キリストの救いに答えて生きる  マタイ福音書9:18―19、23-26      主の2010.7.4礼拝

中国共産党の指導者であった毛沢東は、晩年に「自分は神に会う備えをしなければならない」と語ったということを、新聞で読んだことを記憶しています。毛沢東は神様の存在を否定する共産主義者ですが、死を目前にして「神様」という言葉を使っています。彼は中国を共産化することによって様々な古い制度を改革し、その一方でその絶大な権力をもって新政策を急激に推し進めた事によって、多くの人々が家を失い、命を失ったと言われています。また、彼は多くの政敵を公職から追放しています。晩年、彼は人生の総決算をする死の時が近づいていることを意識し、自分の人生を振り返り、「神に会う備えをしなければならない」と言ったのかも知れません。
ところで、2010年1-6月の前半が終わり、7月に入り、2010年後半が始まっています。後半も祈りつつ主に従って行きましょう。来月の8月はお盆の季節で、多くの人々が、先祖の墓参りのため故郷に帰ります。一年に一度、先祖の墓にぬかずくことによって、やがて自分も死んで行く者であることを思い、自らの人生について少しでも考える時を持つ時になれば良いと思います。
本日はマタイ9:18-19、23-26です。キリストが死んだ少女を生き返らせたことが記されています。この記事を通して、人間には死というものがあり、死は人間の力では止められないということを知ることができます。しかしキリストは死んだ少女をよみがえらせることによって、ご自分が命を支配する主であることを明らかにしています。聖書は、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(へブル9:27)と告げています。すべての人が神様の前に立つ時がやってくる事が定められています。神様を否定している無神論者であっても、死を前にすると厳粛な思いになって、「神に会う備えをしなければならない」と言います。私たちクリスチャンは、キリストを信じていることによって間違いなく天国に入ることができます。と同時に、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(Ⅱコリント5:10)という御言葉を心に留めて置くべきです。クリスチャンとして信仰生活に励み、たくさんの良い報いを受けることが出来たら幸いです。今朝も主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間への旅路へ出発いたしましょう。



内容区分
1、キリストは、死の恐れから、私たちを解放する主である。9:18-19、23-24
2、キリストは、死を滅ぼす主であり、私たちは主に従って行く者である。9:25-26
資料問題
18節「ひとりの会堂司」、マルコによればヤイロという名前である(マルコ5:22)。23節「笛吹きどもや騒いでいる群衆」、近東では、有力者の家から死者が出た時、葬式のために笛吹きや泣くことを専門にする人を雇った。キリストから「あちらへ行っていなさい」と言われ、「イエスをあざわらった」のはこのような連中であった。25節「少女の手をおとりになると、少女は起き上がった」、マルコでは「タリタ、クミ(少女よ、さあ、起きなさいの意)」と言われ、少女を生き返らせている。年齢は12歳であった(マルコ5:41-42)。26節「そのうわさがこの地方全体にひろまった」、キリストの救主としての名声が、通信設備のない時代に、人伝えに驚くべき速さでひろまっていった。




1、キリストは、死の恐れから、私たちを解放する主である。9:18-19、23-24

「わたしの娘がただ今死にました・・・」(18節)。「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った(24節)。


キリストによって、死んだ者が生き返るという信じ難い出来事が記されています。多くの方々は、「非科学的である」と言って、死人が生き返ったことを信じようとしません。私が聖書を読み始めたころ、「イエス様は死人を生き返らせることができるのだ」と思って感心したことがあります。そしてキリストが死人を生き返らせたのは、新約聖書に3回あることに気づきました《本日の会堂司ヤイロの娘、ナインの寡婦のひとり息子(ルカ7:11-17)、ラザロ(ヨハネ11:1-45)》。さらに死人が生き返った最大の出来事はキリストの復活であることを知りました。キリストは、伝道生涯の中でやむにやまれず、死人を生き返らせる奇蹟を三回行いましたが、それらの人々はやがて本当に死んで行きました。キリストだけは十字架の三日後に死から復活され、今も生きている救主です。
私の親しい友が、高校生の頃に、病死、自殺などで亡くなり、私にとって死は恐ろしいものでした。恐ろしさの理由は、「死にたくない」、「死んだ後のことが分からない」ということでした。そんな気持を抱きながら教会へ導かれ、キリストが生きておられる救主であることを教えられ、キリストを信じれば永遠の命が与えられて、天国へ行けるということを聞いて、「イエス・キリストを信じます」という信仰の告白をすることができました。実に単純きわまりない信仰でしたが、これは神様の憐れみであったと思います。キリストの復活を信じたことによって、死ねば天国ですから、死は怖くなくなりました。また肉体は死によって一度は滅びますが、霊はキリストの許に導かれます。そして、世の終わりに肉体が復活して霊と結び合わされ、永遠の天国に入ることを信じて感謝しています。
キリストを信じてから、キリスト教に反対する人が書いた「死人の復活はない」という本を読みました。クリスチャンと称しているが、キリストが死を滅ぼし、肉体をもって復活されたことを信じない人にも出会いました。多くの復活に反対する種々の人々の意見を読んだり、聞いたりしましたが、「主は生きておられる」という確信は揺らぐことがないことを感謝します。それは、私が16歳の9月にキリストを心に信じ、11月に洗礼を受けて天の国籍に名前を記され、神の子にされたからです。キリストはヤイロの娘を生き返らせました。これはキリストが神であることを知らせるため、また娘の両親の願いに答えるためでした。生き返ったヤイロの娘は時がくれば死にます。しかしキリストの命の恵みによって天国へ行くという信仰をもって地上を去ることが出来たと思います。
キリストはすべての人が罪を赦され、永遠の命を受けることが出来るように、十字架に上って、私たちの罪の身代りになって下さいました。十字架の三日後に復活され、罪の赦しを受けた者は永遠に生きて天国へ行けるということを確実なものにして下さいました。キリストを信じれば、誰でも神の子になって天国へ導かれます。先月、納骨式で墓の蓋を開けて、中を見ました。そこにあるのは骨だけです。墓は天に召された方々の遺体を丁重に葬ったことの証として骨を納めてあります。墓は故人を記念する所ですから、墓に向かって語りかけることはしません。「食べてちょうだい」と言って食物を供えることもしません。故人は主の御許に行っているので、墓で私たちは故人を拝むのではなく、私たちに救いと永遠の命を与えて下さった主に礼拝を捧げます。仏式の墓参りでは線香を供えます。これは故人を礼拝するためのものですから、クリスチャンは線香を供える代わりに、亡くなった方々は神様に委ね、生きている家族・親族のために祈ることが大切です。
ところで、ここにおられる全ての方がキリストを信じておられると思います。キリストを信じるのは今です。やがて私たちは地上を去る日がきます。死んでからキリストを信じる機会はありません。聖書は告げています、

神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救いの日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。(Ⅱコリント6:2)

あるクリスチャンの証です。数年前、奥さんと弟さんが、ガンになりました。最初は、なんと人生は残酷なんだと思いました。絶望し、悲嘆の日々を送るのが普通ですが、ところがキリストを信じることによって、不思議にも日々を病気の家族と共に、喜びのうちに過ごすことができたのです。やがて奥さんは生かされ、弟さんは天に召されて行きました。死は恐いものであるが、しかし神様は最善のことしかなさらないことを知ることができたということです。
これは死の現実を受け入れ、死を越えるキリストの復活の命を信じることによって、奥さんも弟さんも、辛い中にあってキリストの平安を与えられて過ごすことができたからです。愛する者と別れることは淋しいことですが、クリスチャンは死を越えて天国の再会を信じる希望があることは素晴しい恵みです。

2、キリストは、死を滅ぼす主であり、私たちは主に従う者である。9:25-26

しかし、群集を外に出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。(25-26節)



キリストは、死んだ少女の手を取っています。ユダヤ人にとって死人にさわることは、汚れを受けることになるのですが、キリストは少女の手をとっています。ここにキリストが愛と死を滅ぼす力と権威をもっていることが現されています。キリストは限りない愛のお方です。当時ライ病と呼ばれていた聖書の中に出てくる特別な病気がありました。絶対にさわってはいけないと言われていた病気でしたが、キリストは手を伸ばして、ライ病の人にさわり、癒しています(マタイ8:3)。この場面では死人にさわると汚れると思われていた時代に、死人の手を取り、生き返らせています。少女を生き返らせたキリストのうわさは、あっという間にその地方全体に広がっています。それほど素晴しい主の御業であったということを知ることができます。



(余談ですが、日本の葬式では、挨拶状の中にお清めと称して塩が入っています。葬式から帰ると、家の人に清めの塩をかけてもらってから家に入ります。死人は汚れていて、その汚れが自分についたので、塩で清めるという考えから来ていますが、死人は汚れたものではありません。こうした迷信に惑わされないようにして下さい)。


キリストのなされたことが、この地方全体に広まっていったのですが、私たちも救いを受けています。ある方は病の癒しを与えられています。また家族が救われている方もいます。クリスチャンであれば、皆それぞれにキリストから恵みを与えられています。与えられている恵みを周りの方々に伝え、キリストの救いに与る者が起こされて行くようにすることが大切です。

ところで、私たちの一生を見てみましょう。(巻末の図参照)

キリストの救いを受けた私たちは(2)のところを歩んでいます。救われてから何年生かされるか分かりませんが、キリストに従う信仰生活を日々に歩んで行くことが大切です。どのように信仰生活を送るべきかを考えてみましょう。

「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21,23)。

これはタラントの譬の中に出てくる主人(神様)の言葉です。良い僕は主人のためになることを願って、自分に託されたタラントを用いました。僕である私たちに与えられるものは、それぞれの環境、能力によって異なりますが、それによって人間の価値が決まるわけではありません。問題はそれぞれのクリスチャン生活を忠実に送って行くという点にあります。
信仰生活の秘訣は忠実であることです。「忠実な(ピストス)という言葉は「真実な」という意味もあります。神様の前に忠実な、真実な生活をすることがクリスチャンです。使徒パウロは、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心に従って行動して来た」(使徒23:1)と言っています。
神様の前に忠実な、真実なクリスチャン生涯を送る秘訣は祈りです。祈りにはじまり、祈りに終る日々を積み重ねて行くことです。私たちは教会に来ています。聖書ももちろん読んでいます。奉仕もしています。ホームレス伝道を通して社会奉仕もしています。キリストは、これらの事をこれからも忠実にして行くことを私たちに期待しています。
キリストが求めている忠実さは、継続性、一貫性があることです。例えば毎週日曜礼拝に出席し、水曜祈り会に出席するという忠実さが大事です。早天祈祷会は火曜日から水曜日まで行われています。次のことを覚えて下さい、信仰歴は集会歴です。十年一日のごとく集会に励むことが大切です。先週志村教会に行きましたが、私の知っている81歳のご婦人がいます。この方は、浦和の郊外からバスに乗って浦和駅に出て、高崎線で赤羽駅へ出て、それから埼京線に乗り換え浮間舟渡駅で降りて15分ほど歩いて礼拝に出席しています。全体で1時間半から2時間はかかるでしょう。この教会でも大宮の方からバス、電車を乗り継いで礼拝に来ている方がいます。集会は一回一回が大事です。聖書は集会出席の大切さを告げています。

ある人たちがいつもしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし、かの日(再臨)が近づいているのを見て、ますます、そうしよではないか(へブル10:25)

さらに忠実ということに関して二つのことを言います。
一つは、経済変動の激しい時代にあって、経済の祝福を得て行く秘訣は十分の一献金をささげることです。十分の一献金をする者には祝福が必ずあります。これだけは神様を試してよいと言われています(マラキ3:10)。私はこれを実験済みの事として証しできます。私は16歳の時、年の暮れから正月にかけて池袋の果物屋でアルバイトをしました。朝から晩まで忙しい毎日でしたが、4500円をもらいました。その時に450円を十分の一献金としてささげたのが始まりで、今日まで十分の一献金をささげることを通して、必要なものを神様によって満たされていることを感謝します。
もう一つは交わりを大切にすることです。みんなと交わりをして行くことです。合い性があっても、合わなくても、挨拶を交わすことが基本です。交わりを大切にするということは、相手のために祈るということです。私はたくさんの方々に祈られていることを感謝しています。

まとめ

1、18節、24節を読みます。キリストは、私たちを死の恐れから解放して下さる主です。ヤイロの娘を生き返らせたのはキリストです。キリストはすべての人々のために十字架によって罪を赦し、復活によって永遠の命を与えて下さった主です。キリストを信じるように導かれ、永遠の命を与えられていることを感謝します。
2、25-26節を読みます。キリストは死を滅ばされた主です。私たちは、一生の図の(2)を歩んでいます。主に忠実に従って行くことが大切です。集会歴を重ねて下さい。十分の一献金をささげることが経済祝福の基礎です。みんなと交わりをすること、みんなのために祈って行くことを忘れないで下さい。


お祈りをささげます。

天地の主である神様、神様の独り子であるイエス・キリストの十字架と復活によって神の子にされていることを感謝します。キリストよって死の恐れから解放され、天の国籍に名前を記されていることを感謝します。キリストに従う忠実な信仰生活を送らせて下さい。集会出席を一回でも増やせるように助けてください。十分の一献金を通して経済を豊かに祝福して下さい。皆と交わりをし、人々のために祈るように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:マタイ注解―フランシスコ会、黒崎、文語略註、口語略解、米田、LABN、シンプソン。