聖霊によってキリストを喜ぶ エペソ4:29-32           主の2010.8.22礼拝

私事ですが、神学校の一年から二年に進級する時に、聖書の試験があり、献身を確かめる面接がありました。成績はOKで、面接も献身の意志は確かであるということで無事終わりました。最後に校長面接があり、弓山師の所に行きました。「君が一生懸命に神学生として励んでいるのは大変うれしい。ただ一つ注文がある、女子神学生に優しくしてあげること。女子だけではなく、将来牧師になるのだから、全ての人に対して誠実に接しなさい」という教えを受けました。当時は3学年40数名の神学生が寮生活をしていて、その半分は女子神学生です。私は女子神学生に不親切にしていた訳ではないのですが、面接少し前に石油ストーブの取り扱いで上級生の女子が「しっかり管理しなければだめよ」と文句をつけたので、私が「ちゃんと管理をしている。上級生だからと言って女のくせに威張るな」と言ったらしいのです。狭い学校の中ですから、それが校長の耳に入ったので、心配した校長が私を正してくれたのです。先輩の男子学生からも「女子を尊重し、やさしくすることが大事だ」と言われました。それ以来、女子に限らず、誰に対しても丁寧に接しなければならないという事を心がけるようになりました。それから17年経ったある日、弓山校長が「君は信徒を愛し、育てているな。これからも牧会伝道をしっかりやりなさい。それに、君には実に良い奥さんがついている」とニコニコして励ましてくれたことがありました。先生が、私の少しばかりの変化を認め、励まし下さったことを思い起し、感謝な気持になったことを思い出します。
本日はエペソ4:29-32です。「人の徳を高めるのに役立つような言葉を語る」(29節)、「互いにゆるし合いなさい」(32節)との勧めがあり、「神の聖霊を悲しませてはいけない」(30節)と命じられています。私は、神学校時代に一つの出来事を契機にして、神の聖霊を悲しませるのではなく、聖霊によってキリストの御心にかなうように語り、行動することを教えられたことを感謝します。「神の聖霊を悲しませていけない。あなたがたは、贖(あがな)いの日のために聖霊の証印を受けたのである」(30節)との御言葉を心に留め、主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。

内容区分
1、私たちは、聖霊の証印を受けているクリスチャンである。4:29-30
2、私たちは、聖霊に導かれ、神の子として生きる者である。4:31-32
資料問題
29節「悪い言葉」、悪いとは古くなり腐敗している事。30節「神の聖霊を悲しませてはいけない」、19節と関連がある。すなわち悪い言葉を出すことは我らの中に宿りたもう神の聖霊を悲しませることである。聖霊は教会をも宮として宿り、我らの中に宿りたもう聖霊と共に、悪い言葉の持つ悪い影響について深く悲しまれる。「あがないの日」、キリスト再臨の日。「聖霊の証印を受けたのである」、コリント第二1:22、エペソ1:13-14を見よ。聖霊は神と共にあるべき完全な生活の「手付け」、「保証」である。またキリストの体に結ばれ、今クリスチャンが互いに保持している一致の源泉である(エペソ4:4、コリント第一12:13、コリント第二13:13)。


1、私たちは、聖霊の証印を受けているクリスチャンである。4:29-30

神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。(30節)


ギリシャの哲学者プロタゴラス(BC500-430頃)は、「人間は万物の尺度である」と言っています。私たちのまわりの事物は絶えず移り変わっているので、それに接するには常に人間を尺度にして見て行くべきである、と説いたのです。これを極端に考えると、人は自分を標準にして物事を判断しなさい、ということになります。プロタゴラスが説くまでもなく、私たちは自分の立場を中心にして物事を考えがちです。例えば他人を眺めるとき、その人の幸福と自分の現在の状態とを比べて、心の中に不満を抱くものです。世の中はなぜこんなに不公平にできているのだろう、と考えたことのない人はいないでしょう。自分を尺度にすると、何事も自分本位に考えてしまい、それが29節にあるように、人のことを批判する悪い言葉となって出て来てしまうということがあります。私たちが人を批判し、悪口を言い、悪意をもち、相手を赦さないとすれば、神様は悲しまれます。「神の聖霊を悲しませてはいけない」と言われていますが、聖霊は神様の深い思いを知っておられます(コリント第一2:10参照)。神様の深い思いは、キリストを信じる者が互いに愛し合って生きることです。もし私たちが神様の思いに反する言動をすれば、神様は悲しまれ、神様の深い思いを知っている聖霊も悲しみます。それが「神の聖霊を悲しませてはいけない」ということです。

*神の聖霊を悲しませないために次のことを心に留めることが大切です。



神様を中心にして物事を考えることが大切です。



プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いましたが、人間は公平に、平等に物事を考えないで、自分中心に物事を考えやすいものです。ある人が言っていました、「高速道路で渋滞になることがある。反対方向はスイスイと動いている。あちら側はスイスイ動いているのに、こちら側は渋滞に巻き込まれ、運が悪いと思って、ついイライラしてしまう」と。人間は何でも自分中心に考え、自分に都合の良い事ばかりを願うので、ちょっとでも都合が悪いと不満な気持になります。それは人間の傲慢です。私たちクリスチャンは、この世界を創造し、支配しておられる神様を信じています。神様を現すために来られたイエス・キリストは次のように言われました。



天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5:45)。



この御言葉は、神様は世界を創造し、愛をもって世界を支配し、全ての人に恵みが公平に及ぶようにされていることを教えています。

母親が袋の中からソラマメの炒ったのを一握りずつ姉と弟に分けてくれました。二人は自分のほうが少ないと文句を言います。母親が数をかぞえてごらんというので、弟が数を調べてみると両方とも28粒でした。母親の愛は二人に平等に注がれていたのです(壷井栄「おかあさんのてのひら」)。姉と弟は数えるまでは、何だか自分のほうが少ないような気がしていました。もし自分のほうが多いと思っていたら、数が違っていても文句は言わないはずですが、何故か人間は相手のほうが多いと思うのです。それは、人間の心の中にある欲望が、より多く、より多くと求めるからです。それほど人間は自己中心になっているのです。
神様は世界60億の全ての人に対し、太陽をのぼらせ、雨を降らして、隔てのない愛をもって接しておられます。神様は大きな愛をもっておられ、私たちはその愛を受けています。神様の愛を中心にして考えれば、私たちの自己中心の考え方は改まって行くはずです。この隔てのない神様の愛を特別に受けた者がクリスチャンです。

神様の独り子であるキリストを信じた者は聖霊の証印を受けています。

あがないの日とは、世の終わりの日、キリストの再臨の時を意味しています。キリスト再臨の日、永遠の天国に行くか、永遠の地獄に行くか、そのどちらかが全ての人にハッキリと示されます。私たちクリスチャンの心には、聖霊による証印が押されていますので、間違いなく天国に行きます。聖霊の証印はいつ押されたのでしょうか。私たちが、心にキリストを信じ、受け入れた時に、神の子となる力(特権)を与えられ(ヨハネ1:12)、天国に国籍を持つ者になりました(ピリピ3:20)。すなわち、キリストを信じた結果、聖霊の証印を押され、神様は私たちが神の国を嗣ぐことの保証として聖霊を与えて下さったのです(エペソ1:13-14)。

証印という言葉は手付金を意味しています。契約をする時に「確かに契約します、今その保証として代金の一部を手付金として支払い、本契約の日に残りを全部払います」というのが手付金です。私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を受けて救われ、神の子になっています。キリストが再臨される世の終わりの日に、涙は拭われ、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない、永遠の喜びの国に住まうようになります。その保証として、「確かにあなたは天国に行きます」という手付金として、神様によって聖霊が私たちに与えられています
聖霊によって証印を受けている者は、神様に主イエス・キリストの御名によって祈る祈りを与えられています。毎週日曜日には、主イエス・キリストの復活を記念し、共に集まって礼拝をささげています。心には救いの喜びがあり、讃美があふれてきます。キリストの教会の一員として、共に愛し合い、助け合って行く恵みが与えられています。
聖霊は心に希望を与えてくれます。教会も集まる人が多くなると、突然に人の手にはあまるような大きな事柄(事件)が起きて、牧師として夜も昼もなくそれに関わるということがしばしばあります。その時に、聖霊は重荷を負うキリストがいて下さること(マタイ11:28)、希望は失望に終ることがないこと(ロマ5:5前半)、神様は災いではなく、私たちに平安と将来、希望を与えて下さる(エレミヤ29:11)ことを教えてくれます。その希望によって牧会の働きを継続することができます。
ここに集うひとりひとりが、キリストを心に信じ、受け入れ、聖霊の証印を押されているクリスチャンであることを感謝して行きましょう。

2、私たちは、聖霊に導かれ、神の子として生きる者である。4:31-32

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互いに情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。(31-32節)



神の聖霊を悲しませないために、25⊸29節に具体的な事柄が述べられています。本日の箇所の31節では無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、いっさいの悪意を捨て去りなさい、と強い言葉で命じられています。32節ではキリストがあなたがたを赦して下さったように、互いに赦し合いなさいとのめ命令があります。
*キリストに赦された者の特徴は何でしょうか。

キリストに赦された者は罪から離れ、相手を受け入れ、赦して行く者に変えられて行きます。

①キリストの言葉を忘れないで下さい。キリストは、姦淫の現場で捕らわれた女の人に、「今後はもう罪を犯さないように」と命じています(ヨハネ8:11後半)。38年間もベテスダの池のほとりで、病気で苦しんでいた人を癒した後に、キリストは「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかかも知れないから」(ヨハネ5:14)と命じています。キリストを信じた者は罪から離れ、罪を犯さないように祈って生活することが大事です。
②もうひとつのキリストの言葉を忘れないで下さい。


わたしは新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(ヨハネ13:34-35)

教会はキリストによって罪を赦された者の集まりです。「キリストにあって赦された者である」ということを常に意識し、感謝して、互いに愛し合って行く時に、私たちはキリストの弟子であり、クリスチャンとして認められるということです。

愛し合って行く具体的な実践として、互いに祈り合って下さい。互いに声をかけて行きましょう。この誰でもできることから出発して行く時に、ひとりひとりの名前と顔を覚えることができます。それによってキリストにある兄弟姉妹としての自覚が生まれます。そして自分もみんなに祈られているという恵みを実感して行くようになります。


キリストを信じる者は、喜びの日々を送るように導かれて行きます。

神の聖霊を悲しませるのではなく、神の聖霊によって喜びを与えられて生きて行くのがクリスチャンです。
ある生命保険会社が「笑いについてのアンケート」をとりました。「あなたは一日どれ位の時間を

笑っていますか(笑顔で過ごしますか。喜んでいますか)」という問に対して、女性が161分、男性が75分でした。皆さんはどれ位の時間を笑顔で過ごしていますか(喜んでいますか)。喜べないような、笑えないような深刻な場合もありますが、それでも心の奥底では神様を信じて喜んで行けるのがクリスチャンです。パウロはロマの獄中からピリピの教会に手紙を送っていますが、その内容は「喜ぼう!」という明るい希望に満ちたものです。24時間監視され、見張りの兵隊の手と自分の手がロープで結ばれ、トイレへ行くのにも兵隊がついて来て見張っている不自由な状況でした。明日にでも引き出されて、首を切られて殉教の死を遂げるかも知れない日々の中にあって、彼の心はキリストの命にあふれていたのです。



「神の聖霊を悲しませてはいけない」と言われています。キリストは聖霊によって喜びにあふれて神様に祈りました(ルカ10:21)。キリストの生涯は、常に敵がつきまとい、寝るヒマもないくらいに大勢の人々が助けを求めにやって来ています。時には安心して身を休める場所もなくホームレスのような暮らしをしていました。人の罪を背負って、罪のない身を裸で十字架にかけられるという苦しみの中にあって、キリストは神様に信頼し、喜びを失うことはありませんでした。このキリストを神様は甦らせ、栄光をお与えになったのです。

今朝、ご一緒に祈りましょう。キリストは祈りに答えて下さいます。祈れないような重荷を抱えている方々を聖霊が助けて下さいます。言葉にならなくても心を神様に向けて「イエス様」と呼べば良いのです。あなたの祈りは届き、心に喜びが与えられます。祈れる方々は、祈りを出し惜しみしないで、教会のために、家族のために、友のために祈って下さい。また自分のために祈ってもらいたいと願う方々は恵みの座に出て牧師の按手を受けて祈って下さい。



お祈りをささげます。



天地を創造された神様、測り知れない恵みをもって、私たちにキリストによる救いを与えていただき、感謝します。神様の深い思いを教えて下さる聖霊の導きによって信仰生活を続けさせて下さい。神様の聖霊を悲しませる愚かな者になることなく、キリストの聖霊の証印を受けた者にふさわしい信仰生活をおくらせて下さい。ここに集っているすべての方々が、聖霊によってキリストの救いに感謝し、キリストを讃美し、キリストを喜ぶ信仰生活を歩んで行くように、祈りによって日々を歩んで行くように祝福して下さい。主よ、病気の方々にいやしの力をもって臨んで下さい。救いの主よ、家族を救いに導いて下さい。無力な私たちですが、何とかして家族を救いに導くために私たちを用いて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって、お祈りをいたします、アーメン。





参考文献:エペソ注解―黒崎、榊原、フランシスコ会、米田、文語略註、LABN、口語略解、森山。「若き魂への福音・曾根・グリーンブックス」