価値ある人生 ロマ8:14-17 主の2010.8.8礼拝
日本人の平均年齢は男性79歳、女性86歳となり、世界の長寿国となっています。寿命が延びて、それぞれが人生を楽しく生きているのかといえば、必ずしもそうではないようです。例えば、最近のニュースによりますと、100歳を越えた人々が全国で60名以上も所在が分からないということです。子どもに問い合わせると、「母は30年以上前に、家を出て行きました」、「親とは50年ほど音信不通です」というような答えが返ってきて、親子の繋がりが全くないということに唖然としてしまいました。せっかく生命を与えられて、この世に誕生してきたのに、その最後が全く分からないままであることを考えると、心が暗くなります。人の一生は棺の蓋を覆うまで分からないと言われますが、少なくとも生まれたこと、生きたこと、そして人生を閉じていったという人生の完結をしなければならないということを考えさせられます。
本日の聖書はロマ8:14-17です。15節に、「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである」と言われています。子たる身分を授かったというのは、天地を創造された神様の子供になったという意味です。神様は永遠から永遠にわたっておられるお方ですから、「あなたがたは神様の子供になって、永遠に生きる者になったのである」という意味が込められています。100歳まで生きても、どこにいるのかも分からないという所在不明ではあまりにも淋しい人生です。私たちは神様を信じることによって、天国の国籍を与えられています。神様は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(へブル13:5)と約束されました。神様はいつでも私たちを守って下さる主です。イザヤ46:4で、神様は、「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは、造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と宣言しています。命を与えて下った神様は、人生の最後まで私たちを支え、そして天国に繫がる価値ある人生を送らせて下さる愛の神様です。
今朝、主のメッセージを共に聴き、祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。
内容区分
1、私たちは、天の神様を「アバ、父よ」と呼ぶ神の子にされている。8:14-16
2、私たちは、天の神様の祝福を受け嗣(つ)ぐという恵みを与えられている。8:17
資料問題
14節「神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」、神様の霊である聖霊はキリストを信じる信仰を与える働きをする。コリント書では、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない」(Ⅰコリント12:3)と明言している。15節「アバ、父よ」、アバはお父さんという意味のアラム語で、父への信頼を表した子の呼びかけであり、キリストもゲッセマネで「アバ、父よ」と祈っている。15節「呼ぶ」、原語は「叫ぶ」で、心から溢れ出る呼びかけ。17節「キリストと栄光を共にするために苦難を共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」、十字架がなければ栄冠はない。主と共に苦しみ、主の栄光に与るのである。
1、私たちは、天の神様を『アバ、父よ』と呼ぶ神の子にされている。8:14-16
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは、「アバ、父よ」と呼ぶのである。(15節)
最近謎かけがはやっていますが、なぞなぞ、謎かけは昔からあるものです。世界で古い謎の一つにギリシャ神話に出てくるスフィンクスの謎があります。エジプトのピラミッドの所にある人面獣身の像もスフィンクスと呼ばれますが、ギリシャ神話のスフィンクスはライオンの体、上半身は女性の形で、通行人に謎をかけ、答えられない者を殺していました。テーベの知恵者オイディプスは謎を解くために出かけて行きました。スフィンクスは彼に謎を出しました。「朝には四本足、昼には二本足、夕べには三本足となって歩く者は何だ」。オイディプスは答えました、「それは人間だ。人間は幼い時は手足で這うから四本足だ。そして二本足で歩き、老いては杖を用いるから三本足となる」。この見事な答を聞いて、スフィンクスは岩から身を投げて死んでしまったといいます。
オイディプスはスフィンクスの難問に答を出しましたが、私たちの問いは、実はその先にあります。四本足、二本足、三本足で歩き続ける人生、その人生にどんな価値があるのかを知ることが大切です。さらに人生の終わりにある死を越えて、人間は何処に向かって進んでいるのかを知ることは最重要な事柄です。120年の人生を生きて、天国に行ったモーセは次のように述べています。
われらの齢(よわい)は七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、骨折りと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです(詩篇90:10)。
もし、ただ苦しんで、悩んでそれで飛び去ってしまうだけの人生であるなら何の価値もない人生です。いやいや、人生は楽しいものだ、たくさん美味しいものを食べ、美しいもので身を飾り、たくさんの友人と愉快に毎日を送っている、という人もいます。しかし、それだけでは心の中に満足がなく、生きている価値や意味が分からないままです。そこでモーセは祈っています、
われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させて下さい(同12節)。
これは、人生の短いことを知って、神様に頼り、知恵の心すなわち神様の霊に従って生きる心を持たせて下さい、という願いです。
人間が神様の霊に従って生きる時、人生が変わります・・・本日の聖句は告げています、
「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子である・・・もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。
生まれつきの、罪に支配されているままの状態でいるなら、人間は死ぬ外はない存在です。ところが、人間が神様の霊に従って生きる時、心の生まれ変わりと永遠の命を受けて神様の子供になることができます。神様に背いていた人間はサタンの奴隷として、神様を怖いお方として恐れ、人を恐れ、死んで何処へ行くのか分からずに死を恐れてビクビクして生きていました。そして最後には、神の怒りを受けて滅んで行く哀れな者でした(エペソ2:3)。しかし、神様は愛です。独り子イエス・キリストを遣わし、人間の罪の身代りとして十字架につけ、十字架を信じる者は誰でも神の子になれる道を開いて下さいました。神様は、私たちに聖霊を遣わし、「イエス・キリストは主である」(Ⅰコリント12:3)という信仰告白を与えて下さいました。それによって、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ロマ10:10)という恵みが私たちに実現したことを感謝します。今や、私たちは神様の子供になり、天国に国籍をもち、滅びることのない命を与えられていることを感謝します。
神の子になった私たちは、神様に向かって「アバ、父よ」と祈ることができます。アバとは「お父さん、お父ちゃん」という親しい呼び方です。呼ぶというのは叫ぶという意味です。私たちは、聖霊によって、神様に「お父ちゃん」という親しさを込めて叫ぶ恵みを与えられています。
私事ですが、孫に1歳10ヶ月の丈がいます。まだ言葉はしゃべれません。最近、家族に向かって「パッパー」と呼ぶことが分かりました。孫の所を訪ね、まずグランマが入って行きますと、「パッパー」と叫んで迎えてくれます。私は自動車を止めて後から入って行くのですが、私の姿が見えるまで「パッパー」と叫び続けていて、私の顔を見ると腕を突き上げて歓迎してくれます。その叫び声を聞き、その仕草を見ると本当にいとおしい気持になり、思わず抱き上げてしまいます。
天地を創造された神様に向かって、「アバ、父よ」という親しい気持を込めて呼びかける時、神様はその呼びかけに耳を傾け、私たちをそのまま抱き上げ、祈りを聴いて下さることを信じることができ、感謝します。「アバ、アバ」と叫び求める者を慈しんで下さる神様に感謝をささげます。キリストは最も苦しいゲッセマネの祈りの時、かしこまった祈りではなく、「アバ、アバ」(マルコ14:36)と叫びながら、自分の心の苦しみを神様に訴えました。キリストの祈りは神様に届き、平安が与えられ、何の迷いもなく十字架に前進して行き、十字架の上で救いの業を成し遂げて下さいました。
天の神様に向かって、私たちも「アバ、父よ」と親しい気持を込めて祈って行きましょう。祈りは必ず届き、素晴しい祝福が与えられることを信じて祈りましょう。
2、私たちは、天の神様の祝福を受け嗣ぐという恵みを与えられている。8:17
もし、子であれば相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にして以上、キリストと共同の相続人である。(17節)
この聖句は、私たちが神様の子供になり、多くの恵みを受け継ぐ相続人になっていることを教えています。
キリストは言われました、「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12:32)。私たちは天国を受け嗣ぐ者になっているという約束の言葉です。天国は、涙がなく、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない主の恵みと喜びと命に満ちあふれた所です。命の水の川が流れ、川の両側には命の木があり、毎月ごとに命の実がみのり、その木の葉はすべての民を癒し、呪われるべきものが何ひとつない祝福の世界です。
天国の祝福は未来に属していますが、この地上においても私たちは様々な祝福を受けますが、時には苦難のうちに祝福を受けるということが言われています。
苦難のうちに祝福を受けるということですが、韓国の教会のことを思います。お隣りの韓国は人口の25%以上がクリスチャンであると言われています。私も一度韓国に行きましたが、ちょうど礼拝の頃に車で教会に行ったのですが、歩道を見ると聖書、聖歌を抱えた多勢の人々が列をなして教会へ向かっている姿があり、羨ましさを感じたことを思い出します。なぜ韓国の教会はここまで成長したのかということですが、韓国の神学大学の張総長が答えています。「神学大学では学生が2500人いる。その上の神学大学院では定員300人に対し、毎年1300人が受験する。そして牧会伝道に出て行くが、それだけクリスチャンが多くいるので働き人が必要なのです。しかし、ここまで来るのに韓国は、戦争、貧困といった苦難を受けてきた民族である。苦難を通して、韓国では権力や物質的な豊かさに頼るよりは神様に頼ることが重要だと考える人、祈りを大切にする人たちが多いのです。私自身(張総長)、11歳の時から毎朝の早天祈祷会を欠かしたことがありません。韓国の最も大きな転機は朝鮮戦争で、1952年に戦争が終わってから30年間に急速に信者が増えました。その当時、韓国は貧しい国でしたが、神に向かって叫び求める人が増えてきたのが大きな理由です。国の指導者たちの多くがイエス様を信じました。日本の教会の事ですが、なぜクリスチャンが1%であるのか、最大の疑問です。日本の人々がキリストを信じるためには、何らかの苦難が必要かも知れません。苦難があればこそ、神様を求める心が生まれ、クリスチャンが生まれる原動力になるのではないでしょうか。しかし、苦難を受けるかどうかは神様の摂理です。韓国教会は神様を求め、頼って行きます」。このインタビューを通して、なによりも大切なことは、神様に頼ること、祈りを大切にすることが大切であることを心に深く教えられました。
皆さん、祈りを新たにして主に仕えて行きましょう。神様を第一にする人、祈りを重んじ祈りに打ち込む人が求められています。何があっても、祈りをやめないで祈って下さい。祈りが盛んになることによって、教会の働きが祝されて行きます。繰り返し言います、第一に祈りましょう、第二に祈りましょう。そして第三に祈りましょう。これが祝福を受ける秘訣です。
私たちは、キリストと共同の相続人なのですが、時々神様を信じないわけではないのですが、疑ったり、待ちきれなくなって、「なぜ神様、私だけこんな目に会うのですか」、「もっと早く答えを下さい」などと神様に愚痴ったりしてしまうことがあります。信仰には辛抱、忍耐、待ち望むことが重要であることを思いますが、次の御言葉を心に留めて下さい。
もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない(ハバクク2:3後半)
家族の救いのこと、仕事のこと、健康のこと、人間関係のことなど解決してもらいたいことはたくさんあるのですが、なかなか成就しないので苛立つ時があります。私たちはキリストと共同の相続人なので、神様の答えは必ずやってきます。その時に上記の御言葉を思い出して下さい。
ピアニストとしてフジ子・へミングさんが活躍をしています。この方は若い頃から天才ピアニストと言われながら、実際にデビューしたのは1998年、60歳の時でした。それまで不遇で困難だった生活を支えたのが、この御言葉でした。フジ子さんはドイツに留学し、著名な指揮者、作曲家であったバーンスタインに認められ、華々しいデビューの機会を与えられたのですが、風邪をこじらせ、耳に障害を起こし、デビューは実現せず、そしてピアニストとしての道が断たれてしまいました。母親の死をきっかけに日本に帰り、近所の子供たちにピアノを教えて暮らしていました。1996年に聖路加病院のロビーで、ボランティアで患者さんのためにピアノを弾くようになりました。その後、NHKが「フジ子 あるピアニストの軌跡」という題で番組を制作し、放映されました。その中でリストの最高の難曲「ラ・カンパネラ(鐘)」を弾き、その演奏に多くの人々が感動を受けました。それを機会に製作された「奇蹟のラ・カンパネラ」は大ヒットしました。今では多くのリサイタルを行い、ウイーン・フィルハーモニーと共演し、カーネギーホールで演奏をしたりして活躍をしています。
彼女は言っています、「今の私は以前より、ずっとピアノがうまくなりました。そして、どうしてもっと早く、この時が来なかったのか、と思ったこともありましたが、今がその時だと思います。それまでの不遇な生活を支えたのは、この聖書の言葉でした」。
彼女の人生は耳の病気で、価値のない人生と思える不遇の時代が長く続きました。しかし、神様の言葉を信じて待っていた時に、デビューの機会が与えられ、神様によって価値ある人生を送る祝福を与えられています。
お祈りをささげます。
天地の主である神様、私たちに聖霊を与えて下さって、キリストを信じる信仰の告白を与えていただき、神の子にされていることを感謝します。「アバ、父よ」と、どんなことでも神様に祈って行く信仰を与えて下さい、決して祈りをやめることがないように聖霊によって導いて下さい。私たちは天国を嗣ぐという祝福を受けていることを感謝します。神様を信じて、第一に祈り、第二に祈り、第三に祈って行く信仰を与えて下さい。神様は必ず約束を果たして下さることを信じ、待つ信仰を与えて下さい。病気の方々を癒してくださることを信じます。戦い、試練の中にある方々に逃れの道が備えられることを信じます。ファミリーの集まりを祝福して下さい。ゴスペルの集まりを祝福して下さい。夜の礼拝を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ロマ注解―黒崎、尾山、米田、フランシスコ会、木村、佐藤、文語略註、口語略解、福田、バークレー。「キリスト新聞・2010.7.24号」