人の思いを越えて 使徒16:6-10 主の2010.8.15礼拝
Mさんは高校を卒業し、電気店に就職しました。10代の終わりにキリストを信じ、四人の仲間とクリスチャンになりました。四人のうち二人が献身を決意し、二年後に神学校に行きました。Mさんは、「自分は仕事を通して神様に仕えて行こう。日曜礼拝に励み、十分の一献金をしっかり捧げ、奉仕に励もう。牧師を助け、献身して行った仲間達をサポートしよう」と決意し、熱心に信仰生活をしていました。ところが、神様が、「Mよ、あなたはわたしに従い、献身しなさい」と迫ってきたのです。「いいえ、神様、私は電気店で働きながら、私の方法で主に仕えて行きます」と答えて、献身を頑なに拒否していました。すると朝に昼に夕べに、「あなたはわたしについて来なさい」という神様の声が心に響いてきて、遂に彼は神様に降伏して神学校へ行き、牧師として活躍をしています。Mさんは信徒として教会の柱となって行くと決意し、それが神様の御心であると思い込んでいたのですが、神様の御心は彼を伝道者として用いることにあったのです。
本日は使徒16:6-10です。使徒パウロは、「アジア(今のトルコ地方)で伝道したい。それが神の御心であるはずだ」と思っていたのですが、何回も聖霊によってアジアでの伝道の働きを阻止されてしまいます。仕方なく海辺のトロアスまで来た時に、彼は祈りの中で、マケドニア人が「マケドニア(今のギリシャ地方)に渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と懇願している幻を見ます。パウロは、「これは海を渡ってマケドニア(今のギリシャ地方)へ伝道に行け、ということである。神様はヨーロッパに行かせるために、私にアジアでの伝道を禁じられたのだ」ということが分かり、さっそくアジアからヨーロッパへ向かい、世界伝道の働きが拡大して行く大きなきっかけになりました。Mさんは自分の思いを優先して献身を拒んでいましたが、神様の御心は彼を伝道者として用いることにあったのです。パウロはアジアでの伝道は神様の望んでおられることである、と決め込んでいたのですが、神様はヨーロッパ伝道に彼を導かれました。神様は人の思いを越えて、御業を進めて行かれます。人の思いを越えて働かれる神様に従って行くことが最も大切なことです。「あなたのみむねを行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい、みたま(聖霊)をもってわたしを平らかな道に導いてください」(詩篇143:10)という御言葉を心に留め、先ず祈って、神様に従う決意をして行くことが、信仰生活の秘訣です。
内容区分
1、聖霊は、私たちを神様に従うように導かれる。16:6-8
2、聖霊は、私たちに神様の御心を示して下さる。16:9-10
資料問題
6節「アジアで御言を語る事を聖霊に禁じられたので」、聖霊がどのような方法で禁じたかは不明である。思わざる故障により、あるいは預言的直感によって聖霊の囁きを聴いたのであろう。7節「イエスの御霊」、聖霊のこと。8節「ムシヤを通過して」、そこで説教せずに素通りすること。「トロアス」、ムシヤの西方の海港でアジア・ヨーロッパの要路。9節「マケドニア」、ギリシャの北方の一地方。「わたしたちを助けて下さい」、福音に対する強い要求がある事を示す。要求をもっていない者を助ける事は難しい。10節「わたしたちは、ただちにマケドニアに渡って行くこといした」、わたしたちは、とあるのはルカが伝道団に加わり、その目撃したところを記録したことを示す。
1、聖霊は、私たちを神様に従うように導かれる。16:6-8
それから彼らは、アジアで御言を語ることを聖霊に禁じられたので・・・(6節)、ムシヤのあたりに来てから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれをゆるさなかった(9節)、・・・ムシヤを通過して、トロアスに下って行った(8節)。
キリストは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)と約束されました。私たちはキリストの言葉に励まされて、祈りが聴かれると信じて祈ります。聴かれないと思って祈りをするほど馬鹿らしいことはありません。そんな人はいないと思います。私たちは祈りが聴かれると信じるからこそ祈りを捧げるのです。
パウロは、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)というキリストの命令に従い、アジア伝道の志をもって勇躍伝道に出かけました。ところが聖霊によって、アジア(今のトルコ地方)で伝道することを禁じられるという思いがけない体験をしています。彼はアジア伝道こそが自分に課せられた使命であると確信していました。しかし、伝道の門が閉ざされてしまい、各地を巡り歩きながら、ムシヤを通過してアジアの端であるトロアスの港にたどり着いています。ムシヤを通過したとありますが、これは福音を説教することができないままで通過したということで、伝道できなかったということです。ところが、港町トロアスで、神様が意外な答えを彼に示します。それは、「マケドニア(今のギリシャ地方、ヨーロッパ)へ行け」という導きです(10―-11節)。パウロは、「私たち伝道チームをヨーロッパに遣わすというのが神様の御心である」と信じて、さっそく海を越えてヨーロッパへ渡り、世界伝道の大きな門が開かれたのです。
パウロはアジアの地を巡り歩きながら、祈りはやめずに、何か大きな隠された神様の計画があることを信じていたと思います。そして自分のアジア伝道をはるかに越えた神様の偉大な伝道計画の中に導かれて行ったのです。神様は、私たちの願い、思いではなく、神様の御心を行うように導かれることを知ることができます。
ここで祈りについて考えてみましょう。
祈りは神様とお話をすることです。
毎日どれ位の時間をとって神様にお祈りしていますか・・・。
イエス・キリストは地上にいる間、絶え間なく祈りをささげていました。
*毎日、朝早く起きて祈っていました(マルコ1:35)。
*忙しい生活の中で祈り(ルカ5:15-16)、一日の働きのあとでも祈っています(マタイ14:23)。*弟子を選ぶ時には徹夜で祈っています(ルカ6:12-13)。
*十字架を前にしてゲッセマネで祈り(ルカ22:41-44)、十字架上で人々の罪の赦しのために祈っておられます(ルカ23:34)。
*今は天において、私たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ロマ8:34)。
「絶えず祈れ」(Ⅰテサロニケ5:17)と言われていますが、これは「祈りを止めるな」ということです。祈りましょう。祈れば神様の恵みが心に注がれ、平安が与えられます。
祈らないと失敗します。
ペテロはキリストを三度裏切るという失敗をしています。キリストは十字架にかかる前に、弟子達が主を捨てて逃げる、と予告されました。ペテロは、「たとい、みんなの者が躓いても、わたしは決して躓きません」と言いました。するとキリストは、「よくよくあなたに言っておく。今夜、鶏が三度泣く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うだろう」と告げました。ペテロは、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と答えました(マタイ26:33-35)。ペテロは頼もしい答えをしましたが、キリストの言われたとおり3回主を否定し、裏切っています。それはペテロが祈らずに、自分の力に頼っていたからです。事の大小を問わず、どんなことでも祈りをすることが大切です。
サタンは祈りをしないように私たちを誘惑します。サタンはクリスチャンに祈りを止めさせ、キリストから引き離し、教会から引き離そうと必死になっています。祈りをサボルようになると、聖書を読まなくなります。聖書を読まなくなると神様の御心が分からなくなります。恐ろしいことは、祈りをサボルようになると祈れなくなるということです。祈らないことの罰は祈れなくなることです。祈らないと、詩篇143:4で「わが霊はわがうちに消えうせようとし、わが心はわがうちに荒れさびれています」とうたわれているような霊的に最低の状態になってしまいます。ですから、決して祈りをやめてはならないのです。
神様に信頼することが祈りです。
時々、祈れなくなるような気持になります。祈れないほど気持が沈む時があります。或いは自分の祈りは幼稚で立派な祈りができないという人がいます。聖書は立派な祈りをしなさいと言っていません。神様に信頼して、何でもありのままに祈ることが祈りです。次の聖句を心に留めて下さい。
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(詩篇63:8)
「いかなる時にも」とあるように、小さい子供が親に縋るように、「アバ(お父ちゃん)」と呼びかけ、時には泣きながら、時には怒りながら、あるいは訴え、何事も神様に申し上げれば酔いのです、それこそがまことの祈りなのです。神様に信頼していれば、言葉にならなくなくてもいいのです。祈りをやめないで祈りましょう。神様に信頼して祈り続けて行きましょう。
2、聖霊は、私たちに神様の御心を示して下さる。16:9-10
ここで夜、パウロはひとつの幻を見た。ひとりのマケドニア人が立って、「マケドニアに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニアに渡って行くことにした。(9―10節)。
神様は、パウロのアジア伝道を止めさせ、人の思いを越えて、もっと大きい広い世界に彼を導き、世界伝道の道を開かれたのです。パウロは自分の思いを捨てて、神様の示された、新しい伝道の世界であるヨーロッパに出かけて行きました。神様の御心は常に人間の思いを越えているので、パウロは、「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ11:33)と神様を賛美しています。
神様の御心は人間の思いをはるかに越えていて、その御手のうちに全世界を支配しておられます。私たちは神様がどのように思われているのかを常に求めて行くことが大事です。何故なら、私たちはともすれば自分中心になって、近視眼的に物事を考えがちだからです。自分の判断では正しいと思っても、神様の御心からすれば間違っている場合もあります。一つの例ですが、神学校に入った時に、ひとりの女子学生が、「私は結婚の相手を示された」と言うのです。「へー、そういうことがあるのかなー」と思いましたが、不思議なことに彼女が思っている相手に神様の導きがないのです。それを見ながら、「そうか、もし正しい導きであるなら、神様は両方の人に同時に示すはずだ」ということに気づきました。思い込んでいた女性は、一年の終わりに退学して母教会に帰り、信徒として主に仕えて行くことになりました。そのことを教訓にして、私は大事なことを決めたり、決断する時には、信頼できる信仰の友に祈ってもらい、その結果がアーメンである時に主の導きであるということをしばしば体験して来ました。
パウロはアジア伝道の道を閉ざされましたが、ヨーロッパ伝道の道へ導かれ、彼の語学の力、聖書の知識、当時の文化の理解者としての見識などを通して、全世界の人々を導く伝道者として用いられました。そして新約聖書中には、聖霊の導きによって記された彼の手紙が13通収録されています。どの書簡もキリストの恵みを語り、クリスチャンの生き方についての教えがあり、読む者に信仰と希望と愛を与える豊かな内容に満ちています。
横浜に捜真学院があります。創立120年を越えているバプテスト派の学校で、女子教育で知られています。その初代校長はクララ・A・カンバースという女性宣教師です。この方はアメリカから日本に派遣されることに決まった時、責任の重さを感じて、このままアメリカに自分を引き止めておくような出来事が起って出発中止になりますようにと、何度も何度も祈りました。しかし、自分の願いとは反対に全ての準備が順調に進んで行きました。1890年1月、彼女を乗せた船はサンフランシスコの港を出航しました(当時は船旅の時代でした)。カンバースは航海中、幾たびも「どうか船が日本に着きませんように」と祈りました。しかし船は何の事故もなく、三週間の船旅の後、とうとう横浜に入港してしまったのです。日本の土を踏んだカンバースは、「自分の祈りが聴かれなかったことは神様の御心である」と信じ、その生涯を日本の女子教育に献げたのです。カンバースは、自分にはできないと思ったのですが、神様は彼女を豊かに用いて下さって、素晴しい働きをすることができたのです。彼女は自分の祈りが聴かれなかったことによって、謙遜を学び、神様に信頼する心を強められたのです。
私たちも、祈りが自分の思うように聴かれなかった時、神様への信頼を弱めることがないようにすることが大事です。むしろ、神様の御心に従わないような祈りではなかったのかと反省することが必要です。大事なことは次の聖句です。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15:7)。
キリストに縋って祈りましょう。神様は人の思いを越えたすばらしい計画をもっておられ、私たちを導いて下さいます。
お祈りをささげます。
天地の主である神様、私たちに救いを与えて下さったキリストの十字架と復活の恵みをほめ讃えます。私たちは祈りが聴かれることを信じています。しかし、私たちの願い、方法、時期ではなく、すべては神様の御心の中に、最善をもって神様が答えを表してくださることを信じます。今朝、ひとりひとりの心の願い、求め、訴えに神様から最善の答えが与えられることを信じます。私たちは常に神様に信頼して行きますので、私たちの信仰を強め、導いてください。人間の力ではなく、聖霊によって祈りを与えられ、信じて祈ることができるように助けてください。私たちの家族がキリストを信じるように導いて下さい。神様、せっかく救いをいただきながら、教会を離れている方々を助けてください。サタンの力から解放され、再び喜びの信仰生活をすることができるように導いてください。私たちの祈りを聴いて下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ロマ注解書―黒崎、フランシスコ会、内村、佐藤、尾山、LABN、竹森、山谷、木村、福田、バーネット。 「信仰生活の手ほどき・尾山・キリスト新聞社」、「若き魂への福音・曾根・日本基督教団出版局」