「あなたは、わたしに従ってきなさい」 ヨハネ福音書21:18-22       主の2010.6.20礼拝

「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉があります。赤ちゃんは誕生後、しばらくは自力

で動くことができません。やがて首がすわり、お座りができるようになり、寝返りをうつようになり、自力で動いて這い這いをするようになります。その成長過程を見ながら、親は「這い這いを卒業して歩くようになる」ということを期待します。ある日、赤ちゃんは立ち上がり、一歩を踏み出します。親は赤ちゃんに手を差し伸べて、「ここまでおいで」と声をかけ、赤ちゃんが転んだらすぐ抱き上げられるように備えながら、赤ちゃんの歩みを待っています。赤ちゃんは親をめがけて一生懸命に歩き、遂に自分で歩けるようになります。

本日はヨハネ福音書21:18-22です。ペテロは復活のイエス・キリストに出会い、三度の裏切りを赦されるという恵みを受けました。キリストは、ペテロの信仰告白を受けて、彼を弟子として再び遣わしています。キリストはこの箇所で、ペテロに対し、「わたしに従ってきなさい」(19節)、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(22節)と二度言われています。信仰的にフラフラしていたペテロに、弟子としての自覚をもう一度与え、決断して弟子としての道を歩め、と声をかけています。子供が親を目指して歩くように、ペテロはキリストを見つめて、キリストについて行く決断をしています。
私たちも、キリストのメッセージに耳を傾け、キリストについて行く決断をし、共に祈って、新しい一週間の旅路へと出発してまいりましょう。

内容区分
1、キリストは、私たちに個人的に語りかけ、信仰の決断をするように導かれる。21:18-19
2、キリストは、私たちに「わたしは、主について行きます」という決断を求めておられる。21:20-22
資料問題
ヨハネ福音書は20章で完結している。21章は付録であり、ペテロに対するキリストの愛が記されている。キリストは、三度自分を知らないと言ったペテロに(18:17,25:27)三度の愛の告白を求める。キリストはペテロの三度の告白を受け入れ、自分の羊の群れである信徒をゆだねる。18節「よくよく」、アーメン、アーメンの訳である。「行きたくない所」、殉教の死、これは人の自然の情としては願わないことである。19節「ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである」、多くの伝説、歴史によればペテロ紀元64年7月ロマで逆さ磔(はりつけ)になって殉教したとの事である。殉教の死は神の栄光を顕すものである。ヨハネがこの事を記しているのは、ペテロの死の事実を熟知していたことを推測させる。22節「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」、キリストに従う者はただキリストが命じたとおりに服従すべきであって、他人の運命を顧慮すべきではない。すべてがキリストとの直接関係である。故にペテロがヨハネの運命についてあれこれ考えることは無用のことである事を、キリストはペテロに教えている。「あなたは、わたしに従ってきなさい」、ただひたすらキリストに従うことが最も重要な事である。


1、キリストは、私たちに個人的に語りかけ、信仰の決断をするように導かれる。21:18-19

これはペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。(19節)



ペテロは、十字架の前にキリストを三度裏切ったという深い心の傷をもっていました。復活されたキリストは、漁に出かけた弟子達のために朝食を備えて待っておられました。朝食後、キリストはペテロに三度語りかけて彼の心の傷を癒し、ペテロはキリストを愛するという告白をしています。

キリストは「わたしに従ってきなさい」と個人的に言われる

キリストは、「わたしに従ってきなさい」と言われます。ほかの誰でもなくイエス・キリストに従うことが信仰です。私たちを招いて下さるイエス・キリストはどんなお方でしょうか。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28前半)。

キリストは、きょう私たちにこう語りかけています。これは信仰初心者への言葉であると思っている人がいるかも知れませんが、それは間違いです。すべての方々が人生の労苦を抱えています。それは生活の問題でしょう。心の(魂の)問題もあるでしょう。家庭のこと、家族の問題であるかもしれません。病気のこと、健康のことで重荷を負っている人が多くいます。私たちの教会の中にも、長い間にわたって病気と闘っている方々がいます。人間であるかぎり、重荷を負っていない人はいません。ですからこの言葉はすべての人に向かって語りかけられているのです。

「あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28後半)

助けてもらいたいと願っている者が助け主を呼ぶのではなく、助け主のほうから救いの手を伸ばし、助けてあげようと申し出ているのです。神様は私たちに対し、昔は預言者を通して呼びかけ、この終わりの時代にはご自分の御子キリストによって呼びかけておられます(ヘブル1:1-2)。私たちが求める前に、すでにキリストによって救いと助けの道が備えられてあるのです。助けられたい人はキリストの許に行けば良いのです。ただそれだけです。
ペテロはキリストを三度も裏切ったという心の重荷を抱えていました。するとキリストのほうから、「ヨハネの子シモンよ(ペテロの本名)、あなたはわたしを愛するか」という問いかけが三度ありました(21:15,16,17)。ペテロはどのようにして裏切りの罪をお詫びしようかと思っていたのですが、キリストの問いかけに素直に答え、キリストの愛を受け、再び弟子として歩むように導かれたのです。
キリストは、救いの手を差し伸べて、個人的に「わたしに縋りなさい」と呼びかけておられます。ずっと以前ですが、アメリカより伝道者ボップ・ピアスが来て、10日間にわたって東京都立体育館で集会をしました。毎晩多くの方々が集い、その中より信仰の決心をする者が起こされ、前に出て祈ってもらい、個人的に信仰の導きを受けていました。その集会をとおして、「キリストを求めなさい。個人的に求めなさい。キリストはあなたの罪を赦す救主であり、人生を導く主である。キリストを心に迎えなさい」ということが繰り返し語られていました。その時、私はクリスチャンになってまだ日が浅かったのですが、そのメッセージを聴きながら、キリストは私の個人的な主であるという思いを深めることができたことを思い出します。
Kさんは、小さな会社を経営していました。大きい会社の下請けの仕事をしていたのですが、景気が悪くて仕事が来なくなりました。社員に給料を払うこともできません。考えると夜も眠れず、この苦しみから逃れたい、いっそ死んでしまいたいと思うほどでした。そんなある日、駅前の広場で教会の看板を見ました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」という御言葉の下に、赤いペンキで「キリスト」と書いてあります。Kさんは、若いころ読んだ八木重吉(クリスチャン詩人)の詩を思い出しました。「基督(キリスト)が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中へ入ればいい/彼につれられてゆけばいい」(貧しき信徒P80)
Kさんはすぐにその教会を訪ねました。そして、日本語の上手な宣教師からイエス・キリストの十字架による救いの話を聞いているうちに、八木重吉の詩の本当の意味がわかってきて、今まで味わったことのない平安が心にあふれてくるのを感じることができました。
Kさんは重荷を抱えたまま、「私を助けてください」とキリストに縋ったのです。キリストはKさんを愛して受け入れ、その重荷を背負って下さり、心に平安を与えて下さいました。Kさんは、「キリストは私のすべての苦しみ、心配事、重荷をご存知であり、特に神様から離れていた罪によって、私の心に平安がないことを知っておられた。そこでキリストは私の罪の身代りになって十字架にかかって、私が神の子となれるように救いの道を開かれたのだ」ということを信じて生まれ変わり、新しい人生に入って行くことができたのです。

この朝、キリストの救いを受けたい方はキリストに「私を助け、救って下さい」と祈って下さい。聖書は告げています、「彼(キリスト)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼(キリスト)は神の子となる力(特別な権利)を与えたのである」(ヨハネ1:12)。

キリストの救いを受けながら、なぜか迷い、不安になり、取り越し苦労をしている方がいるとするならば、「わたしに従ってきなさい」というキリストの御言葉に信頼することが大切です。「従って行く」と言いながら、キリストとの距離を離していることはないだろうかということを考えて下さい。ヤコブは、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」(ヤコブ4:8)と言っています。自分の手から問題を離して、キリストに任せ、キリストに飛び込んで行けば、必ず助けの道が開かれます。キリストに縋りましょう、キリストは言われました、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)。キリストの御名によって神様に祈りましょう、あなたの祈りは応えられて行きます。



2、キリストは、私たちに「わたしは主について行きます」という決断を求めておられる。21:20-22

イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(22節)



信仰は、キリストと私の関係である



ペテロは、キリストに従う歩みを始めましたが、隣りにいたイエスの愛しておられた弟子のヨハネのことが気になり、「主よ、私は従って行きますが、あのヨハネはどうなりますか」と聞いています。私たちも人のことが気になります。気になると、ついあの人の信仰はどうか、対人関係はうまくいっているかなどと思い始め、その人に干渉し、注意したり、説教したりしがちです。ペテロも若いヨハネのことが気になったのでしょうが、キリストはキッパリと言います、「ペテロよ、わたしはあなたに話している。あなたと彼とは係わりがない。あなたは、わたしに従え」。

もし、私たちが他の人が気になるようであれば、その人のために愛をもって祈ることが大切です。その人に間違いがあれば、神様の聖霊が教えます。人間が人間をさばくことは慎まなければなりません。何よりも自分自身がキリストの言葉に従って行くように祈ることが大切です。

ダビデは歌っています、

「わが岩、わがあがない主なる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に

喜ばれますように」(詩篇19:14)。

ペテロは記しています、

「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(Ⅰペテロ4:8)。



キリストに従うためには、キリストとの個人的出会いが必要である



人の意見、時代の風潮などに影響されずに、キリストは、「なにがあろうとも、時には人のことが気になろうとも、それらを後に置いて、あなたはただ一筋に、ひたすらにわたしに従ってきなさい」と言われています。聖書は、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(へブル12:2)と命じています。キリストは、十字架にのぼり、命を捧げて救いの道を開かれ、三日後に復活され、今は天にあって私たちのために執り成しの祈りを捧げておられる、生きておられる永遠の救主です。このイエス・キリストを仰ぎ見つつ(目を離さないで)信仰の道を進んで行くのがクリスチャンです。

トルストイに粉ひき屋の話しがあります。その男は機械の学問など一向に知らないのですが、粉をよく挽(ひ)くためにはどうしたら良いかを伝統的によく心得ていたのです。ところがふとしたことから水車の構造を考えたり、水車の回るもとがどこにあるのか観察するようになりました。回転する軸から水車へ、水車から水を引き入れている土手に、土手の穴をとおして水を注ぎ込む川に興味が移って行きました。川のことを調べているうちに、しまいには川がすなわち水車そのものだと思うようになってしまったのです。周りの人がその男に忠告しても、その男は川を知ることが粉を挽くことのはじまりだと言い張るのです。

信仰の問題を考える時にこうした間違いを起こしやすいのです。宗教とはなんであるか、神様とは何か、十字架の意味は何か、などを論じ合っても、考えても、信仰が深められることはありません。聖書をどんなに分析しても、歴史的に研究しても、他の人の信仰論を聞いても、それによっては神様の言葉は私たちに語りかけてはくれず、霊の交わりを得ることはできません。神様とは何であるのか、聖書とは何かというのを論じるのは理屈の問題であって、信仰の問題ではないのです。

信仰とは天地を創造され、生きておられる神様との出会いです。神様は何であるのかを考えることよりも、神様とどのようにして向き合うかが問題なのです。聖書66巻は信仰の書物です。そこには神様とは何か、という説明はありません。あるのは私たち人間に対する神様の語りかけです。聖書を通して、聖霊に助けられて私たちは生ける神様を知り、神様の救主イエス・キリストを知り、信じることができるのです。

キリストの弟子はキリストに出会った人々です。ひとりひとりがキリストと出会い、クリスチャンになったのです。あの信仰の大先輩で、新約聖書に13通の手紙を残したパウロも、人からキリストの話を間接的に聞いているうちは迫害者でしたが、ダマスコ途上でキリストに出会って回心し、弟子になることができたのです(使徒9:1-19)。ナタナエルは、ピリポから「イエス・キリストは救主である」と聞いたのですが、信じられませんでした。するとピリポから、「きて見なさい」と言われ、キリストに出会って救いを受けることができました。信仰は議論ではなく、生けるキリストに出会うことです(ヨハネ1:43-51))。

私事ですが、高校生の時に、友の死などを通して生きる意味を求めて、聖書を通してキリストの救いの恵みに与ることができたことを感謝します。ある方は、晩年になってキリストの救いを受け、「ああ、なぜもっと早く信じなかったのかと悔やまれる、しかし、今こうしてキリストの救いの中にあることを感謝します」と証をしていました。

「あなたは、わたしに従ってきなさい」・・・・ここにおられるひとりひとりが、キリストとの出会いを体験して救われていることを信じ、感謝します。最近救われた人もいます。長い人は50年以上の信仰生活を送っています。信仰生活の秘訣はキリストを仰ぎ見て行くこと、キリストから目を離さないことです。

「あなたは、わたしに従ってきなさい」というキリストの御言葉を心に刻みつけて下さい。



お祈りをささげます。



天地の主である神様、独り子イエス・キリストの救いの恵みを感謝します。それぞれが信仰をもって生かされていることを感謝します。時には信じきれなかったりするような不信仰な私たちを常に支え、信仰の恵みの中に守って下さる主に感謝をします。「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われるキリストに従って行きます。周りを見たり、人を見たりして信仰が揺るがないように助けてください。ただキリストを見上げ、キリストから目を離さないで行くように導いて下さい。今月もキリストを信じる者が起こされ、教会につながって行くように、伝道のために祈り、キリストを伝えて行くことができるように私たちを用いて下さい。病気の方々を支え、癒し、問題の中にある方々に信仰による勝利を与えて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解―黒崎、フランシスコ会、米田、ライル、文語略註、口語略解、LAB。 「ショート・メッセージ・CS成長センター」「若き魂への福音・曾根・グリーンブックス」「目覚めている精神の輝き・ルイス・新教出版社」