信仰による救い ルカ福音書16:19-31               主の2010.7.25礼拝

夏はお盆の季節で、先祖の墓参りのために多くの人が郷里に帰ります。先祖のためにお盆行事があり、亡くなった人を偲びつつ、死を考える季節です。日本の言い伝えでは、お盆には地獄の釜の蓋が開いて、地獄にいる先祖が地獄の苦しみから解き放たれ、なつかしい我が家を目指します。先祖が迷わないようにそれぞれの家の前に迎え火が焚かれ、家にはご馳走が並べられて先祖を歓迎します。ところが、その期間はわずか2-3日で終わり、ご馳走が片づけられて、今度は送り火を焚いて先祖を送り出しますが、行く先は地獄です。お盆の考えによれば、先祖は年に数日の間だけ地獄の苦しみから解き放たれるだけです。お盆の行事は、もともとの仏教にはない教えが入り込んできて、先祖を地獄から迎え、また地獄に送り返すという愚かなことをしているのです。これは多くの人々が生きる目的と死後の事柄について明確な考え、教えをもっていないからです。クリスチャンはキリストの十字架を信じて罪が赦され、キリストの復活によって永遠の命を受けて、天国へ導かれるという明確な信仰を与えられていますので、お盆とは無縁の者です。
本日はルカ16:19-31です。ふたりの人が同じ時期に亡くなりました。一人は黄泉(よみ・罪ある者が死後、体が復活するまで霊魂が苦しむ場所)に行き、もう一人のラザロという人物は、アブラハムの懐(ふところ)と呼ばれるパラダイスに行っています。この話を通して、イエス・キリストは、人間は死んで終わりではなく、死後の世界に移されることを告げています。多くの人が死後のことを分からないままでいる中で、私たちには、聖書に啓示された死後についての明瞭な教えが与えられていることを感謝します。今朝、主のメッセージを聴き、共に天国を目指して進んで参りましょう。

内容区分
1、人は死んで行き、死後の世界は二つあり、人はどちらかに行く。16:19―26
2、キリストによる永遠の命を受けるのは、御言葉をとおしてである。16:27-31
資料問題
17節「ある金持」、金持の名前は本文中に見えない。「紫の衣や細布」、非常な贅沢品を身にまとっていた。彼は快楽にふけっている。ルカ12:16-20にある愚か者の生きかたである。20節「ラザロ」、へブル語のエレアザルのギリシャ語形。『神に助けられた者』の意。21節「犬がきて彼のでき物をなめていた」、不浄な動物とされている犬に傷口をなめられることは、ラザロにとって大きな屈辱であった。26節「大きな淵」、黄泉とアバラハムの懐(ふところ)と言われるパラダイスの間には大きな淵がある。誰もこの淵を越えることはできない。29節「モーセと預言者」、旧約聖書を意味している。31節「モーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があったとしても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」、信仰の基本は神の言葉を聴くことである。奇蹟や不思議を見ても人間はすぐに忘れてしまう。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ロマ10:17)。キリストの言葉は聖書66巻に余すところなく記されている。聖書を読み、神の言葉に従うことが真の信仰の本質である。


1、人は死んで行き、死後の世界は二つあり、人はどちらかに行く。16:19―26

この貧乏人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムの懐に送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかに見えた(22-23節)、「そればかりか、わたしたちとあなたがたの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」(26節)。

キリストは、人間は生まれて来たことが確実であるように、やがて確実に死ぬということ、また人は死んだ後に、祝福の世界か、または苦しみの世界か、どちらかに行くことを告げています。
本日の箇所では、遊び暮していた金持が死んで葬られました。その頃、全身できものだらけで、人の施しにすがって生きていたラザロも死にました。二人は死んで終わりではなく、死んだ金持は、罪人が行く火の燃える黄泉(よみ)にいて、苦しんでいます。ラザロはアブラハムの懐(ふところ)といわれるパラダイスにいて憩いを得ています。

*人間は死んで、次の世界に移されるという事実を知ります。

お金があっても、権力、地位があっても、自分は名門の生まれであると誇っていても、学問に秀でていても、体を鍛えていても、人は死の前には無力です。聖書によれば、人は70年か80年の人生をおくり、やがて死んで行きます。金持も、貧しいラザロも平等に死を迎えています。死んだ後に金持は黄泉(よみ)に行っています。そこは罪人が死後に行く所で、23-24節にあるように霊魂が苦しみを受けています。そして世の終わりに体が甦って霊魂と結びつき、神の最終審判を受けて、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれ、サタンと共に永遠に苦しむことになります。ラザロはアブラハムの懐(ふところ)と呼ばれるパラダイスに行き、霊魂に安らぎを与えられています。やがて世の終わりに、体が甦って霊魂と結びつき、天国に導かれ、永遠に主と共に住む祝福を与えられます。

*私たちは神様の愛によって救われるという事実を知ります。

死後の世界において、二人は生前の生活とまったく逆転した立場にいます。何故そうなったのかは明らかにされていません。ラザロはみすぼらしい人間でしたが、心が美しかったのでパラダイスに行けたのではありません。聖書には、そんな事は書いてありません。聖書は、彼が文字どおり哀れな人間であったことを記しています。人間は誰一人として、天国に行く権利や資格をもっていません、それはラザロにも金持にも当てはまることです。また私たちにも当てはまることです。
ひるがえって、なぜ私たちはクリスチャンになることができたのだろうか、ということを考えてみましょう。私たちに人より優れたものがあり、あるいは聖書の知識に通じていたからでしょうか。また良い行いをしていたからでしょうか。親がクリスチャンだったからでしょうか。
聖書は告げています、
あなたがたの救われたの、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである(エペソ2:8-9)。
キリストは言われました、
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)
私たちはラザロのように何ももたない、弱い、哀れな者であったのです。そんな私たちを見捨てずに、神様はキリストをとおして語りかけて下さいり、聖霊の助けによってキリストを心に信じ受け入れるように導いて下さいました。私たちはキリストによって救われていることを感謝しましょう。

*私たちを救う力をもっているのはキリストだけです。

世界に様々な教えがあり、人が幸福になる道を説いています。しかし、この世を終えた後の来世について明確な教えを説いているものはありません。先日テレビで1200年ほど前にいた天皇の奥さんが仏教信仰をもち、天皇である夫の病い平癒を願って仏に祈願するために建物を建立したこと、仏に祈願するために仏像を彫らせたことなどがドラマ風にまとめられていました。仏像などは美術品として残されていますが、それは呼んでも応えないし、自分の足で歩くことも出来ない偶像です。もともとの釈迦の教えは現世において悟りを開いて安心立命を得ることにあって、来世の教えはなかったのです。地獄極楽の教えは後代の人たちが考え出して仏教の中に入れたものと言われています。孔子は生きることに精一杯であるので、来世のことは分からないと言っています。イスラム教ではこの世でアラーの神に仕えた者は来世で楽しい生活をすることができると説いていますが、その具体的な根拠はないようです。
キリストは言われます、
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。
キリストは人の罪の身代りになって、十字架に命をささげて下さいました。しかし三日後に死を打ち滅ぼして復活されて、今も、そして永遠に至るまで生きておられて、私たちを天の御国に連れて行って下さいます。
80年以上の生涯を先祖伝来の仏壇を守り、お盆などの行事をしているご婦人がいました。この方は訪れてきた牧師をとおしてキリストの十字架と復活の話を聴き、罪を悔改めてキリストを救主、主として心に迎え入れました。高齢のため教会に行く機会がなく、それから半年ぐらいしてから、そのご婦人は、「イエス様が見える」と叫びながら息を引き取って行きました。キリストは生きている力をもって、ご婦人を天国に導いて下さったのです。
私たちひとりひとりがキリストの救いを受け、永遠の命を与えられていることを感謝し、祈り合って、励まし合って、天の御国に向かって進んで行きましょう。

2、キリストによる永遠の命を受けるのは、御言葉をとおしてである。16:27-31

アブラハムは言った、「もし、彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」(31節)。


金持はあまりの苦しさに、ラザロを遣わして「自分の舌を水で冷やしてくれ」と頼んでいます。生前はラザロを無視していたのに、彼は自分の都合のよいことばかりを願って自分勝手な願いをしています。それに対するアブラハムの答えが25―26節にあります。その中で、「わたしたちとあなたがたの間には大きな淵が置いてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」という言葉があります。これは天国と地獄はハッキリと区別されていることを示しています。



*天国か地獄へ行くのは生きている時に決まるということです。



信仰を持たないで死んで行き、黄泉に行って気づいて、あわてて何とかしようと思っても遅いということです。黄泉(地獄)とパラダイス(天国)の間には、大きな淵があり、誰も越えることができないと言われています。

ある方は、死んでから信仰をもつ機会がある(セカンドチャンス)ということを説いていますが、それは間違いです。聖書は、「今は恵みの時、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)と明確に告げています。キリストを信じて、罪の赦しと永遠の命をいただくのは、今です。死んでからでは遅いのです。死んでから、いくら願い求めても、大きな淵が天国と地獄とを隔てていて、それを越えることは誰にもできないのです。
ある方は、福音を聞く機会を与えられないで死んだ人はどうなるのかということを問題にします。その人たちも滅びに入るのかと言います。私もいろいろに御言葉を読み、考えますが、それに対する答えをハッキリもっている訳ではありません。ただ言えることは、その問題は神様に委ねるということです。そして何よりも大切なことは、聖書をとおして神様は常に私に個人的に語りかけているということです。今朝、多勢の方々がメッセージを聴いていますが、これは神様が個人的に語りかけている大切な時です。私たちひとりひとりが、神様の御言葉に従って行くならば、神様は万事を益にして下さることを信じて行くことが大切です。大事なのは、今という時に、聖書の御言葉を自分への語りかけとして聴き、御言葉に従って行くことを決断することです。

*神様の言葉である聖書に従うことが、真の信仰です。

金持は、アブラハムに、「ラザロを生き返らせて、自分の兄弟たちに送って下さい。死んだ人が生き返ったことを見たら、彼らは悔改めるでしょう」と懇願しています。確かに死んだ人が元気な姿を見せれば、人はビックリするかも知れませんが、それが信仰につながるという保証はありません。よく「奇蹟を見れば信じる」、「病気がなおれば信じる」、「ご利益があれば信じる」ということが言われますが、本当にそうでしょうか。信仰の父アブラハムは、「彼らにはモーセと預言者とがある。それを信じることが信仰の基本である」と答えています。モーセと預言者とは旧約聖書を指しています。現代で言えば聖書66巻が人を信仰に導く書です。
パウロは弟子のテモテに次のように教えています、
また、幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である(Ⅱテモテ3:15―16)。

ある男性は旅行に行くと、その地方の神社仏閣のお札を買って家に持ち帰り、神棚に飾っていました。何かご利益があると思って大切にしていましたが、紙切れや板切れのお札には何の力もありませんし、心に平安を与えてくれませんし、また死後のことも教えてくれません。真の平安をもたないまま、死後どこへ行くかも分からずに70代に入ったのですが、そこで病気になり、死後のことが分からず苦しみが増すばかりでした。しかし神様はこの男性を見捨てずに、病床にクリスチャンを送ってくれました。そこで聖書をとおして、キリストの十字架と復活のことを聴き、70年間の偶像礼拝を捨てて、悔改めてキリストを心に迎え、晴れ晴れとして天の御国に召されて行きました。
ある女性は、聖書をとおしてキリストを信じ、それを見てご主人もキリストを信じました。聖書の約束は、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われる」(使徒16:31)ということです。家族の救いのためにもっともっと祈って行きましょう。祈りは必ず届いて行きます。私にはノンクリスチャンの兄弟達がいます。必ず救いに入れられることを信じて、機会あるごとに聖書の言葉を伝えて行くように努めています。



お祈りを捧げます。

天地の主である神様、
永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであることを信じます(ヨハネ17:3)。神様の大きな愛の中に、キリストを信じる信仰を与えられて、永遠の天国に行くという恵みによって生かされていることを感謝します。すべての人々が、生きている間にキリストを信じて天国へ行くように導いて下さい。何故なら死んでからでは、悔改めてキリストを信じる機会がないからです。家族に、友に、周りの人々に聖書をとおしてキリストを伝える機会を与えて下さい。病気の方々に癒しを与え、信仰の戦いの中にある方々に逃れの道を示し、勝利を与えて下さい。この教会が、『キリストを喜び、キリストを伝える教会』として前進して行くように導いて下さい。伝道が推進される時に、会堂のこと、駐車場のことが神様によって備えられて行くことを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈りと願いとをささげます、アーメン。


参考文献:ルカ注解―黒崎、フランシスコ会、米田、LABN、榊原、文語略註、口語略解、矢内原、新共同訳ルカ注解。