最も大いなるものは、愛である。コリント第一 12:31、13:13    主の2010.7.11礼拝

2010年の前半が終わり、後半に入っていますが、本日を含めて2010年の聖日礼拝は25回です。互いに励まし合って、一回一回の礼拝を大切にして、信仰生活に励んで行くように祈って下さい。今週はファミリーの週です。ファミリーの目的はキリストを主と崇めること、キリストの御名によって共に祈ることです。キリストによって恵みのファミリーとなるように集まりの祝福を祈ります。
ところで、テレビ、雑誌などのメディアを通して様々な商品、健康食品、衣料品など紹介があり、それらを購入することで生活が便利になり、健康になり、幸せな人生を送れるかのように宣伝されています。しかし、本当に大切なもの、人を生かすもの、人生に真の幸いをもたらすものはは目に見えません。最も典型的なものは愛です。ドラマ、小説などで愛という言葉がよく使われていますが、愛は目に見えないものです。目に見えませんが、人は愛されていることを感じる時に、心が温かくなります。人は誰かを愛することによって、心に潤いを感じ、喜びが湧いてきます。
本日の聖書はコリント第一12:31、13:13です。13:13は本年の教会の御言葉として年の初めに与えられたものであり、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである」という御言葉が皆さんの心に刻まれていると思います。信仰と希望と愛の三つの中で、「最も大いなるものは、愛である」と言われています。最も大いなる神様の愛はキリストによって示されました。
「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ロマ5:8)。
私たちは神に背く罪人であり、「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23前半)という神の定めに
よって地獄に行く者でした。しかし「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8)。「罪の支払う報酬は死である」という言葉に続いて「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」(ロマ6:23後半)ということが告げられています。それは滅びに向かっている私たちのために、罪のない神様の独り子であるキリストがこの世に来られ、罪の身代りになって十字架の上で死んで、罪の赦しの道が開かれたことを意味しています。キリストを信じる者には、罪の赦しと共に、天国に行く永遠の命が与えられていることを感謝します。

内容区分
1、愛は最も大いなる賜物であり、最もすぐれた道である。12:31
2、愛を追い求めよう、愛は永遠に続くからである。13:8
資料問題
12:31「大いなる賜物」、それは「いっそう良く他人を助け、信仰共同体である教会の益となる賜物」を意味している。賜物に関する評価の基準、またその使用を本質的に規整する必須条件は「兄弟愛」である。その意味で「最もすぐれた道」とは「愛」であり、それが13章の愛の教えである。13章は1-3節には「愛はあらゆる賜物と言われる特別な恵み(カリスマ)に本質的に伴うものであり、愛がなければすべては無益となる」と言われている。
4-7節には「愛が他者との関係においてどのように働くものであるか」が教えられている。8-13節には「愛はその永続性と完全性によって、すべてに優るものである」であることが示されている。13:1「御使いたちの言葉」、12:10,30にある異言のこと。13:3「自分の体を焼かれるために」、称賛を受けるためにという訳もある。13:13「最も大いなるものは愛である」、聖霊によって、人間の心の中に注がれる神ご自身の愛(ロマ5:5)である。



1、愛は最も大いなる賜物であり、最もすぐれた道である。12:31

だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう(12:31)。


人生において何が一番大切でしょうか。健康、家族、お金、友達など様々な答えがあります。信仰生活において何が一番大切でしょうか。教会、霊の賜物、御霊の実、交わり、伝道など様々な答えがあります。
では人生においても、信仰生活においても、共通のものとして何が一番大切でしょうか。これさえあれば生きる力が湧いてくるというものはなんでしょうか。それは愛です。人は愛がなければ生きて行けません。私たちは、自分の存在そのものが受け入れられ、自分を温かく包む愛が必要です。愛がなくては人は生きて行くことができません。

ある残酷な王が実験をしました。国中から赤ん坊を集め、二つのグループに分けました。一つのグループは、あまり衛生状態が良くない場所に赤ちゃんを入れ、泣けば声をかけて抱いてあげ、オムツを替え、普通のミルクを与えるという従来どおりの育児です。もう一つのグループは無菌状態の清潔な部屋に赤ちゃんを入れ、時間がくれば栄養価の高いミルクを与え、オムツを時間ごとに替えるのですが、赤ちゃんに声をかけてはいけないという決まりでした。結果はほどなく表れました。無菌状態の部屋に入れられた赤ちゃんは、可哀想に全員死んでしまい、衛生状態の良くないほうの赤ちゃんは元気を保っていました。その差は衛生状態、ミルクの差ではなく、愛情の差でした。声をかけてもらった赤ちゃんは愛情を感じ、生きる力を与えられました。声をかけてもらえなかった赤ちゃんは愛情を感じることができず、生きる力を失ってしまったのです。

私たちすべての者は天地を創造された神様によって愛されています。

創造主である神様は、自然を通して私たちに声をかけて下さっています。先ほどの聖歌のように、「輝く日を仰ぐ時、月星をながめる時、雷の轟き渡る時、鳥のさえずりを聞き、聳える山に登り、谷間のせせらぎの音を聞く時」(聖歌497参照)、私たちは神様の存在を知る事ができます。
また神様は全世界の人々に聖書を通して呼びかけています。聖書を開くと神様の語りかけが心に伝わり、キリストの十字架を通して罪の赦しを与えて下さった神様の愛を知ることができます。
神様は私たちに聖霊を遣わし、「イエス・キリストは主である」という信仰に導き、私たちを神の子にして、教会のメンバーに加えて下さり、天の国籍に名前を登録して、天国に導いて下さいます。


神様の愛を受けて、神の子になり、教会に加わった者に対し、12:31の勧めがあります。「大いなる賜物」とは人を助け、教会の益となるために用いられるものです。それは、「最もすぐれた道をあなたに示そう」という言葉に続く13章を通して、「大いなる賜物」とは愛であることが分かります。



私はいつも祈ります、「教会に神様の愛が注がれていることを感謝します。神様の愛をひとりひとりが素直に心に受け、キリストの十字架の救いを喜び、キリストが私たちを愛して下さった愛をもって、互いに愛し合って行く教会として成長させて下さい」と。話は飛びますが、多くの方々がより広い会堂をと願っています。ここで大事な事ですが、会堂が先ではなく、キリストを愛する愛、互いに愛し合う教会として成長して行く教会となるように祈り、愛を実践することが大切です。そういう霊的な一致が与えられて行くときに、神様が働いて下さり、御心が示されます。

大いなる賜物、最もすぐれた道である愛を求めて祈って下さい。まず自分自身がキリストのきよい愛に満たされることを願って祈って下さい。



2、愛を追い求めよう、愛は永遠に続くからである。13:13

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(13:13)



13:1-12を説き明かす時間がないので、最後の結論である13節に行きます。「信仰と希望と愛はいつまでも存続する」と明言されています。

信仰は、キリストを信じる信仰によって心の生まれかわりを与えられ、神の子とされた恵みです。

希望は、キリストの復活によって永遠の命を受け、天国に行くという希望です。また、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)との約束に基づき、私たちの祈りが聴かれるという希望です。

私たちは神様の大きな愛に守られています。聖書は、「神は愛である」と告げていますので、神様が不滅であるように、愛は不滅であり、愛はすべてにまさって大いなるものなのです。それで、コリント13:13で「このうちで最も大いなるものは、愛である」と告げられているのです。



そこで愛について考えてみましょう。



*神様の愛は、キリストの十字架を通して表されたまことの愛です。



神様は言葉や口先ではなく、行いと真実をもって、私たちに対して愛を表して下さいました。行いと真実をもって表された神様の愛の印はキリストの十字架です。神様はご自分の最も大事な独り子であるキリストをこの世に遣わし、罪のないキリストを十字架に架けて人間の罪の身代りにして下さいました。人々は何故キリストが十字架に架ったのかという議論をしますが、それは神学上の問題として神学者が論じるでしょう。確実に言えることは神の独り子キリストが、私たちのために十字架にかかり、血を流して罪の身代りになって下さったということを信じる時に、確かに罪が赦されます。罪が赦され、心が生まれ変わった者はクリスチャンとなり、罪を憎み、義を愛し、創造主である神様を父なる神様と崇めるようになります。罪を赦され、天国の国籍に名前を記され、「我らの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)ということを信じて、死が怖くなくなります。

Yさんは新聞記者で、武道で体を鍛えていましたが、尿毒症になり、動けなくなってしまいました。クリスチャンの友人かいたので、教会に行ってみると元気になり、不思議だと思っていました。しかし、心に喜びがないということで悩んでいました。ある聖会に行く機会が与えられ、そこで一生懸命に祈りました。そうすると、とにかくキリストが慕わしくなるという心に変えられたのです。神の独り子であるキリストを信じる信仰によって、生活のすべてがキリスト中心になりました。好きだった武道をやめ、キリストの愛を伝えたいという思いがあふれ、家庭集会を開くようになりました。健康のほうは、人工透析を25年続けていますが、死を恐れず日々をキリストの愛に守られ、支えられています。



*人間の愛と神様の愛について考えてみましょう。(図を参照して下さい)

一つは自己中心の愛です(エロス)。

自分の方へ来ることを求める愛です。奪う愛であり、生まれながらの人間の欲望のままの愛(肉の愛)です。相手の立場を考えないで、ただ自分自身の欲望の満足のために行動します。これは自分の方にだけ向かう一方交通の愛です。

一つは「、もし・・・してくれたら」、あるいは「・・・だから」という愛です(フィリア)。

自分と相手の往復運動の愛です。対面交通の愛です。相手に何かをする、そうすると返礼がくるという形の愛です。相互に平均に往復する愛です。自分からも与えますが、相手から返礼を期待する愛です。返礼はいらないと思いながら、人間は無意識のうちに相手からの返礼を求めてしまうのです。
これは一般に兄弟愛と言われている愛です。親子、夫婦の間の往復の愛です。
この愛の特徴は、往復運動がスムースに行っている時には問題がありません。しかし相手から何の返礼もないと、いらだったり、心の中で相手を責めたりするようになります。相互の均衡が壊れると、相互の関係が破れてしまいます。

一つは「それでも・・・」という愛です(アガペー)。

自分から相手の方にだけ向かう愛で、一方交通の愛です。相手からの返礼を期待しない愛です。聖書では、神様から来て、人に向かって行く愛です。人から返ってくることを期待しない愛であり、自己犠牲の愛です。最も典型的に、キリストの十字架で現された愛です。

私たちはアガペーの愛を求めます。アガペーの愛を実践したいと思います。しかし、実際は愛の足りない者であり、愛せない自分に気づきます。相手を愛そうと思っても愛せないというのは愛が足りない、愛の量が不足しているからだと悩んでしまいます。そこで、もう一度「愛の図」を見てみましょう。ここに示されているのは量ではなく、方向の差であることがわかります。愛をいっぱいに与えられて、アガペーの愛を実践できれば理想的ですが、現実には愛に不足している者です。そこで視点を変えて、小さい、足りない愛であるが、その人に関心を示し、出来ることから始めて行くことが、真の愛の実践になります。水いっぱいを与えることから愛の実践がはじまります。返礼を求めず、一方交通の愛を実践して行くことが、愛の第一歩です。
愛は祈りから始まります。その人のことを思って、キリストの御名によって祝福を祈って行くことができます。挨拶を交わすことによって愛を示すことができます。電話をする、メールをする、訪問するなど、ただ相手のことを思って、愛を発信すれば良いのです。愛とは与えることです。キリストの言葉を思い出して下さい。

「受けるよりは与えるほうが、さいわいである」(使徒20:35)。

私たちは与えることによって受けます。
「銭形平次捕物控」という時代小説があります。作者は野村胡堂です(あらえびすというペンネームで音楽評論家としても活躍)。銭形平次と子分のガラッ八の活躍は多くの人に愛読され、映画、テレビを通しても人気を博しました。この野村胡堂夫妻はクリスチャンでした。毎月末になると、このご夫婦はたくさんの封筒を用意してお金をつめ、助けを必要とする人々にさり気なく援助の手を差し伸べていました。与えることによって、二人は豊かな祝福を受け、野村胡堂の銭形平次は吉田総理大臣をはじめとして多くの読者を得、またその音楽評論も祝福されました。週一回の家庭集会には人々が集まり、賛美と祈りと聖書の学びがなされていました。(野村胡堂・銭形平次捕物控)

お祈りをささげます。



天地の主である神様、
私たちを一方的に愛して下さり、その愛の印として御子イエス・キリストの十字架の恵みがあったことを感謝します。キリストを信じるだけで、罪の赦しをいただき、永遠の命を与えられたことを感謝します。多くの人々が愛を求めていますが、なかなか愛を見いだせないままでいます。キリストの十字架の愛こそが真の愛です。この愛を家族に、友達に、周りの方々に伝えて行くように、私たちを用いて下さい。返礼を求めず、相手に愛を示して行く者にならせて下さい。私たちの緊急の願いは、家族がキリストの愛によって救われることです。主よ、救いの恵みを速やかに現して下さい。信仰と希望と愛はいつまでも続き、最も大いなるものは愛であることを教えていただきました。聖霊を通して神様の清い愛を私たちの心に豊かに満たして下さい。
十字架にかかり、救いを与えて下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。





参考文献:コリント注解―黒崎、文語略註、フランシスコ会、小林、口語略解、LABN、米田。

「神の愛と教会の交わり・堀越・ことば社」、「信仰雑誌より」。