目をさましていなさい ペテロ第一5:6-11               主の2010.9.12礼拝

車を運転していて猛烈に眠くなる時があります。眠気を追い払うために大きな口をあけて欠伸をしたり、頬をたたいて見たり、ガムを噛んだり、歌をうたったりしますが効果がありません。事故にならない前に高速であれば最寄りのサービスエリアで休息し、一般道であれば止まれる所へ停車して5分ぐらい眠ります。眠気がとれてスッキリした気分になってから出発します。もし寝ぼけ眼で運転すれば前の車に追突する、或いは運転がフラフラして車線をはみ出して事故を起こしてしまうと思います。目をさまして運転をするということは自動車運転の基本中の基本です。
本日はペテロ第一5:6-11です。この手紙は使徒ペテロが迫害下にあるアジヤの諸教会に宛てて記した手紙です。昔は紙も印刷術もありませんから、羊の皮をなめしたものに手紙が記され、一つの教会で手紙が朗読されると次の教会に送られ、アジヤ中の教会に手紙が回覧されて行きました。この手紙で、ペテロは迫害の中にいるクリスチャン達に、キリストを信じる信仰を貫いて行くように、と励ましを与えています。きょう読んだ箇所は手紙の最後の部分ですが、8節でペテロは声を大にして、「身を慎み、目をさましていなさい」と呼びかけています。なぜ目をさましていなければならないのかと言えば、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」からであると警告しています。最新の技術によってつくられた車でも、運転する人が目をさまして正しく運転しなければ、運転ミスで事故を起こします。目をさまして、信仰生活を導いて下さるイエス・キリストをしっかり見つめていなければ、信仰の正しい道から逸れてサタンの餌食になってしまう危険性があります。「目をさましていなさい」という御言葉に注目しつつ、主のメッセージを共に聴いて、祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。

内容区分
1、クリスチャンの敵である悪魔(サタン)に騙されないようにしよう。5:6-8
2、クリスチャンは目をさまし、信仰にかたく立つ者である。5:9-11
資料問題
6節「神の力強い御手」、出エジプト13:9、申命記3:24、申命記9:26を見よ。7節「いっさい神にゆだねるがよい」、すべてのことを神にゆだねる時に一片の心労も残らない。ゆだねるがよいは投げかけよという強い言葉。
8節「身を慎み」、情欲、感情、心配、苦痛のために盲目とならず常に心の安定を保つこと。「食いつくす」、サタンは餓えたライオンのように、人を食い呑みつくし、破滅に陥らしめようとしている。9節「悪魔に向かい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」、ヤコブ4:7を見よ。悪魔を獅子のように描いている8節は詩篇22:13-14にならったものである。


1、クリスチャンの敵である悪魔(サタン)に騙されないようにしよう。5:6-8

神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。(7-8節)


人生は試みの連続です。私たちは聖書の教えに従って正しく人生を歩いて行こうとしますが、種々の障害、妨害があってなかなかそうはいかないということを感じる場合が多いと思います。山に登る時に、地図を持ち、登山ルートに従って行けば間違いなく頂上に達すると思っても、途中でいろいろな事が起ります。地図では平坦な道が実際には坂道であったり、地図にはない別れ道が出現したり、足を痛めるなどの突発的出来事があり、その度ごとに状況を正しく理解する判断力が必要です。それと同じように信仰の道を歩んで行こうとする時に、私たちの歩みを邪魔する悪魔がいて、いろいろな試みを仕掛けてきます。そこで、ペテロは聖霊の導きによって、クリスチャン達に「目をさましていなさい」(8節)、また「悪魔に向かい、信仰にかたく立って抵抗しなさい」(9節)という呼びかけをしているのです。
悪魔は実在し、クリスチャンの信仰をだめにしようと働いています。

8節後半に、「あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っている」と警告されています。私たちの力では悪魔に負けてしまいますが、悪魔に勝たれたキリストを信じることによって、悪魔に勝つことができます。イエス・キリストは、地上で伝道を始める直前に悪魔の試みを受けたことが、マタイ福音書4:1―12に「荒野の試み」として記されています。誘惑の一つに、四十日四十夜の断食をし、空腹になり弱っているキリストに、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイ4:3)と囁きかけています。石を変えてパンに変えれば、「キリストは奇蹟を行う神の子である」ということが証明され、世の多くの人々がキリストを信じるというのです。しかしキリストは石をパンに変える力があるのに、石をパンに変えていません。キリストは、「わたしが神の子であるのはわたしが神様と深く結びついているからである。奇蹟ではなく神様との密接な交わりが大切である」。そして神様との密接な交わりは「神の口から出る神の言葉を信じることによって表される」と言われています(マタイ4:4)。キリストは、何かが出来るから神の子なのではなく、神の口からでる御言葉、現代で言えば聖書66巻に示された神様の御心に従う者が神の子なのである、ということを身をもって教えて下さいました。
*キリストはご自分が神の独り子であり、救主であることを表す時には奇蹟を行っています。例えば死んで四日も経っているラザロを生き返らせ、生命の主である事を表し(ヨハネ11:1-44)。嵐を静め、創造主としての力を発揮しています(マルコ4:35-41)。
私たちはどのようにしてクリスチャンになったのでしょうか・・・・。使徒パウロはクリスチャンに対し、「あなたがたは救われた時、知恵のある者ではなかった、身分の高い者,権力のある者ではなかった。むしろ愚かで、弱い者であり、この世では無力な者であり、無きに等しい者であった」(コリント第一1:26-28参照)と言っています。無きに等しい罪人である私たちのために、キリストは罪の身代りになって十字架にかかり、罪の赦しと救いの道を開いて下さいました。私たちはキリストを信じて神の子になり、神様の教会にしっかりつながるという祝福を与えられていることを感謝します。
ところで2010年本日を含めて日曜日は16回です。一回一回の礼拝を大切にして主に従って行くことを改めて祈って下さい。水曜日の祈り会も大切です。先週水曜日は荻野伝道師夫妻がミャンマー教会について、貴重な映像をまじえて証ししてくれました。全人口のうち、活動している仏教徒90%という中にあって、クリスチャンは5%いて、彼らが活発に伝道している様子を知り、日本のクリスチャン人口1%の壁を打破して行こうという積極的な励ましを与えられました。これは出席して得られる恵みです。礼拝と共に祈り会のために、祈って、出席するように勧めます。

悪魔はクリスチャンを騙し、キリストの愛から私たちを引き離そうと必死になっています。

悪魔はまことしやかに言います。「神様は弱い、祈りを聴く力がない、だからあなたの祈りは聴かれないでいる」、また「神様はあなたのことを忘れている、信じてから、あまり変わりがないではないか」などと言って、クリスチャンが思い煩うように仕向けてきます。それに対し、ペテロは断固として言います、「神様は力強い御手をもっておられ、紅海の水を分ける力を持っておられる(6節、出エジプト14:21)。神様はいつもあなたがたを顧みておられる(7節)。キリストは『わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない』(ヨハネ14:18)と約束して下さった。すべての心配事をキリストの御名によって祈り、神様にゆだねて行けば大丈夫である」と励ましてくれています。そう言われると私たちは元気になります。でも時々心の中に「けれども」という思いが起きてきます。「たしかに沢山の祈りが神様に届いている。けれどもこの祈りは届かないような気がする」と言って思い煩います。人間は自分を中心に考えてしまい、「これは無理だろう」、「これを神様に言っては申し訳ない」などと理屈をつけて、神様の何でもお出来になる力を制限してしまい、そして自分で重荷を抱え込んでしまい、思い煩ってしまうということがあります。
私の小さな体験ですが、一人の方のために祈って、17年後に祈りが聴かれたことがあります。祈っている間に「祈りは聴かれると信じるが、けれども祈っている相手が信仰的でない環境にいることを思うと大丈夫かな」と心配な思いになったこともあります。しかし私の思い煩いを越えて神様は祈りを聴いて下さいました。ペテロは、「神はあなたがたを顧みていて下さるのであるから、自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるがよい」と強く言っています。
皆様に伝えます。人間は自分を神様にゆだねるか悪魔にゆだねるかどちらかであって、それ以外には道はありません。悪魔は巧みに私たちの心に不信仰な思いを吹き込んできます。そこで、「身を慎み、目をさましていなさい」との教えが重要なのです。身を慎むとは自分の感情、心配、肉の欲、苦痛などによってキリストを見失うことなく、ひたすらキリストに縋るという信仰をキチンと保つことです。しっかり心の目を見開いて、悪魔の試みを払いのけて行くように祈って行きましょう。

2、クリスチャンは目をさまし、信仰にかたく立つ者である。5:9-11
この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい・・・あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。(9節前半、10節)


この箇所では「悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」という勧めがあります。当時クリスチャンに対する迫害が起り、多くのクリスチャン達が投獄され、仕事を失い、地域社会から追放されるなどの苦しみを受けていました。この手紙には、クリスチャンは迫害のために「今しばらくの間は、様々な試練で悩む」(1:6)と言われています。「でも気落ちしてはならない、あなたがたはキリストの尊い血によって救われている。あなたがたの心は救いの喜びで満ちている。クリスチャンはこの世を通過して天国に行く者であるから、この世では旅人であり、寄留者である。万物の終わりが近づいている。しっかりキリストを信じる信仰をもって、悪魔に負けることのない恵みの日々を送り、天国を目指して行こう」という勧めがあります。



クリスチャンは神様の守りを信じて生きる者である。



少し話が変わりますが、多くの人々が、「運命」とか「宿命」ということに関心をもっています。自分の運命を知るために、まじない、占い、手相、人相、姓名判断、星占い、御神籤などがあります。最近は携帯で占いがなされ、新聞には今日の運勢があり、暦には仏滅などの表がついています。占いでは「この苦しみは親から受け継いだものである」、「30歳ごろ結婚します」などと人の運命について、さも本当であるかのように予告します。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われているように、その実体はいい加減なものです。ところで占いは罪です。黙示録22章15節に、天国の門から閉め出される者の中に「まじないをするもの」とハッキリと言われています。旧約聖書・申命記18:9-14に、人間を火に焼いて捧げる人身御供、占い、易者、魔法使い、死人の霊を呼び寄せることなどが固く禁じられています。占いなどの類から遠ざかり、絶対に近寄らないで下さい。私たちが近づくところは、ルツ子&ジェームスが讃美したキリストの十字架のかげです。十字架のけげとは主の御許です。十字架の御許に安らぎがあり、命の源があります。キリスト教が多いと言われるヨーロッパでも占い、魔術などがあります。占いに見てもらうと当たることがあるそうですが、占ってもらった人は後から精神に変調を来たすということが報告されています。また占いの家にクリスチャンが行き、待合室でキリストの御名によって祈っていると、占い師が出てきて、「きょうは何か邪魔する大きな力があるので休みにします」と言って営業を止めたということも報告されています。

聖書には運命という考えはありません。運命よりもっと深い「摂理」という信仰を教えています。世界創造の初めから世の終わりまでいっさいのものは神様の意志によって存在し、支えられているという信仰です。摂理という言葉は英語でプロヴィデンス(Providence)と言い、「あらかじめ見る」という意味をもっています。

人生には沢山の問題があり、中には「ああ、これが私の運命だ」と言ってあきらめてしまう人がいます。ある時、キリストが道を歩いておられると生まれつきの盲人が物乞いをしていました。弟子達は因果応報の立場から、「この人はいったい誰の罪で盲人として生まれてきたのですか。親が悪いのですか、それとも本人の罪のためですか」とキリストに尋ねました。キリストは「神の御業が、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)と答えています。「生まれつき」ということは、すでに決定されていることであって、もうそれは変えることのできない運命であると考えられたのです。しかし、キリストはこの悲しむべき現実を見ながら、しかし、しかしそこに運命を越えさせる、測り知れない大きな神様の愛の力が働いて、この盲人が神の摂理の中に自立して生きるという道をあらかじめ見ておられたので、「神の御業が彼の上に現れるためである」と言われたのです。

9節を見て下さい。「全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである」と言われています。しかし10節を見ると、「あふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたを癒やし、強め、力づけ、不動の者として下さるであろう」という希望が記されています。苦しみに目を向けてばかりいて、神様の愛を見失うことがないように、「目をさまして」主に縋って行くように祈って下さい。

ある女性の証しです。ご主人は赤ん坊の頃に顔に火傷をして、自分の運命の不幸を嘆いていましたが、キリストに出会い、生きて行く希望を与えられ、結婚しました。3年前に突然に長男を失いました。息子さんは心の苦悩を抱えていたのですが、ご主人が入院した時に、仕事を見つけ入院費を払ってくれる心の優しい息子でした。神様に召されるときに、詩篇23篇が開かれてありました。彼女は息子のために充分なことが出来なかったことを思い、自分を責めていました。息子の召天後、程なくして主人が天に召されました。すると神様の命が自分を覆っているように思えて、気がついたら心の中にあった苦しい思いが消えていることに気づきました。それからは天国を見上げて、主人を思い、息子を思い、明るく生きることができるようになったのです。



今日から、新しい決断をもってキリストに縋って行きましょう。



曽野綾子さんというカトリックの作家が、読売新聞で「キリスト教は私の心棒」と言っています。彼女は「報われなくても、そうでなくても、やるべきことをやる、それが本当の信仰である」と言っています。それを読みながら、「今の状況は良くないかも知れない、しかし何があってもキリストを信じる信仰によって生きる。独り子キリストの十字架の犠牲によって、私を救いの中に入れて下さった神様の愛を信じて行こう。キリストをくださるほどに、神様は私たちを愛し、守っていて下さる。目をさましてキリストに縋って行こう」と思った時に、一つの御言葉が心に浮かんできました(下記参照)。皆さんも、何があってもキリストを信じ続けるように、新しい決断を捧げて下さい。



ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(ロマ8:32)、だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んでよみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである(同8:34)。



祈りを捧げます   創造主である神様、私たちはキリストの十字架と復活により、救いをいただいていますが悪魔が私たちを狙っています。身を慎み、目をさましてキリストに縋って行きますので、思い煩いから私たちを解放し、悪魔につけ込まれないように助けて下さい。病んでいる方々、戦いの中にある方々に、この辛い時はしばらくで終るという信仰により、平安と希望を与えて下さい。祈りを聴いて下さる主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ペテロ注解―黒崎、口語略解、バークレー、フランシスコ会、LAB、文語略註、米田。