私たちは神の子である ヨハネ第一3:1-9              主の2010.7.18礼拝

日本ではハンセン病(ライ病と言われていた)が、治らない、伝染する恐ろしい病気であると思われ、この病気にかかった人々を社会から隔離するという国の医療政策が長く続きました。現在は、ハンセン病は治るものであり、国は隔離政策の誤りを認め、それは撤廃されています。以前、まだ隔離政策の時代、ハンセン病の人々が社会から切り離されて暮している施設へ行き、集会をしたことがあります。その集会の中で私がメッセージをすることになり、何を語るべきか、祈って備えました。この世にあって、健康であっても健康を損ねていても、喜びの日も悲しみの日も、何があろうとも主に従って信仰の道を歩んで行こう。本日のヨハネ第一3:2のように、キリストが再びこの世に来られる時、キリストを信じる者はキリストに似る者となるということを伝えたことを思い出します。

本日はヨハネ第一3:1-9です。2節に「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」と言われています。キリストを信じるすべての者が、キリストに似る者となるという希望をもって生きるべきことを教えています。私たちが施設に行った時は、治療方法が確立する前で、失明し、手の指を失った方々もいましたが、キリストにお会いする時に、損なわれた肉体が栄光の姿に変えられることを信じ、主を讃美している姿に強い励ましを受けたことを思い起します。今朝、ひとりひとりが神の子にされている恵みを感謝し、メッセージを聴き、祈って、共に新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。



内容区分

1、わたしたちは、神様の大きな愛を賜り、今やすでに神の子である。3:1-2

2、わたしたち神の子になった者は、罪を犯さない生活をし、主を伝える。3:3-9

資料問題

1節「どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」、神様は人類が罪に堕ちた直後に救主派遣を預言している(創世記3:15原始福音)。アダム以降ノアの洪水を経てアブラハムがイスラエル民族の祖となり、長い時代の後にイエス・キリストの誕生となり、十字架と復活により救いの道が開かれたのである。

1節「わたしたちは、すでに神の子である」2節「わたしたちは今や神の子である」、キリストを信じ受け入れた者は既に神の子である(ヨハネ1:12)。2節「彼が現れる時」、キリスト再臨の日。「自分たちが彼に似る者となることを知っている」、キリストの栄光の姿に似るものとなるのである。6節「すべて彼におる者は、罪を犯さない」9節「その人は、神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない」、罪の中に継続的に留まっていないことである(ロマ6:1,2)。



1、わたしたちは、神様の大きな愛を賜り、今やすでに神の子である。3:1-2

わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1節)、愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である(2節)。

私たちはイエス・キリストが死から復活された日曜日を主の日として記念し、礼拝を捧げています。もともと私たちは、礼拝とは無縁の者でした。キリストを信じる前、私たちはサタンに操られて、この世のならわしに従い、偶像を礼拝し、自分の欲望のままに生きていた罪深い者であり、神の怒りを受け、滅びに向かっていた者でした。まことの神様に背を向け、自分勝手な道を歩いている人間に対し、神様は大きな愛をもって、あらゆる方法を用いて呼びかけています。

私事ですが、高校2年の夏休み前、後楽園のチケットをもらい、6人ぐらいでナイトゲームを観戦に行きました。帰り際、一人の仲間、「明日は日曜日、私は教会へ行く」と言ったので、翌日みんなで教会の礼拝に行きました。神様は一人のクリスチャンを通して呼びかけて下さり、それがきっかけで、私は9月に救いを受け、11月18日に洗礼を受けました。神様は大きな愛を、友を通して私に現して下さいました。

あるご婦人は舅が病気になり看病をしていました。牧師の訪問があり福音が伝えられました。「おじいさん、天地を造られたまことの神様がいます。この神様を信じない人は罪人であり、地獄に行きます。神様は救主イエス・キリストを遣わし、キリストが人間の罪の身代わりになって十字架で死んでくれました。キリストを信じれば罪が赦されます。素晴しいことにキリストは死んで終わりではなく、死から復活され、今も生きています。キリストは信じる者に永遠の命を与えて下さいます。キリストを信じて、天国へ行きませんか」との勧めを受け入れ、おじいさんは救われ、それから間もなくして安らかに天国に召されて行きました。このご婦人は、舅の平安な姿を見、自分も牧師の語ってくれたキリストを信じ、洗礼を受け、信仰の生涯を歩み続けました。

この朝、キリストの救いを受けていることを感謝しましょう。神様の大きな愛の中で、信仰に導かれたきっかけ、信仰に導いてくれた人などを思い起し、神様の呼びかけがあったことを間謝して行きましょう。救いを受けた私たちは次の御言葉を心に留めて行くことが大切です。



*わたしたちは、すでに神の子なのである(1節)、わたしたちは今や神の子である(2節)



信仰は過去のことでも、未来のことでもなく、現在のことです。多くの人々が神を求めてきました。この場合の神とは、人間を越えた存在ということです。ある方はたくさんの書物を読み、知的に神を求めました。ある方は滝に打たれて身を清め、座禅をして神を求めました。ある方は施しをして、よくやっていると言って、神が自分の方に振り向いてくれることを期待しました。ある方はお天道様(太陽)を神として拝んでいました。しかし、太陽は曇りや雨の日には拝めませんので、大丈夫かなという不安をもっていました。人間は神に近づくために、様々な努力をしていますが、誰もまことの神様に到達することができずにいました。聖書は、人間が神様を求めるよりも、神様が人間を求めていることを示しています。神様は、罪に堕ちた、罪ある人間のために、ご自分のほうから救いの手を差し伸べ、愛を現して下さいました。それが次の御言葉です。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある」(ヨハネ第一4:10)。

救いは神様のほうから、御子キリストを遣わし、キリストが人間の罪の身代りになることによって実現したのです。私たちはキリストを信じて救われました。キリストの救いを感謝して、現在もキリストにつながっている者がクリスチャンです。十字架を信じ、私たちは既に神の子です。今日もキリストを信じている者であることを感謝します。キリストは信仰持続のために、次のように言っています。

「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)、「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9)。



*わたしたちは、自分たちが彼に似る者となっていることを知っている(2節)。



これは私たちの将来の姿です。キリストは世の終わりに、もう一度やって来られます(再臨)。キリストを信じる者は、キリストの姿を仰ぎ見て、霊も体もキリストのように栄光の姿に変えられます。その希望をもって日々を歩んでいます。

ある方の証です。郷里を出て大学を卒業し、就職し、順調に仕事をしてきました。50代に入った時、突然に発病し、脳腫瘍と診断され、手術し、奇跡的に助かりました。ところが無情にもリストラされてしまいました。その時に、郷里で若い頃に教会に通っていたことを思い出し、40年ぶりで教会の門をくぐりました。懸命に働いてきたのに脳腫瘍となり、死ぬと思ったが、命が助かった。しかし会社をリストラされ、何のために生きているのか分からない希望のない日々でした。その日、教会で、イエス・キリストが十字架にかかり、死から復活されたという希望のメッセージがありました。死から甦られて、今も生きている主がおられるということが心に迫ってきました。このまま死んで終わりだという人生ではなく、キリストによる罪の赦しと共に永遠の命の希望を与えられて、今までとは違う新しい永遠につながる人生が開かれていることを感じました。そしてキリストに会う日に、脳腫瘍の障害から解放されて、キリストのように栄光の姿を与えられることに希望を置いて、日々を生かされています。



2、わたしたち神の子になった者は、罪を犯さない生活をし、主を伝える。3:3-9

彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする(3節)、すべて彼におる者は、罪を犯さない(6節前半)、すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである(9節前半)。

私たちは神様の大きな愛の現れであるキリストの十字架によって救われました。終わりの日にキリストに似る者となるという約束が与えられています。3節以下には、神の子になった者の生き方が示されています。



*彼がきよくあられるように、自らをきよくする(3節)。



この手紙の記者は使徒ヨハネです。彼はキリストと3年半寝食を共にしています。彼はキリストから直接に教えを聴きました。しっかりと主の生活を見ていました。キリストのことを表から裏まで知っている弟子でした。そのヨハネが、キリストはきよいお方であると証言しています。そのことを5節で「キリストには何の罪もない」と言っています。



ちなみに、①キリストは罪のないお方でした(ヨハネⅠ3:5)。

②キリストは罪を知らないお方でした(コリントⅡ5:20)。

③キリストは罪を犯さなかったお方でした(ペテロⅠ2:22)。



きよく生きるということについては、新約聖書の手紙を記したヨハネ、パウロ、ペテロ、ヤコブ、ユダ、へブル書の記者が共通して述べています。救われたクリスチャンは、罪より離れて、きよい生活をしなさいと言うのが聖書の教えです。私にとってはヘブル書の御言葉が強く響いたことを思い出します。

すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない(へブル12:14)。

私が教えられたのは、キリストを信じた者は、キリストを見上げて、自ら清い生活をするように努めるという事です。さらに「きよくなければ主を見ることができない」という厳粛な御言葉です。



私たちの救いについて次のように言われています



神のみこころは、あなたがたが清くなることである(テサロニケ4:3)、神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである(同4:7)。



*すべて彼におる者は、罪を犯さない(6節前半)、すべて神から生まれた者は、罪を犯さない(9節前半)。



キリストを信じた者は罪を犯さないと言われています。キリストを信じたら完全な人になれるのでしょうか、しかし、現実には罪を犯すことがあります。失敗があります。では、この御言葉の意味するところはなんであろうかということですが、キリストにある者は罪を継続して犯すことがない。罪の中に継続的にとどまらない、というふうに理解できると思います。クリスチャンは罪を犯した時、キリストの前に罪を悔改めて、罪から離れて、キリストから赦しをいただき、再出発する力を与えられます(ヨハネ11:9)。8節に悪魔(サタン)が出てきますが、悪魔は悔改めることなく、神様に反抗し、常習的に罪を犯し続けています。キリストを信じた者は罪を犯し続けることがなく、義の道を歩むように導かれます。また罪から守られるように、神の種である聖書の御言葉が心のうちにとどまっています。聖書を読む事は罪に陥らない秘訣です。

わたしはあなたにむかって罪を犯すことがないように、

心のうちに御言葉をたくわえました」(詩篇119:11)。

私たちは一日を終え、自分の言葉、行いにおいて罪を犯し、人を傷つけ、躓かせたりしたことがないかどうかを省み、主の赦しの中に床に着くことが大切です。



政治の世界は、民主党、自民党、小グループの諸政党が政治の主導権をとろうと争っています。多くの政治家の中にはクリスチャンもいて、国会内で正しい国民のための政治がなされるように祈っています。私たちも国の政治のために神様の導きを祈って行くことは大事なことです。以前、牧師で代議士の人がいました。この方の父親はヤクザでした。清水次郎長の子分のひとりで名前は知られていませんでした。ある時、ヤクザ同士の争いが起り、相手のヤクザの組に殴り込みをかけることになりました。ドスを振り回して血の雨が降ろうとした時、このヤクザは、「自分の身に免じて争いをやめて下さい」と言って、自分のももにドスを突き立てました。争いはこの男の犠牲によって回避されました。明治になり、次郎長も亡くなり、この男はヤクザをやめ郷里の滋賀で暮し始めました。村に教会があり、もとヤクザの男は、老体の身をひきずるようにして教会に通いました。そこで、キリストが人間の罪のために十字架にかかったことを知りました。彼は罪のないキリストが十字架の上で苦しみ、血を流して人間の罪を赦されたことを信じました。そして神様の大きな愛に感謝し、オイオイ泣きながらキリストの十字架を信じました。ヤクザの親分次郎長の子分の一人はクリスチャンになり、神様の愛を喜んで人々に伝える人に変えられ、キリストに倣ってきよい生涯を全うして天に帰って行きました。氏は救われた元ヤクザの父の信仰を受け継ぎ、牧師となり、国会議員としても活躍をしました。



本日の中心になった御言葉を読んでお祈りします。

1節前半、2節前半、3節、4節前半、6節前半、9節前半



お祈りを捧げます。



天地の主である神様、神様の大きな愛の現れであるキリストの十字架を通して、罪の赦しをいただき、今や神の子であることを感謝します。キリストにお会いする日に、キリストに似る者となることを信じ、罪から離れ、失敗して罪を犯すようなことがあったとしても、罪を犯し続けることなく、罪の力からの解放を与えて下さることを感謝します。今週の日々も大きな愛を与えて下さった神様の愛をほめたたえ、キリストの十字架に感謝し、聖霊によって祈りの日々をおくらせて下さい。今月もキリストを信じる者を起して下さい。病気の方々に平安と癒しを与えて下さい、戦いの中にある方々を支えて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします、アーメン。





参考文献:ヨハネ書注解―バークレー、黒崎、米田、フランシスコ会、文語略解、LABN、口語略註、松村、ストット。