『愛』ロマ8:28−39
2010年6月27日 荻野倫夫伝道師
導入
今年の目標聖句は何か。先ほど礼拝の中で読まれた1コリント13:13。永遠に存続する三つのものとして「信仰」「希望」「愛」が挙げられている。これらのうち、今日はその中で最も偉大な「愛」を取り上げる。
1コリント13章は、文句なしの美しい愛の章である。だが詩人として鑑賞しているだけなら気持ちよく読めるが、キリスト者として実行しようとすると、たちまち困難が生じる。現実の自分の姿は、1コリント13章からは程遠いからだ。
私たちがただやみくもに愛を行おうとするのは、ちょうどガソリン切れの車を無理矢理走らせようとする試みに似ている。私たちの内に愛はないので、いくら愛を行おうとしても、ガソリン切れの車が決して走ることがないように、私たちは決して聖書的な愛を実行することができない。
ポイント1.神は愛なり
では愛はどこにあるか。愛は神に属する。神は愛である。神のみが愛である。ゆえに愛について語る時、神についてまず十分に熟考しなければならない。聖書を通して神について知る時、神を表す最もふさわしい表現は愛であることを知る。神は全知全能であるが、その全知全能の力は、愛を動機として用いられている。全知全能は神の属性を表すものであるが、愛は神の本質を表す言葉である。神なしに愛を語ることはできないし、語ってもそれはちょうどカラカラに乾いた雑巾を絞ろうとするようなもので、聖書的な愛の潤いは決して生まれ得ないだろう。
ということで、今日は愛を語るにあたり、ポイントの1番目として「神は愛なり」ということを聖書からじっくり学びたい。
マタイ5:44−45
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
有名な「愛敵の教え」。だが今日は特に、敵を愛する根拠について注目したい。なぜ敵を愛するべきか。それは私たちの父なる神がまさしくそのようなお方だからである。子供が親に似ている、と言われて、喜ばない親がいるだろうか。敵を愛するということは、とりもなおさず私たちの天の父に似ることなのである。私たちが敵を愛するとき、ご自分に似たわが子の姿に、神の目じりは下がりっ放しとなる。
閑話休題。ここでは神の御性格に集中しよう。神は愛である。どうして分かるか。私たちが今この瞬間も生かされているからである。太陽や雨を初め、私たちの環境、全宇宙の存在は私たち人類の力を超えている。これらのバランスがちょっと狂ったら、私たちはたちまち焼け死んでしまうか、洪水で滅びてしまう。ところが一瞬たりとて油断することなく、神は私たちの命を保っていて下さる。神が愛であることを一瞬でも辞めたなら、私たちの命は灰塵に帰しているだろう。私たちの命が今日まで守られているということが、神が愛である証拠である。過去において神が一瞬たりとて愛であることを辞めなかった証拠である。神は愛である。
マタイ 6:26−30
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。…野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ここでは衣食住の悩みは、異邦人の憂いであって、クリスチャンの憂いではない、ということが言われている。私たちが衣食住の悩みを持つとき、私たちは本来クリスチャンの憂いとは異なる、異邦人の憂いをもっていることになるのだ。
閑話休題。ここでは神の御性格に注目しよう。神は愛である。どうして分かるか。「空の鳥を見るがよい。」とキリストは語る。世界中で一体何羽の鳥がいるだろうか。どんなバードウォッチングのプロでも、どんなに鳥を心から愛する人でも、世界中の鳥を守り養うことはできないだろう。いやひとりいらっしゃる。どんなバードウォッチングのプロもかなわない、どんな鳥を愛する人よりも愛に秀でたお方、神がおられる。この神は確かに全知全能の力で世界中の鳥を養っておられるが、私たちはその動機に注目すべきである。神の全知全能の力を駆り立て、世界中の鳥を養わせているもの、それは神の愛である。神は全知全能の能力を持てあまして慰みに鳥を養っているのではない。神の御性格は断じてそのようなものではない。愛のゆえに、御性格が愛であるゆえに、一羽の鳥も見逃すことなく、養わずにおれない、それが神なのである。
今度は野の花を通して、神の御性格について学ぼう。神は愛である。どうして分かるか。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。」とキリストは語る。世界中で一体何輪の花があるだろうか。どんな植物学者も、どんなに花を心から愛する人でも、世界中の花を育てることはできない。いやひとりいらっしゃる。どんな植物学者も叶わない、どんなに花を心から愛する人よりも愛に秀でたお方、神がおられる。この神は確かに全知全能の力で世界中の花を美しく装ってくださっているが、私たちはその動機に注目すべきである。神の全知全能の力を駆り立て、世界中の花を着飾らせているもの、それは神の愛である。神は全知全能の力を持て余して慰みに花を着飾っているのではない。神の御性格は断じてそのようなものではない。愛のゆえに、御性格が愛であるゆえに、一輪の花も見逃すことなく、着飾らずにおれない、それが神なのである。
先ほど私たちの内に愛はない、と申し上げた。一方で、愛を行うのに、さほど困難を覚えない人もいると思う。ごく自然に心から愛が生まれ、自然体で人を愛する、そのような人たちはどうなのだろうか。特別に愛にあふれた人なのだろうか。
ここでも同じことを繰り返す。神が愛である。神だけが愛である。そして愛を比較的困難なく行う人も実はこの真理を指し示している。どういうことか。
私たちに愛はない。ただある人たちは常に神につながっている。愛そのものである神につながっていることによって、その人が愛にあふれており、その人自身、愛を実行するのに比較的難しさを覚えないのだ。つまり愛の行いとは、行う技術の習得ではなく、愛そのものである神につながっているか否か、これに尽きるということである。
あえて言えばその人たちの愛が深いのでさえないと思う。ただその人たちは、愛そのものである神につながっているのだ。私たちはちょうどザルのようなものである。ザルの中に水が満ちるようにするにはどうしたらよいか。川につけっ放しにしておくことである。ザルが川から引き上げられてしまうなら、水はそのうちにない。同様に神から離れるなら、私たちの内に愛はない。一方川に浸りっぱなしならば、いつも水に満ちている。同様に神にいつも浸っているなら、私たちの中にも愛がいつも満ちている。そのような人たちは、愛を行うのに困難を感じないであろう。
ところで、一言付言しておくと、神に常につながっていると言っても、必ずしも教会に毎週来ている人が神につながっているとは限らない。教会に来るのが義務であって、形式に従っているに過ぎず、神そのものとは疎遠ということはあり得る。
神は心の貧しい者の内に宿る。高ぶっていたり、頑なだったりして、実は肉に従って生きている者は、いつも教会に来ていても生ける神とは意外と疎遠であるかもしれない。
だから心へりくだって、教えるよりは教えられ、人を裁くよりは悔い改め、心の貧しさの中に神を宿す者となりたい。
いずれにしてもここでは、愛は神に属し、神が愛であり、神のみが愛であるということを確認した。
1ヨハネ 4:8
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
1ヨハネ 4:16
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
ポイント2.神われを愛し給う
先ほど見たように、神が空の鳥や野の花に向けてでさえこれほどの愛をもっておられるとしたら、ましてやご自身の似姿に作られた私たち人間に対しては、どれほどの愛を注いでおられるだろうか。私たちは空の鳥や野の花に対する神の愛でさえ、人間の想像を超えた大きな愛であることを見ている。ましてや鳥や花よりはるかに優れた被造物である私たちを、神はどれほどの愛で愛しておられるだろうか。正に人知を超えた、他に比べることのできないような愛であることを知る。それゆえにヨハネは言うのである。
1ヨハネ3:1
わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。
どんなに大きな愛を賜っただろうか。愛とは眼に見えないものであるが、神はその大きな愛を私たちに目に見える形で、お示しになった。すなわち御子を十字架にかけるという形でその大きな愛をお示しになった。私たちはこのことをよく考えてみなければならない。父の最愛の独り子イエス・キリストを十字架にかけて殺す、ということが生易しいことかどうか、よく考えてみなければならない。人間のドラマや映画でも自己犠牲の愛が、最もすばらしい愛であるのを見る。全知全能の神ご自身が、箸にも棒にもかからないちっぽけな罪人の私を救うために、十字架にいのちをささげた――確かに熟考に値するものがあるとしたら、この神の大きな愛をおいて他にないと言える。そこでみ言葉に従ってしばらく、神から賜った大きな愛について、よく考えてみよう。
ある王が、身分の低い女性を愛した[1]。その時王はどうするだろうか。王が王の威厳をもって近づくなら、身分の低い女性とは余りに立場が違うため、お互いに通じ合い、一致し、理解しあう、そのような愛が宿ることは不可能だろう。
そこで王は、身分の低い女性と同じ立場となることを選ぶ。この世で最も身分の高い王が、この世で最も身分の低い地位にまで身を落とし、そうしてその身分の低い女性への愛を現わした。
これが、キリストの受肉である。神は全知全能であり、言葉だけで、全宇宙を在らしめた神である。この神が私を愛した。だが神がその威光をもって近づくなら、神と私との間に本当の意味でお互いに通じ合い、一致し、理解しあう、そのような愛が宿ることは不可能だろう。
そこで神は、身分の低い私と同じ立場となることを選んだ。文字通り森羅万象全てのものに優る身分の高い方が、人間という私の身分にまで身を落とし、そうして私への愛を現わした。ここに愛がある。
ここに愛の本質がある。愛は、愛する人を変えようとするのでない。むしろ自分自身を愛する人のために変える。神は私たちを変えようとする前に、御子をして人間の姿とならせ、ご自身の愛を表した。ここに愛がある。
だがある方は言うかもしれない。「今私は試練に会っています。とても辛いです。とても神が私を愛しているとは思えません。」と。このようにある人は試練に会って、神に愛されていることを疑うようになる。神は自分を愛していないように感じられる。果たしてそうだろうか。
ヘブル 12:6−7
「主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
この聖書のみことばによれば、主は愛する者を訓練する。すなわち試練は、神の愛の証拠である。
水曜の朝のシャローム会直前のことである。渡辺丈君はドラムが好きで、放っておくといつの間にかドラムに向かう。私はそれを見ても「いいよ」と好きにさせる。だがご両親は違う。「これから聖書研究会だからダメ」と叱る。
果たしてどちらの愛が深いだろうか。言うまでもなく、親の愛である。私は子供の将来のことまで深く考えずに、ただ可愛いから「叩いていいよ」と言っている。だが親はしつけをする責任があり、子供の将来のためを思って、辛くても時には叱らなければならない。だが親が子に対して愛であることを辞めることがあるだろうか。決してない。地上で最も神の愛に近いものがあるとしたら、親の子に対する愛に違いない。そのことは子供自身も分かっている。現に丈君は怒られた後、涙を眼に一杯にため、なぜか怒った人に抱きつく。このことは丈君だけかと思ったら、他のお家でも、親が叱ると、泣きながら叱った親に抱きつくそうだ。子供でさえ、叱っている親が愛であることを知っている。叱っていたとしても親が自分を愛することを辞めたのではないことを知っているから、抱きつく。
私たちはどうだろうか。患難に会うと、神の愛を疑うだろうか。だとしたら、子供たちの方が、愛の何たるかを理解している。神は愛である。神は愛であることを一瞬たりとてやめたことはない。私たちが試練に会う時も、一瞬でも神は愛であることを辞めることはない。神われを愛し給う。神は一瞬たりとて私を愛することを辞めたことはない。神われを愛し給う。
ヨハネ3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
愛は愛する人を変えるよりも、自分自身を変える。神は私たちを愛するあまり、御子において人間として下られた。ここに愛がある。
ポイント3.われ神を愛す
先ほどの身分の低い女性を愛した王の話に戻ろう。王の愛は、身分の低い女性と同じところに下るところで終わりではない。愛は愛することだけでなく、愛されることを願う。王は今度は身分の低い女性が自分を愛するようになることを願う。
愛は愛する人を変えるよりも、自分自身を変える。先ほどは王が自分自身を、愛する者の姿に変えた。今度は愛された女性が、その愛に答え、王を愛するに至る。身分の低い女性が、愛のゆえに自分自身を変える番である。女性にとっては、王への愛のゆえに、自ら王にふさわしい者へと変えられることは喜びである。愛は、愛する人の姿に似ることを喜びとする。王もまた、その身分の低い女性が引き上げられるためにできるあらゆることをする。こうして女性は変えられ、身分の低いところから引き上げられ、王にふさわしい人物となる。彼女は今や王そのものを喜ぶことができる。こうして相思相愛の愛が成就する。
このことを私たちにあてはめると、御子において神が人となって下さった、これだけで神の愛の物語は終わりではない。今度は私たちが御子の似姿に変えられていく。
ローマ 8:29
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。
愛する者の姿に変えられていく。義とされ、聖くされ、最終的に神の栄光の姿に変えられる。
ローマ 8:30
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
神を愛するにふさわしい者へと変えられ、神そのものを喜んでいく。こうして神の愛の一大絵巻が大団円を迎える。
ところで今日の聖句を読んだ時に、クリスチャンの間で恐らく一二を争うほど愛されている聖句ロマ8:28が読まれたのに、今まで触れられずにきた。お待ちかねのみなさん、いよいよロマ8:28について触れたいと思う。
皆さんはこの聖句をどのようにとらえておられるだろうか…?「万事を益とする」約束のみ言葉?私見ではそのような理解は間違いではないが、この聖句の一面しかとらえていないと思われる。私自身、この聖句とその後に続く聖句とのつながりがイマイチ分からなかった。
余談だが、このように聖句について何か不明な点が残る場合、分かるまで考え続けろ、というのが、神学校時代の恩師、ダビデ・ハイムス先生の口癖だった。哲学者のバードランド・ラッセルは、解けない難問があったら、自分の無意識に説くように命じておけ、後でその答えを見つけ出すだろう、と言った。この聖句もまさにそのような聖句で、長年かかってやっと意味が分かった、因縁の聖句である。私の経験上、そのようにしてやっと意味が分かった聖句は、信仰生活で極めて実りの多いものばかりである。
以下のようなロマ8:28の部分訳を読んだ。
「すべてのことが益となるに違いありません。人が神を愛するその時には。」
ロマ8:28を「万事が益となる」約束の聖句としてとらえると、間違いではないが、真理の一側面だけを捉えているように思う。というのは、付帯条件が、しかも死活に大事な付帯条件が付いているからである。それは「人が神を愛するその時には」という条件である。口語訳の表現では「万事を益とする」のは「神を愛する者たち」のためである。逆に言うと、万事が益とならない場合があり得る。人が神を愛さないその時には。
率直に聞こう。聞くのは私ではない。神のみことばが私たち一人一人に問うているのだ。「私にとって万事は益となっているだろうか。」言葉を変えて言えば、「私は神を愛しているだろうか。」
皆さんはご自分が義とされ、聖くされ、後の神の栄光にあずかるようになることを知っておられるだろうか。その道を進んでいるのを実感しているだろうか。つまり愛する神のために、今度は自分自身を変え、神の似姿になることを願っているだろうか。神は私たちが神の似姿になるためにあらゆることをして下さる。私たちはその神の愛の申し出を受け、しっかりと受け止めて、日々、聖化の道を進んで、天国での栄化を目指して進んでいるだろうか(29−30節)。
31−39節は、他の手紙に比べると比較的冷静に筆を進めているロマ書の中で、最もパウロの興奮、高揚が感じられる躍動感あふれる筆致である。私たちは「だれがわたしたちに敵し得ようか。」(31節)との告白が、自分の実感となっているだろうか。もし私たちが神を愛するなら、万事が益となり、パウロと共に得意になってこのように誇ることができるだろう。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。」(ローマ 8:35)。神を愛するとき、万事が益となる。「万事」とは文字通り「すべてのこと」。患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣さえ益となる!もちろん患難や苦悩そのものは良いものではありえない。だが神を愛する者にとっては「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇 119:71)との告白が真実なものとなる。神は、神を愛する者のためには、悪からさえ善を来たらせて下さる。
ローマ 8:37−39
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
例え打ち続く苦悩の中にあったとしても、もし人が神を愛するなら、勝利者であることができる。例え長い闘病生活の中にあったとしても、もし人が神を愛するなら、圧倒的な勝利者となることができる。
あなたにはこの勝利のヴィジョンが見えているだろうか。別の形で質問するなら、あなたは神を愛しているだろうか。他のすべてに優って愛しているだろうか。私たちがそのように、私たちの愛するイサクに優って神を愛するとき(創22:1-19)、パウロの見ていた勝利のヴィジョンが私たち自身のものとなるだろう。文字通り万事は益となり、私たちに敵し得る者はいないだろう。
私自身は、この信仰の峰は余りに高く、自身その頂上に達していないことを告白せねばならない。私はこの聖句によって「まだまだお前は神への愛を極めていない」とのチャレンジを受けた。だが登山家が高い山であればある程燃えるように、私もこのピスガの山の頂上を極めたいと思う。恐らくこの頂上の景色は、天国の栄光を遥かに望むことができるような絶景であるに違いない。
故三浦綾子さんは、自称「病気のデパート」だった。つまりこれでもかという難病に次から次へとかかり、「病気のデパート」のように様々な病気に苛まされた。ところが綾子さんは「神様は私にえこ贔屓している。」と仰っていたという。
「病気のデパート」のような生涯のどこが「神様にえこ贔屓」されているというのだろうか。恐らく綾子さんは神を愛し、それゆえに万事が益となって、実感として「神様は私にえこ贔屓している」と言わざるを得なかったのだろう。
よってロマ8:28−39を次のように言い代えることができよう。「神を愛せよ。そうすれば万事は益となって、神はあなたをえこ贔屓していると感じるようになるだろう。」
まとめ
万事が益となる時、私たちは自分が神の愛に答え、今や神と相思相愛の仲になっているのを知る。
だが文字通り万事が益となったとしても、御子を人間の姿で遣わした神の愛には程遠い。だからいくら神を深く愛したとしても、「これだけ愛せば十分」であるとか「神以上に愛が深まった」ということにはなり得ない。人間的には最高の愛でさえ、神の愛には比べるべくもない。「○○は愛である。」という主語に当てはまるのは、今までも今後も「神」のみである。
だから愛するために、愛を知るために、神を求めよう。ますます神を深く知り、神に親しもう。神を知る者は愛を知り、神の中に常におる者は、愛の中にいる。神は愛である。