主イエスを仰ぎ見る 民数記21:4-9 主の2010.9.5礼拝
あまりにも多くの祈りの要請があり、私たちは主に祈るために、「祈りの家・日光オリーブの里」というクリスチャン施設に行って、祈りの時をもちました。「日光・オリーブの里」はクリスチャン実業家・ムラサキスポーツ会長金山さんが、日本中のクリスチャンが安心して祈ることができる場所として、またキャンプ、修養会のための場所として、10億というお金を投資して建て上げたクリスチャンのための施設です。金山さんは上野公園ホームレス伝道に重荷をもち、比留間師夫妻を祈って、支えています。私たちもお交わりを持っています。日光の現地までカーナビのない車で出かけました。宇都宮から日光道路に入り、今市インターチェンジを降りて鬼怒川方面に進んで行きました。「曲がる所はこの辺かな」と思いながら、ふと上を見上げると、「ようこそ・日光オリーブの里はこちら」という巨大な看板と矢印が目に入り、迷わずに着くことができました。適切な所に適切な案内があることは素晴しい助けになることを感謝し、その施設で祈りの時を過ごすことができました。
本日は民数記21:4-9です。荒野で神様に呟いた民がヘビにかまれ、死んでいます。その中でモーセの造った「青銅のヘビを仰いで見て生きた」(9節後半)人々が大勢いたことが記されています。不信仰を悔改め、神様の言葉を信じ、青銅のヘビを「仰いで見た」者だけが救われたのです。知らない場所に行くのに、誰にでも見えるように案内板が設置され、それを仰ぎ見て、その指示通りに運転して目指す場所に到着できました。本日の箇所では、神様の言葉を信じ、主を仰ぎ見た者たちだけが救われています。私たちは新約の時代に生きていますが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、罪の赦しと永遠の命を受け、神の子にされていることを感謝します。
内容区分
1、クリスチャンにとって、神につぶやくことは罪となる。21:4-7
2、クリスチャンは、主を仰ぎ見て救われた者である。21:8-9
資料問題
5節「粗悪な食物」、マナのこと(出エジプト。6節「火のヘビ」、火は原語サラフ。有毒の蛇。火は蛇にかまれて生じる、燃えるような痛みを表している。9節「青銅のヘビを仰いで生きた」、蛇は古代でも現代でも癒やしや医学の象徴となっている。古代では癒やしの神の象徴であった。ここでは、かまれた人が神様の命令によって造られた青銅の蛇を仰ぎ見るとき、主ご自身が癒やして下さるのである。主イエス・キリストはモーセが竿の上に蛇を掛けたことを、ご自分が十字架に上げられることと関連させている。これは自分の救主として信仰をもってキリストを仰ぎ見る者は、すべて死をもたらす罪から癒やされることを示している(ヨハネ3:14-15、第二コリント5:21))。大事なことは一人一人が神様の言葉を信じて仰ぎ見ることであり、個人的にキリストを信じるという新約の薫りが高い。青銅は原語ネホシェテ、蛇は原語ナハシュは類似した語であるのでネホシタンと呼ばれる神殿に立つ列王下18:4の蛇と、ここでモーセが造った蛇は同一のものとされている。この青銅の蛇はヒゼキヤ王時代、偶像礼拝の対象と思われたため、ヒゼキヤ王によって破壊された。
1、クリスチャンにとって、神につぶやくことは罪となる。21:4-7
そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くの者が死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「」わたしたちは主に向かい、またあなたにむかい、罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った(6-7節)。
きょうの聖書箇所今から3000年以上の昔にあった出来事です。イスラエル民族は400年に渡ってエジプトの地で奴隷生活をしていましたが、指導者モーセに率いられて、エジプト脱出に成功します。彼らは意気揚々として先祖達が住んでいた土地を目指して荒野を旅していました。ところが「民はその道に堪えがたくなった」(4節)と言われています。神様は荒野を旅する彼らに、マナという食物を毎日天から降らせて下さいましたが、民は「わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」と神様と指導者モモーセに呟いています。神様は呟く民に火のヘビを送り、かまれた人々が死んでいます。そこで民は神様とモーセに詫び、ヘビの難を免れるように祈ってほしい、と頼んだ時、神様はモーセに青銅のヘビを造らせ、それを仰ぎ見た者が救われたのです。
4―7節の箇所から、まず知ることは、神様に呟く者は恵みを失うということです。
キリストを信じ、生まれ変わった者は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケ第一5:16-18)という生き方をしなさいと命じられています。
皆さんの先週の日々はいかがでしたか・・・喜びを数えてみて下さい。祈りをやめないで日々に祈ったと思います。感謝はどうだったでしょうか。私事ですが、先週も暑い毎日で、体は疲れましたが、霊が恵まれ、聖書を読むのが喜びでした。祈りを継続させて下さった聖霊の助けに感謝します。感謝ということですが、教職修養会に出席して聖書の学びが出来たこと、牧師達との深い交わりをとおして伝道者として生きることの素晴しさを確認することが出来たことを感謝しています。
イスラエルの民は奴隷の惨めな境遇から解放されたこと、やがて先祖達の住んでいた国に帰れること、食料がない荒野で、神様が毎朝天から降らせてくださるマナで養われていることなどの恵みを数えることができたはずです。しかし人々は恵みを数えないで、神様とモーセに向かって文句を言い、呟いています。呟きは神様を疑う心から生まれてきます。
呟きということですが、私たちはどうでしょか・・・神様を信じていますが、例えば「なぜ私の祈りは答えられないのか」ということで呟くことがあります。呟く前に祈りが聴かれたことを数えるならば、たくさんの祈りが聴かれていることに気づくはずですが、そのことを忘れて神様に呟いてしまうのです。使徒パウロは、「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められることのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである」(ピリピ2:14―15前半)と訴えています。呟きではなく感謝を、呟きのかわりに讃美を捧げ、神様に信頼して行くように祈って行きましょう。
4―7節の箇所から、次に知ることは、民が悔改め、モーセが祈っていることです。
神様は呟いた民にヘビを送っています。かまれると火に燃やされているような激しい痛みがあるので火のヘビと言われていますが、かまれた多くの人が死んでいます。呟いたことの罪を知った民はモーセの所に行き、罪を犯したことを認め、罪が赦されるように祈って下さい、と言っています(6―7節)。箴言の中に、「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみを受ける」(28:13)と言われています。罪に気づいたら、すぐに神様に悔改めて祈ることが大切です。民の求めに応じてモーセは祈っています。ここにモーセの偉大さがあります。彼はイスラエルの民を出エジプトさせ、荒野の道を先頭に立って約束の地に向かって進んでいます。ところが、民は水がない、肉が食べたいなどとモーセに文句を言っています。約束の土地を目の前にして、不信仰な人々によって40年間荒野をさまようになり、コラの子による反乱があり、モーセの日々は苦難の連続でした。ここでは、民が神様の下さるマナがいやになったという文句を言っています。そんな我がまま勝手な人々のためにモーセは祈っています。彼の祈りが神様に届いて、素晴しい恵みが与えられますので8―9節に進んで行きましょう。
2、クリスチャンは、主を仰ぎ見て救われた者である。21:8-9
モーセは青銅で一つのヘビを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてヘビにかまれた者はその青銅のヘビを仰いで見て生きた。(9節)
青銅のヘビを仰ぐということは、十戒の第一戒「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)に反するような偶像礼拝的要素が強いように思われます。しかし、この箇所で重要なことは、火のヘビにかまれた者が青銅のヘビを「仰いで見て生きた」というところです。なぜなら「仰いで見る」ということがイエス・キリストの十字架を理解し、信じるために極めて大切だからです。キリストご自身が「モーセが荒野でヘビを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)と言われ、十字架にかかったキリストを仰ぎ見ることが救いを与えることを述べています。
「仰いで見る」ことが信仰の第一歩である。
皆さんはどのようにしてクリスチャンになりましたか・・・・特別な修行をしたからですか。特別に聖書を隅から隅まで学んだからですか。クリスチャンの家に生まれたからですか。たくさん献金をしたからですか。学歴、家柄がよかったからですか・・・・それらのものはクリスチャンになるために何の役にも立ちませんでした。私たちが救われたのはキリストの十字架を信じたからです。キリストの十字架を「仰いで見る」ことが信仰の第一歩でした。私のことを振り返ってみると、自分の罪を知ったこと、罪を赦すのはキリストの十字架を信じることであると教えられ、それだったら信じられるという決心をして洗礼を受けたのがクリスチャン人生の始まりでした。そして、キリストの十字架を「仰いで見る」ことこそが信仰の中心であることを体験し続けてきました。
パウロの次の言葉は大切です。
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに(ガラテヤ3:1)
パウロは、今、この場でキリストが十字架にかけられているかのように、キリストの十字架の姿を私たちに示しています。キリストは十字架の前に鞭で背中を打たれ、皮がさけて血だるまになり、重い十字架を自ら背負ってゴルゴタの丘に向かって行きました。処刑前に裸にされ、両手両足に釘を打ち込まれ、イバラの冠をかぶせられて十字架に上り、朝の9時から昼の3時まで苦しみを受け、最後に命を捧げ、私たちの罪の身代りになって下さいました。
このキリストの十字架を信じることが救いです。なぜキリストの十字架を信じると罪が赦されるのかという議論はさて置いて、私たちが、聖霊の助けによって「キリストの十字架を自分のためであった」と心に信じ、キリストの十字架を仰いで見た時に、罪が赦されて心が軽くなり、罪を憎み、義を愛し、キリストをとおして天の神様を「父なる神様」と呼ぶ祈りが与えられ、神の子にされたという喜びが心に湧きあがってきます。
ある死刑囚がいました。彼のことを知ったクリスチャンが文通を始めました。クリスチャンは何とかして神様の愛を知ってもらいたいと願い、毎週牧師が語るメッセージを筆記し、それを獄中に送るようになりました。それを知ったクリスチャン仲間がメッセージ筆記に協力してくれるようになりました。死刑囚は毎週送られてくるメッセージを楽しみにして待つようになり、遂にキリストの十字架の救いを信じて救われることができたのです。人が入れないような高い塀の奥にある独房の中に、メッセージをとおして十字架につけられたキリストが死刑囚の前に描き出され、彼は生まれ変わり、永遠の命を受けたのです。時がきて彼は死刑執行という形で天に召されて行きました。
キリストの十字架を仰ぎ見る者が救われます。
キリストの十字架を仰ぎ見る者は救われます。ちょうど荒野でヘビを仰いで見て救われたように、キリストの十字架を仰ぎ見る時に、私たちは救われるのです。救われるというのは、私が変わるということです。死んで滅ぶべき者が永遠の命を受けて天国へ行く者となります。憎しみの心が愛の心に変えられます。絶望の気持から神様は万事を益として下さるという希望を持てるようになります。キリストを信じる時に、私が変えられるのです。次の聖句をご覧下さい。
「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている」(第一ヨハネ3:14)。
「わたしのことばを聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の生命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ福音書5:24)。
このように死から生命に移るのはキリストの十字架を見上げることによってしかできません。
小林春江さんがお元気な頃、「母親に伝道して下さい。いま入院しています」との連絡がありました。小林さんと私たちで病院に行くと、お母さんはちょうど眠っていました。しばらくするとパッと目を開き、私たちに挨拶をしてくれました。お母さんは仏教の立場にいる人だと聞いていたのですが、「お母さん、お祈りしましょう」と言うと「ハイ」とのことでした。「私たちはイエス様にお祈りしますが、お祈りの前にイエス様のことを話しても良いですか」と尋ねると、「お願いします」との返事が返ってきました。病人とは思えないほどハッキリとした意識をもって、イエス・キリストの十字架、復活のことを聴いてくれました。最後に「お母さんもイエス様を信じませんか」と聞くと「ハイ」と答え、私の後について信仰決心のお祈りをしてくれました。「お母さん、イエス様は今どこにおられますか」との問に「ここです」とご自分の胸に手を置きました。長い人生の終わりの時に、しかも目覚めた僅かな時間にキリストの十字架を「仰いで見て」天国行きの切符を手にして召されて行きました。キリストを仰ぎ見る者は全て救われるのです。
キリストの十字架の周りには野次馬、付近を行き交う人々、律法学者達、祭司達、パリサイ人達、同じ時に十字架にかかった犯罪人が二人、死刑執行の実際を行ったロマの兵隊達がいました。その中にあって、キリストを仰ぎ見て、罪の赦しを願った犯罪人の一人が救われました(ルカ23:39-43)。死刑執行をしたロマの百卒長が十字架のキリストを仰ぎ見て、「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15:39)と告白しています。キリストの十字架の恵みは、敵味方、世の善人悪人、年齢、人種民族に関わりなく、心を素直にして十字架につけられたキリストを仰ぎ見れば、誰でも救われて神の子になることができるのです。
*皆さんにお勧めします。キリストの十字架を仰ぎ見て、赦しと平安とを与えて下さった主の救いに感謝を捧げましょう。十字架を仰ぎ見る時にキリストからの新しい力が与えられます。
*皆さんにお勧めします。キリストの十字架を仰ぎ見るだけで救いが与えられます。家族に、友人に、周りの方々に、祈ってキリストを伝えましょう。先週松江の生武由香師からメールがあり、「大学生に個人伝道をしました。その方は引き続いてキリストを求めて行きますと決心してくれました。神学校に入った時に伝道は難しいとか土地にあった伝道があるなどと言われました。でもそれは違う、イエス様の十字架と復活を伝える時に人が救われ、伝道した者に喜びがあるのですと」と記されていました。松江でも諏訪でも上野のホームレス伝道でもキリストのことを個人的に伝える伝道の働きをしています。お祈り下さい。さらに深谷、徳島の働きのためにもお祈り下さい。
最後に「仰いで見て生きた」という聖句に関連して下記の御言葉を心に留めて下さい。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)
お祈りします。創造主である神様、キリストの救いに感謝します。キリストを信じ続け、あらゆる呟きを捨てて主に従って参ります。キリストを仰ぎ見れば救われることを家族に、友達に、周りの方々に伝えて行く力とチャンスを与えて下さい。今月も救われる人、また洗礼決心者を与えて下さい。仰ぎ見るだけで救いを与えるために十字架に上って下さった主の御名によって祈ります、アーメン。