新しい愛のいましめ ヨハネ13:34-35       主の2010.6.13礼拝

日本は1635年から長い間にわたって外国とおつきあいしない「鎖国政策」をとっていました。その最大の理由は、愛と自由を教えるキリスト教を、権力者が警戒したからです。今から140年ほど前に鎖国をやめ、外国の優れている点を取り入れて日本の新しい国づくりが始まり、キリスト教も自由になりました。外国から取り入れたものに学校制度があります。明治政府は人材を育てるために北海道札幌に農学校を創設し、アメリカよりクラーク博士を学長として招聘しました。彼はクリスチャンで、校則をつくらず、ただ一言、「紳士であれ」ということを学生に告げ、アメリカより持参した英語聖書を学生に配って聖書の学びをし、多くの学生達がクリスチャンになりました。彼は僅か十ヶ月で帰国しましたが、最初にクリスチャンになった学生達の伝道によって、次の年に入学した内村鑑三、新渡戸稲造などがクリスチャンになり、日本伝道のために用いられました。
本日の聖書はヨハネ13:34-35です。キリストは、「互いに愛し合え」という新しい戒めを弟子達に与えています。十戒をはじめとするたくさんの戒めがありますが、キリストはただ一言、「愛し合いなさい」と教えておられます。クラーク博士は、「紳士であれ」ということを校則にすると言いましたが、それはキリストの愛を受けて、学生一人一人を大切にするというクリスチャン精神を自らが示し、学生達が自分に見習う者となるようにという期待の表れでした。
キリストは、世の終わりには、人々の愛が冷えると預言しましたが(マタイ24:12)、今日の社会状況をみると、愛が冷え、親が子を殺すなどという事件が多発しています。愛の冷えている時代に、クリスチャンが愛を表し、キリストの救いを伝道して行くように祈って行きましょう。

内容区分
1、キリストは、互いに愛し合うように、ということを命じている。13:34
2、キリストは、愛を実践する者がクリスチャンであると言われる。13:35
資料問題
愛の戒めは旧約聖書にもあるが(レビ4:19)、この箇所では新しい戒めと言われている。これはキリストと父なる神との関係に関する戒めに相当するものだからである(10:18、12:49、15:10)。弟子たち相互の愛は、人々の教訓、模範なるばかりではなく、御子キリストと父なる神の愛を人々に示す。「新しいいましめ」と言うのは、キリストの生涯と死とによって始まった新しい時代に授けられたものだからである。テルトゥリアヌスの「護教論9」によると、当時の異教徒は、クリスチャンの相互愛を見て、「見よ、彼らがいかに愛し合っているかを」と言っていたそうである。33節「わたしがあなたがたを愛したように」、互いに愛し合うためにはキリストの愛に見習うことが必要である。キリストは正しい人、善人のためではなく、罪人のために十字架で命をささげて、罪の身代りになり、救いの道を開か
れた。これはすべての人を愛することの表れである。私たちもすべての人を受け入れ、愛して行くことを求められている。

1、キリストは、互いに愛し合うように、ということを教えている。13:34

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。(34節)

キリストは「互いに愛し合いなさい」と言われました。

キリストは、旧約聖書の中で最も大事な教えは、「神を愛すること。隣人を愛すること」であると教えています(マタイ22:37-38)。ここでは旧約聖書を越えて、新しいいましめとして「互いに愛し合いなさい」と教えています。「互いに」ということですが、私たちは心の中に人間関係の貸借表をもっています。「あの人は私にいいことをしてくれたから親切にしよう」と思います。「あの人は私のことを悪く言った。だから口をきかない」と考えて相手を無視します。自分を基準にして、私たちはいつの間にか、「あの人は○、この人は☓、あの人は△である」というような貸借表をつくって人に接しています。その結果、キリストが「互いに愛し合いなさい」と言われたのにも係わらず、私たちは人を愛せないという現実を抱えています。愛せないということは、相手を赦していないからです。
人を赦すということは難しいものです。相手が謝らない時はもちろん、相手が謝ってきてもなかなか赦せないものです。それは、人間はいつも自分を高いところ、正しいところにおいて、そこからすべてのことを判断して行こうとするからです。いつも自分が正義であると考え、周りの人をさばいているのです。「赦す」ということは、相手の立場にまで自分を低く下げて行くことになるので、それが素直に出来ないのでなかなか赦せずにいるのです。赦せずにいることによって、そこに憎しみや争いが起ります。それは愛のない人間の傲慢の結果です。愛に欠けると、心は水のない土地のように荒れてしまい、潤いのない冷たい人間になってしまいます。
パウロは、「愛は寛容である」(Ⅰコリント13:4)と言っています。愛は自分を相手の立場でながめ、相手を受け入れて行くことです。相手を受け入れることによって、そこに赦しの恵みが表されて行きます。「互いに愛し合いなさい」と言われているのに、愛せないでいるとしたら、それは相手を赦していないからであるということを悔改め、「神様、愛を与えて下さい」と祈ることが必要です
ペテロがキリストに、「もし兄弟が私に対して罪を犯したとき、いくたび赦すべきですか、7回まででしょうか」と尋ねた時に、キリストは「七たびを七十倍するまで赦しなさい」マタイ18:21-22)と答えています。その意味は「無限に赦しなさい」ということです。無限に赦すということは、自分の存在をゼロにすることです。「互いに愛し合いなさい」という愛による交わりは、すべてを相手の立場に置くことです。人を全く赦す生活、それが「互に愛し合う」という本当の信仰に生きる生活です。



キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい」と言われました。



「互いに愛し合いなさい」ということの意味はよく分かりましたが、正直に言うと、愛を実践する力のないことに気づきます。そこで、キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ということを弟子達に教えています。現代は愛ということが盛んに言われている時代ですが、口先だけの愛が多いようです。聖書は、「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(Ⅰヨハネ3:18)と告げています。行いと真実とをもって私たちに愛を与えて下さったのはイエス・キリストです。

キリストが十字架にかけられた時、自分を十字架にかけた人々のために、「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」(ルカ23:34)という祈りを神様に捧げています。ある方は、「人間が生まれて祈りはじめるようになってこの方、未だかつてこれ以上に神聖な祈りが天に挙げられたためしはい」と言っています。この祈りは最高の愛と赦しの言葉です。

キリストは、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、あなたがたは天にいますあなたがたの父の子となるためである」(マタイ5:43-45)と教えています。両手両足に釘を打ち込まれ、十字架にかけられた時、キリストは自分が教えたとおりに、自分を殺す人々のために祈っています。キリストは、「彼らは何をしているのかわからずにいるのです、だから赦してあげて下さい」という祈っています。相手を悪人として見ているのではなく、最高の善意をもって、相手のために祈っています。愛は相手の価値を認め、相手を尊重して行くという善意の表れです。善意がなければ人を赦すことができません。キリストは善意をもって人を理解し、赦し、自分をいつも謙遜な立場に置いています。互いに愛し合うために、キリストの愛に倣って行きましょう。キリストは愛をもって人々を覆い、包み込んで、相手を赦し、受け入れています。

真珠は美しいものです。真珠のもとは異物です。あこや貝の中に小石や貝のかけらが入ると、貝の内側から炭酸カルシウムが出て異物を包み、丸いきれいな玉にしてしまいます。それはあこや貝が異物のために傷にならないようにするためなのです。異物を包むことによって、あこや貝自身が守られ、異物は美しい真珠に変わります。異物を外に押し出せば、それは異物のままで終ってしまいます。私たちも自分の心で他の人のあやまちを包んであげることができるならば、その小さな愛のわざは、暗い世の中に真珠となって光り輝くことになります。

互に愛し合って行くために、キリストが十字架の愛をもって、私たちの罪を覆い、包み、きよめて下さったことを感謝し、人を愛をもって包み、受け入れて行くことを祈って下さい。



2、キリストは、愛を実践する者がクリスチャンであると言われる。13:35

互に愛し合うならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(35節)



キリストの愛を受けた者がクリスチャンです。クリスチャンは、「互いに愛し合いなさい」と言われていますが、どんなふうにして愛を表して行くのでしょうか。



愛は、祈りによって表されます。



私たちはとるに足りない、小さい存在であるかも知れません。特別な学識もなく、資格もなく、目立たない小さな者にしか過ぎません。しかし、キリストの愛を受けて、クリスチャンになった者として他の人のために祈るという務めを与えられています。祈りには学識も資格もいりません。神様に従う信仰をもって、キリストのお名前によって祈れば、神様が御業を表して下さいます。

使徒行伝9:10-19にアナニヤという人物が出てきます。この人はキリストを信じている忠実な人で、評判の良い人でした。ある日、彼に神様の言葉がありました。それは、迫害者であるサウロの所に行きなさいという命令でした。アナニヤは、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにクリスチャンにひどいことをしたかを多くの人達から聞いています」と言って、迫害者であるサウロのために祈れないと答えます。しかし、もう一度サウロの所に行けと言われた時、従順に神様に従い、サウロの所に行き、手をサウロの上において祈り、神様のメッセージを伝えました。するとサウロの目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになり、心も開かれ、キリストによって救われ、洗礼を受けて、クリスチャンとしての新しい出発をし、のちに使徒パウロとなって、世界伝道に献身し、新約聖書に13通の手紙を残す人物になりました。アナニヤについては、使徒行伝の中で、26行ほどの記事しかでていません。アナニヤの素晴しい点は、神様に従い、一度は断りましたが、気を取り直してサウロのために、祈るために出かけて行ったということです。クリスチャンを迫害している人物のために祈るということは勇気のいったことであると思いますが、アナニヤが祈ったことによって、大使徒パウロが誕生するきっかけになったのです。

「互いに愛し合いなさい」というキリストの戒めを実践するために、お互いのために祈り合って下さい。今週はファミリーの週です。ファミリーの特徴はキリスト中心であり、キリストの恵みだけを語り合い、キリストのお名前によって祈り合うことです。

火曜日から土曜日まで朝6時から早天祈祷会をしています。たくさんの祈りの課題が寄せられており、今までに多くの祈りが聴かれ、神様の御業が現されています。

水曜日は朝と夜に祈り会が開かれ、聖書を学び、執り成しの祈りがささげられています。

その他、聖書を学び、祈るための個人的な時間が取られています。家内が担当していますが、霊の知恵と力、そして健康を与えられて、主に用いられて行くようにお祈りください。

愛は、喜びを共にし、キリストを伝える喜びを与えてくれます。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ロマ12:15)と言われています。人間は自分の願いが満たされると喜びますが、他人が幸福になるとうらやましくなります。うらやむという言葉は、「心(うら)病(や)む」ということで心が病み、嘆くことです。うらやむが深刻になると、「背き妬(ねた)む」という心になり、それが「そねみ」です。それほど人間は自己中心という気持が強いのです。そこで、聖書は繰り返し、「互いに愛し合いなさい」ということを告げて、「一緒に喜び、一緒に感謝しよう」ということを勧めています。次の聖句を心に留めて下さい。



愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から出たものであって、神を知っている。(第一ヨハネ4:7)



この愛が具体的に示されたのが十字架です。キリストは人の罪を背負って十字架にかかり、その苦しみの中で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と祈って下さいました。このキリストの愛を受けて「互いに愛し合いなさい」ということを実践し、さらに敵のために愛をもって仕えた人がいます。これは朝日新聞の天声人語に掲載されたものです(1966.6.21号)。



日本のシュバイツアーと呼ばれた井上伊之助先生がいる。井上氏の父弥之助氏は、台湾で働いている時、生バンに首を切られて死んだ(生バンとは奥地に住み暮らし首狩りをしていた人々)。父を殺された井上氏は、父のかたきをうつために、父の死後五年目に、かんたんな医術を学んで台湾に渡った。このかたきうちは、生バンにキリスト教を教え、治療をし、首狩りの野蛮な行為をなくさせようとすることだった。井上氏は29歳で台湾に渡り、35年間山地族の伝道と治療に従事したのである。その間の困難は筆舌につくしがたく、自らも眼病にかかり一生苦しんだ。このような崇高な生涯を送った人を日本人として誇りとしたい。



キリストに従い、敵を愛し、一生を他者のために献げた崇高な生涯の原動力は、キリストの十字架の愛です。



お祈りをささげます。



天地の主である神様、イエス・キリストの十字架と復活によって、神の子にされていることを感謝します。愛の薄れている時代の中にあって、「互いに愛し合いなさい」と言うキリストの言葉を受けとめ、互いに愛し合う者として導いて下さい。キリストは無条件で、また理由をつけず、私たちをあるがままで受け入れ、罪を赦し、永遠の命を下さいました。私たちも素直に人のために祈る者にして下さい。私たちの教会を聖霊によって、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として前進させて下さい。キリストを伝えることなくしては会堂建設も進みません。6月の間に誰かにキリストを伝え、救われる者が起こされて行くように導いて下さい。ファミリーを祝福して下さい。ゴスペルの集まりを導いて下さい。夜の礼拝を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アァメン。





参考文献:ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、文語略註、口語略解、LAB、米田。「若き魂への福音・曾根・グリーンブックス」