罪人を招くイエス・キリスト ルカ18:9-14                 主の2010.6.6 礼拝

子供達と一緒にお祈りをする時があります。お祈りが終ると、ひとりの子供が得意気に言います、「ねえ、○○ちゃんは、お祈りしている時に目をあいていたよ」。「そうですか。ところでお祈りの時はみんな目をつぶってお祈りしてるんだけど、どうして○○ちゃんが目をあけているのがわかったのかな」と言うと、その子供は黙ってしまいます。私たちはこの話しを聞いて笑いますが、実は多くの人は自分は正しいが、ほかの人は間違っていると言い、この子供のように、「あの人は間違っている」と言って他人を批判し、審くことがあります。その原因は、自分用の物差しと他人用の物差しをもっているからです。自分はお祈りの時に目をあいてもよいという物差しをもち、ほかの子はだめという他人用の物差しをもっていて、目をあいている子を見つけて得意になります。本当は、お祈りの時はみんなが目を閉じて、心を合わせるという一つの物差しがあるだけです。
本日はルカ18:9-14です。パリサイ人は、自分は目をあけて、取税人をチラチラ見ながら、自分の正しさを強調して、心の中で祈っています。取税人は、自分の罪深さに恐れおののきながら神様に祈りを捧げています。神殿には大勢の人々が祈るために来ていますが、パリサイ人が立って、胸を張って祈りを捧げている姿を見て、「あの人は信仰が厚い」と思ったかもしれません。それに比べて取税人の祈りの姿はだれの目にも留まらない片隅で、うめくような祈りであったようです。この話をされたキリストは、「神様に祈りが届き、祝福されたのは取税人であった」という結論を述べています。キリストは、祈りの本当の姿とまことの信仰と偽りの信仰とを明らかにしています。
きょうは6月の最初の礼拝です。今月も、まことの信仰をもって神様に祈り、神様に従って行くように、キリストのメッセージを共に聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発しましょう。

内容区分
1、キリストは、高ぶる者の祈りを退けられる。18:9:-12
2、キリストは、へりくだる者の祈りを聴かれる。18:13-14
資料問題
9-14節を通して、まことの信仰と偽りの信仰とが明らかにされている。10節「宮に上った」、神殿に礼拝に行くこと。「ひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった」、パリサイ人は律法の本義よりも付帯事項を厳守し、宗教生活を送っているタイプ。取税人は律法を十分に守らないタイプ。ユダヤ人の間では、前者は義人、後者は罪人の見本とみなされていた。11節「立って」、立って祈るのはユダヤ人の習慣であった(サム上1:26、マタイ6:3)。「胸を張って立っている」という訳している聖書もある(フランシスコ会訳)。13節「胸をうち」、胸は心の座、心は罪の座である(マルコ7:21)。胸をうつことは悲しみと悔い改めを表す。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」、取税人は他人の罪には触れず、自分が罪人であることを意識して、神様のあわれみを求めている。14節「神に義とされて・・・帰ったのは・・・あのパリサイ人ではなかった」、パリサイ人は自己満足をし、自分が罪人であることを認めず、罪の赦しを求めなかったので、罪人のままで帰ったのである。

1、キリストは、高ぶる者の祈りを退けられる。18:9-12

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。(11-12節)


まず皆さんにお尋ねします。皆さんは正しい人でしょうか。もし、皆さんが、「はい、そうです。私は謙遜な人間です。嘘をつかず、人の悪口も言いません。人にご迷惑をかけるようなことはしていませんので、皆さんからは正しい人だと言われています」と答えたとすれば、イエス・キリストは間違いなく、黙って、皆さんの前を通り過ぎて行くと思います。その逆に、「はい、私は正しくなりたいのですが、しようと思う正しいことをすることができず、したくないと思う悪い事はどんどんしてしまいます。時々嘘をついてしまうし、悪口もつい言ってしまいます。人に迷惑をかけっぱなしです」と正直に答えれば、キリストは皆さんの前に立ち止まり、ご自分の御許に招いて下さいます。何故ならキリストは、「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔改めさせるためである」(ルカ5:33)といわれる救主であるからです。


*この箇所に、パリサイ人と取税人の祈りがあります。先ずパリサイ人の祈りを見てまいりましょう。



パリサイ人の祈りの姿がでていますが、彼の心は神様に向いていません。

彼は「立って」祈っています。立って祈るのはユダヤ人の習慣でした。ある聖書は、「立って」という言葉を強調して、「胸を張って立ち」と訳しています(フランシスコ会訳)。パリサイ人は、胸を張って立ち、こう祈っています。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、またこの取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」(11-12節)。

この祈りは正しい祈りです。どこにも間違いはありません。貪欲、不正、姦淫を行わず、週に二度

の断食をし、十分の一献金もまちがいなく献げています。ふつうの人が聞いたら、パリサイ人の信

仰の素晴しさに圧倒されてしまうような内容です。しかし、パリサイ人の祈りの中に、「ほかの人たちのような」、「この取税人のような」という言葉があります。ここに、彼の祈りの問題点があります。

パリサイ人は、「神よ」と祈っていますが、しかし、彼の心は神様に向いていません。彼は祈りの最中に目をあけて他人を見ています。そして自分と他人とを比べて、自分がいかに優れているかということに自己満足をしています。彼は感謝していますが、それは口先だけで、心の中では他人を軽蔑して、「自分は正しい。みんなはダメだ、特にあそこにいる取税人は本当にしょうがない罪人だ」という気持になって、胸を張って祈りのポーズをとっています。

キリストは、このパリサイ人の姿をとおして、私たちに対し、「あなた方はどうだろうか」ということを問いかけています。私たちは、どこかで人と自分を比べて、パリサイ人の祈りの型に落ち込んでしまうことがあるからです。例えば、「あの人より集会に出ている」、「あの人はあんまり祈っていない」、「自分のほうが能力がある」、「あの人は熱心さが足りない」などと、ひそかに心の中で自分を誇り、他人を審くことをしていないだろうか、ということを問われています。



パリサイ人は、神様の前にどうあるべきかということを忘れています。

パリサイ人の祈っていたことに、うそはなかったと思われます。彼は断食をし、十分の一献金をしていました。たしかにほかの人々よりも、取税人よりも熱心であったことは確かなようです。ところが、14節を見ると、彼の祈りは神様に受け入れてもらえず、罪をもったまま家に帰っています。

では、パリサイ人の間違いはどこにあったのでしょうか。彼は、「ほかの人と比べてどれだけ良い人間であるか」ということを考えています。しかし、本当に大事なことは、「神様と比べて自分はどれだけ良い人間か」ということにあるのです。

イギリスの聖書学者バークレーが、列車でイギリス国内を旅行した時、荒地の中の小さな家を見ました緑のない荒涼とした、赤茶けた荒地の中で、その小屋はまぶしく輝き、純白そのものに見えたということです。何日か経って、同じ場所を通ったが、雪が降って、至る所が雪にうずもれていました。例の小屋を通過した時、何と数日前には純白に見えた小屋が、その白さはくすんでいて、ほとんど灰色に見えました。何故なら、降りたての新雪の白さと比較されたからです。

すべては、自分を何と比較するかにかかっています。私たちの人生をイエス・キリストの崇高な、

清い生涯と並べ、神の聖と比べてみるなら、私たちは何も言えなくなります。神様は、「虫にひとしいヤコブよ」(イザヤ41:14)と言っています。神様の前に立てば、私たちは虫のように小さい存在で

す。私たちは、何にも良いものも持っていない、虫に等しい、小さい、愚かななものでしたが、神様の憐れみによってキリストの十字架の救いを受け、キリストの復活によって永遠の命を与えられて、神の子になって生かされていることを感謝します。私たちには誇るべき何の良いところもありませんが、「誇る者は主を誇れ!」(Ⅰコリント1:31)と言われています。キリストの十字架の恵みを喜び、感謝し、キリストを讃える日々を進んで行かれるように、恵み深い主の御霊に導かれて行くようにお祈りして下さい。



2、キリストは、へりくだる者の祈りを聴かれる。18:13-14

取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」。(13節)



*今度は取税人の祈りを見てまいりましょう。



取税人は、心を神様に向けて、真剣な気持で祈っています。

彼は、「遠く離れて立ち」という態度をとっています。遠く離れて立った、というのは、ただひとりで立った、ということです。ただひとりで神様と向かい合っている姿を示しています。大勢の人が祈りに来ていますが、彼は他人のことを考える余裕もなく、ただ「神様」と叫びつつ、心を神様に向けている信仰の姿勢を表しています。

ひとりで真剣に神様と向き合うことが大切です。キルケゴールは、人はひとりであるが、ひとりである私たちを見捨てないで守って下さる神様がいるということを言っています。本当は、神様と私たち人間の間には越えることのできない差があります。何故なら神様は創造者であり、私たちは被造物であるからです。その差を越えて、私たちは親しく神様に向かって、「神様」と呼びかけることができます。それは、神様のほうから、愛をもって私たちに呼びかけてくれているからです、



「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)。



家が仏教でも、あるいは無宗教であってもかまいません。人が真剣に神様を求める時に、神様は救いの手を差し伸べてくれます。

ある人は、自分の家は仏教であると言って、まことの神であるイエス・キリストを求めることを拒んでいました。しかし、人生の晩年になって、病気となり、死んだらどこへ行くのか不安になって来ました。家にある位牌を眺めても答はない、あるいは墓に詣でても気持が空しくなるだけでした。ひとり悩み、考えている時に、クリスチャンの友を通して、聖書の話を聴く機会を与えられたのです。

①人間には罪があること、罪があれば死んで滅びに向かうこと。

②しかし、キリストが人間の罪の身代りになって十字架で命を捧げて下さったこと、

③キリストは十字架の三日後に死をうち滅ぼし、復活されて生きておられること、

④自分の罪を認め、悔改めて、キリストの十字架を信じれば罪が赦され、キリストの復活によって永遠の命が与えられること。

この方はキリストを信じました。そして平安を与えられ、安らかな日々を過ごして、天国に旅立って行きました。



ある方は事業が倒産し、差し押さえを受け、借金だけが残りました。もう誰も助けてくれないと思い、心が暗くなり、絶望に陥ってしまいました。その時に、前に聞いていた聖書の伝える神様のことを思い出し、「助けて下さい」と祈ってみました。すると心に不思議な落ち着きが与えられました。倒産の後始末の後に、仕事を与えられて再出発をすることができました。



私たちが、真剣な気持をもって、「神様」と呼びかければ、その声は神様に届き、神様からの答えが心に与えられます。



取税人は、「罪人のわたしをおゆるしください」という真実な祈りをささげています。

取税人は、胸をうちながら祈っています。胸をうつのは悲しみと悔改めを示す態度です。胸は心のある所です。心は罪のある所です(マルコ7:31人の心の中から、悪い思いが出て来る)。彼は他人の罪や他人のことを問題にしていません。自分のことを問題にし、自分の罪の赦しを求めて祈っています。彼はうめくようにして祈っています。

取税人は、当時の人々から罪人の代表のように言われていました。人々から憎まれ、軽蔑されていました。しかし、キリストは、「神に義とされて自分の家に帰ったのはこの取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」と告げています。

キリストは表面を見ません。その人の心を見ておられます。パリサイ人は、自分のしていることを自慢し、他人と比べ、優越意識をもっていました。キリストは彼の祈りは退けられたと言っています。パリサイ人の胸をうちながら、遠く離れて、うめくように祈った祈りは神様に受け入れられて、彼は正しい者と認められ、喜びをもって家に帰って行くことができました。



*きょうの箇所から学ぶことは、信仰の奥義は赦しにあるということです。



このお話は、単なる例え話ではなく、また空想から出た作り話でもありません。キリストは今も私たちひとりひとりに赦しを与え、私たちの心を自由にして下さる救主です。皆さんの心はキリストの赦しを受けて、恵まれ、自由でしょうか。私たちは神様の光に照らされる時に、自分のことが分かってきて、神様の愛にすがるように導かれます。私たちは罪人です。しかし、罪人を招いて下さるキリストによって、神様によって正しい者と認められ、恵みを与えられ、喜びの信仰生活をして行くように導かれます。

ある方が熱心に信仰生活をしていました。ところがだんだん霊的命がすり減ってきて、信仰生活に行き詰まってしまいました。彼は集会に出て、祈りました。その時に、自分の熱心さで、こうあらねばならないという信仰の基準を作って、それを一生懸命に守って、それに縛られていたことに気づきました。そして自分の熱心さではなく、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」というキリストにすがる信仰が大事だと思いをました。すると、十字架のことが心に浮かびました「キリストが血を流して罪の赦しの道を開き、私を赦してくれたのだ。キリストの十字架に人の罪を覆い、あがなう力があるのだ。キリストはゆるしの神だ」ということを示され、心が自由になりました。

自分の正しさを誇らず、他人と比べることをやめ、人を審き批判する思いから解放されて、罪人を招き、赦し、愛して下さるキリストにすがって行くように、祈って行きましょう。



お祈りをささげます。



天地の主である神様、キリストの救いを与えられていることを感謝します。

人を見て批判したり、人と自分を比べるという愚かな罪から解放して下さい。私たちは神様に赦されていることを感謝します。病気の方々に平安と癒しを与えて下さい。心に心配がある方々の心配に解決を与えて下さい。この六月の間に救われる者を起して下さい。

私たちに愛と赦しを与えて下さる主イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。





参考文献:ルカ注解―黒崎、矢内原、バークレー、榊原、フランシスコ会、米田、文語略註、口語略解。「高等科説教53週・小林・教師の友文庫」、「若き魂への福音・曾根・グリーンブックス」