリストを証することである(マタイ10:20、マルコ13:11、ルカ12:12)。16:1-4には迫害の予告があるが、聖霊の助けによって迫害に打ち勝って行くことができる。




1、聖霊は、私たちにキリストを信じさせ、キリストをあらわすように導いて下さる。15:26-27

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。(26節)


多くの人々が聖書を読み、キリストの救いを与えられています。その逆に多くの人が聖書を読みながら、キリストの救いを得ていません。私が高校生の時に、図書館に「芥川龍之介全集」があり、その中に「西方の人」というキリストに関するエッセーがありました。彼はキリストに対する憧れをもちながら、キリストを信じられないまま、35歳の時に枕辺に新約聖書を置いて、毒を飲んで自殺しました。私は教会に行き始め、キリストを信じるように導かれていたので、芥川龍之介がなぜキリストを信じることができなかったのかを考えさせられたことを思い出します。

ここにいる大部分の方々はキリストを信じています。なぜ信じることができたのでしょうか。振り返ってみると、死の問題、家庭の問題、病気の問題など信仰に導かれる様々なきっかけがありました。或いは親がクリスチャンであることによって信仰に導かれた人もいますし、子供がクリスチャンになって親が信仰に導かれた場合もあります。動機はいろいろですが、一人ひとりがキリストを信じて心が生まれ変わり、永遠の命を受け、天の国籍に名前を記されていることを感謝します。

多くの人々聖書を読んで、キリストが愛の人であり、すぐれた教えを残した人であることを知っています。しかし「知っている」ことと、「それによって生きる」ということは違います。例えば目の前にある食べ物を、「これは美味しいものである」と言うことと、「これは美味しい。だから実際にそれを食べる」のとは全く違っています。「キリストは救主である」と口先で言うのと、「キリストを心に受け入れ、生活の隅々までキリストを信じる信仰によって支えられている」ということは全く違うことです。

私たちの問題は、「頭の中でわかる」ことが「生活全体にしみ通る」ようになかなか成らないということです。聖書の言葉が「知識」でとどまってしまい、「信仰」となって生活全体を動かすものになっていないということです。このことはクリスチャンになってから、多くの人々が一度は体験する霊的な戦いです。

夏に子供達のために夏季学校をして、聖書を教えます。もうだいぶ以前の夏季学校で、「イエス様を信じていますか」、「天国に行けると思いますか」というアンケートを記してもらいました。全部の子供が「イエス様を信じます」と答えていましたす。しかし「天国に行けるかどうかわからない。理由はお母さんのいう事を聞かなかった。兄弟げんかをした。お祈りを忘れた」などと正直に自分の霊的失敗などを書いて、これでは自分は天国に行けないのではないか、ということを心配している気持が記されていました。そして、最後に全員が「私は何があっても天国に行きたい」と答えていました(こうした事を記した子供達は主につながって忠実に信仰生活をしています)。

それは大人も同じす。キリストを信じていながら、生活全体に信仰が浸透していないという嘆きがあります。信仰の知識が、信仰の実践となってあらわされ、「私は内側も外側もクリスチャンです」となかなか言えないという悩みで。実は、これは人間の力ではどうにもならないことです。しかし解決策があります。神様からの光が私たちの心を照らす時に、信仰によって生きる力が与えられます。神様から来る光というのは、「聖霊」のことです。聖霊は、「真理の御霊」、「助け主」、「御霊」とも呼ばれています。聖霊は、単なる光ではなく、天に帰られたキリストの代理者であり、人格をもっていらっしゃいます。聖霊は信じる者の心に住んで下さって、私たちを中から内から信仰の道を歩むように助けて下さいます。



聖霊は、私たちに「イエスは主である」という信仰を与えてくれました(Ⅰコリント12:3)。

聖霊は、私たちに「天のお父様」(ロマ8:13)と呼ぶ祈りを与え、「弱い私たちのために切なるうめきをもって」執り成しの祈りをささげ、私たちを支えて下さっています。(ロマ8:26-27)。

聖霊は、キリストが天に帰られてから、エルサレムの二階座敷で祈っている120名の一人一人の上に降り、弟子達は他国の言葉、或いは異言、または特別な霊の言葉をもって語りだし、ペテロが代表して、キリストの十字架と復活を説教し、3000人の人がキリストを信じて洗礼を受け、教会が誕生しました(使徒2:1-42)。



私事ですが、私の娘は、神様の存在に疑問をいだき、それを解決するためにイギリスの神学校に行きました。ある日、老牧師夫妻が特別講義にやって来ました。夜、娘は老牧師夫妻の部屋を訪れ、自分の信仰の苦しみについて相談をしました。すると、老牧師が「ほら、ここにリンゴがある。本当に美味しそうだ。だが食べて見ないと本当に美味しいかどうかはわからない。神様について論じてもわからない。神様にぶつかってごらんなさい、祈ってみなさい」ということを優しく話してくれました。娘はイギリスの夜空を見上げて、思い切って神様に呼びかけてみました。すると即座に言葉では表現できない、深い平安が心に満ちあふれ、「神様はおられる、神様は私を愛してくれている」ということを明確に信じることができました。翌朝、再び神様に呼びかけてみると、やはり心に温かい平安が満ちあふれて、「自分は神様の子供だ。イエス様の十字架に感謝します、復活のイエス様による永遠の命に感謝します」という祈りの中に、新しい喜びの人生が始まったのです。そして、聖霊の満たしを受けて、今は日本の代表的な偶像がある長野県諏訪地方で、夫・憲治牧師と共にキリストを伝える開拓伝道の働きをしています。

ここに人知をはるかに越えた聖霊の恵み、聖霊の偉大な働きがあります。聖霊は、「イエスは主である」と告白させ、祈る言葉を与え、聖霊を求める者に聖霊を豊かに満たし(聖霊のバプテスマ)、主の働きのために用いて下さいます。



聖霊は、常にキリストをあらわします。聖霊は常にキリストに私たちの目を向けさせます。自分の信仰の足りなさを嘆くのではなく、「私に聖霊を満たし、キリストに従う道を歩ませて下さい」と祈って下さい。

ダビデは祈っています、「あなたはわが神です。恵みふかい、御霊をもってわたしを平らかな道に導いてください」(詩篇143:10)と。聖霊に頼って行くならば、信仰の道を間違いなく進んで行くことができます。

使徒パウロは、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Ⅰコリント10:31)と言っています。日常生活の中で、聖霊に導かれて、信仰を第一にして、祈って行くことが大切です。まだ子供達が小さい頃、レストランで食事をしたことがあります。子供がいつものように、「天の神様、この食事をありがとうございます。イエス様のお名前によってお祈りをします、アーメン」と祈り、私たちも「アーメン」と唱えました。すると隣のテーブルに5-6人の男性がいたのですが、小さい声で、「ああやってお祈りして食べるのをみると、羨ましいね、我々もお祈りしたほうがいい」と言っているのが耳に入りました。聖霊は幼な児の中にも働き、キリストを表すように導いて下さいます。



2、聖霊は、私たちがどんな状況の中でもキリスト信仰に立つように導いて下さる。16:1-4

「わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである(1節)、わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである(4節)


ここで一転して迫害の問題が出てきます。16章を読み進んで行くと、キリストが天に帰った後に、間違いなく助け主である聖霊がやってくることが約束されています。今は16:1-4を見て行きましょう。

キリストは14章から信仰について語り、また聖霊の到来を預言され、聖霊に頼って行くべき事を教えておられます。この16章にきて、「わたしは聖霊について教えてきた。やがてわたしを信じるあなたがたが迫害される時がくる。その時に、こんなはずではなかったと躓かないように、聖霊はわたしの言葉を思い起させ、キリスト信仰に立って行くように導き、助ける」ということを語っています。突然に、信仰の戦いがあるということが教えられているという変化に驚きますが、何があってもキリスト一筋に信仰を保って行くことが教えられています。

ある小学3年生の日曜学校の生徒が、両親・家族と共に墓参りに行きました。両親は型どおり、線香を供えて合掌しました。子供の番になった時、小さい時からの習慣で、いつものように線香を受け取り、墓前に供えたのですが、供えた瞬間、「間違えた」と言って線香を墓前から抜き取って両親に返し、合掌しないで心の中でお祈りをしました。それによって死者を拝まないで、まことの神様を信じていることを表したのです。異教社会に住んでいる私たちは常にこうした信仰を阻害するものに取り囲まれ、異教の習慣の中に巻き込まれがちです。聖霊は、キリストの言葉を思い出させ、偶像礼拝に陥ることのないように導いて下さいます。



信仰の戦いとは違いますが、昨日7名で上野公園ホームレス伝道に行ってきました。皆さんのお祈りに感謝します。黙々と十年一日のごとくオニギリを握って下さっている皆様の愛の献げ物に感謝します。全てを失い、路上で暮している人々のことを思うと胸が痛みます。キリストは見離されている人の友です。誰も顧みる人のいない友なき者の友です。このホームレス伝道を通して、私たちの教会が外部に向かってキリストの愛を表すことができることを感謝します。毎回の礼拝でホームレス300名の人々を前にしてメッセージを語る時、ただ聖霊に頼って、聖霊様がこれらの人々の魂を開き、キリスト信仰へ導いて下さいと祈りつつ、キリストを伝えます。聖霊は救われる人々を起こし、社会復帰につながる者を起しておられることを感謝します。この働きのために全てを献げて伝道牧会している比留間師夫妻のためにお祈り下さい。



皆さんはどんな信仰の戦いがありますか。また様々な生活の戦いがあるかも知れません。どんな中にあっても、聖霊に頼って行く時に、キリストの勝利が約束されています。

ヨハネ福音書16:33をご覧下さい。聖霊を通して心に平安が与えられます。聖霊は悩みを乗り越える勇気を与えて下さいます。聖霊は私たちを勝利に導いて下さいます。この御言葉を握って、聖霊に頼って、主の祝福を日々与えられる人生を共に進んで行くように祈って下さい。



九州にある青年がいました。小学生の時に、父親が他人の罪をかぶって警察に連行されて行きました。周囲の冷たい視線の中でつらい日々をおくり、高校卒業後、大阪の大学に入りました。ようやく自分の人生を歩めると思った時に、父が事故で片足を切断し、その看病のために大学を中退しました。一年後、大阪に出てみましたが、生きる目的がわからずに悩みの日々を過ごしていました。そんな彼を知り合いの人が、「イエス様の所に行こう」と教会に導いてくれました。祈りの時に、知り合いの人が、「神様、ここに人生に迷い、疲れている青年がいます。救ってあげて下さい」と泣きながら祈ってくれました。すると、上からの強い力が全身を貫き、その場に倒されてしまいました。それは、激しくも温かい聖霊の働きでした。青年は罪を悔改め、心は聖霊によって潤され、キリストを信じる喜びの人生を歩み出すことができました。それから40年、変わることのない聖霊に導かれ、キリスト中心の日々を前進しています。



お祈りを捧げます。



天地の主である神様、神の御子イエス・キリストによる救いを与えられていることを感謝します。聖霊が降り、教会が誕生したペンテコステの恵みに感謝を捧げます。私たちに聖霊を満たして下さい。聖霊に満たされて祈り、伝道し、主に仕えて行くように今週の日々を導いて下さい。

病気の方々を主が癒し、主の力によって立ち上がって行くことができますように祈ります。

問題を抱え、重荷を負っている一人一人に力を与え、逃れの道を示し、解決へと導いて下さい。今週も健康、経済、家族に豊かな祝福が与えられるようにお願いをします。

午後からの聖歌隊、夜の礼拝を祝福して下さい。

今月も救われる人々を起こして下さい。

多くの人々が集まりやすい会堂、駐車場を与えて下さるようにお願いします。その実現のために心を一つにし、献金を捧げ、主の良しとする最善の場所を得られるように導いて下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:使徒行伝注解―佐藤、竹森、バークレー、黒崎、LAB、フランシスコ会、文語使徒略註、口語使徒略解。 「新約聖書小辞典・山谷・新教出版社」、「芥川龍之介全集・岩波書店」