人生のしおり エレミヤ6:16                 主の2010.9.19礼拝

皆さんは本を読む時にしおりを用いると思います。本を全部読み終わらないときに、どこまで読んだかのという目印のために、しおりを挟んでおきます。しおりというのは、漢字で古くは「枝折」と書いていました。山に入った時に、道に迷わないように、別れ道のところに来ると木の枝を折り曲げて目印にしたところから、枝折という言葉ができたと言われます。現代では道路標識がありますが、奥深い森の中までは設置できませんから、枝折は迷わないために必要なものです。

人生の旅路において、迷わないで、正しい道を歩むために、私たちには人生のしおりが必要です。なぜなら人生には無数の別れ道があるからです。油断していると間違った方向に進んで迷ってしまうかも知れません。私たちが人生の迷子にならないために、神の言葉である聖書というしおりに従って行く時に、常に正しい方向に導かれて祝福の人生を送ることができます。

本日はエレミヤ6:16です。預言者エレミヤは、神様から離れて自分勝手な道を歩む人々に、「わかれ道に立ってよく考えなさい。良い道がどれであるかを知って安息を得なさい」と呼びかけています。しかし、人々はエレミヤの呼びかけに逆らって、「われわれはその道に歩まない」と言って、神様の助けを拒んでいます。私たちは、預言者エレミヤを通して語りかけて下さる神様に従って行きたいと心から願っています。そのために人生の正しいしおりである聖書の御言葉に耳を傾け、祈って、神様の示す道を歩み、日々安息を得て行きたいと願っています。

今朝も神様のメッセージを聴き、聖霊を通して注がれる神様の愛に心を満たされ、新しい一週間の旅路へ出発してまいりましょう。

内容区分

1、クリスチャンは、いにしえの道である旧約を尋ねて、神様の恵みを知る者である。

2、クリスチャンは、新しい道である新約を尋ねて、魂に安息を得ている者である。

資料問題

エレミヤとは、主によって崇められる、または任ぜられる、との意である。エルサレム北方約5キロの祭司の町アナトテの一祭司の子でユダの王ヨシアの第13年(BC626年)、若年で預言者としての召命を受け(1:1,2,7.25:3)、エルサレム滅亡(BC586年)まで40年間多くの迫害のうちに、エルサレム、ユダの町々で預言し続けた。バビロンによるエルサレム滅亡後、エジプトに逃れ、人々を教えたが、偶像礼拝者達によって、石で打ち殺された。16節「いにしえの道(昔からの道―新共同訳)」、人々はたえず神の警告を受けながらも、神のいにしえの道を捨て、新しい自ら作った道を選んだ。「良い道がどれかを尋ねて」、ビルダデも古き時代の道に言及している(ヨブ8:8)。もちろん古きもの必ずしも良いとは限らない(ヨブ22:15)。ゆえにエレミヤは「良い道がどれかを尋ねよ」と勧告するのである。「あなたがたの魂のために、安息を得よ」、マタイ11:29を見よ。「われわれはその道に歩まない」、人々は故意に神の道を拒んでいる。


1、クリスチャンは、いにしえの道である旧約を尋ねて、神様の恵みを知る者である。

主はこう言われる、「あなたがたは別れ道にたってよく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ね・・・」(16節)


エレミヤは今から2600年ほどの昔、イスラエル(ユダ王国)で活躍した預言者です。キリストが来られる前の時代を旧約時代といいます。旧約時代では、神様は預言者を選んでご自分の思いを人々に伝えていました(へブル1:1)。

「旧約の預言者の名前をあげて下さい」と言われたら、どんな人物が思い浮かびますか・・・。教会の聖書日課は間もなく詩篇が終わり、箴言、伝道の書、雅歌に進み、その次に預言者イザヤが記したイザヤ書に入ります。イザヤ書といえばキリストの十字架の預言で有名です。イザヤ書の次がきょう取り上げているエレミヤ書です。エレミヤの時代は世界の超大国バビロンがイスラエルに攻め寄せてきている危機の時代でした。ところが王様は偶像を拝み、まことの神様をないがしろにしていました。エレミヤは、「もしこのまま偶像礼拝をしていれば、国は滅び、我々はバビロンの地に捕虜となって連れて行かれる」という神様のメッセージを語りますが、人々は「国が滅びることを預言するエレミヤはとんでもない奴だ」と言ってエレミヤを迫害します。彼は涙を流し、「泣き預言者」と呼ばれながら、人々に悔改めを訴え続けましたが、彼らは神様に立ち返らなかったので、遂にBC586年に国はバビロンに滅ぼされ、人々は70年間に渡ってバビロン捕囚という苦難の日々を送るようになります。

本日の箇所は、神様の定めた道を捨てている人々に、預言者エレミヤを通して、神様が彼らに、「あなたがたは、別れ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」と呼びかけておられるところです。



エレミヤの時代では、いにしえの道とはモーセを通して神様から示された正しい道のことを示しています。エレミヤから遡ること約1000年ぐらい前、現代からは3500年ぐらい前になりますが、神様は人間の守るべき十の戒めである十戒を示しています。



*モーセの十戒ですが、1ら10までの戒めをいえるでしょうか・・。(出エジプト20:3-17)

*キリストは、モーセの十戒の他に旧約聖書には沢山の教えがあるが、それらの中でも最も大事なことは二つに集約されると言いましたが、その二つとはなんでしょうか。(マタイ22:37-42)


きょうの御言葉の中に、「別れ道」という言葉があります。人生には様々な別れ道があり、どちらに進むべきかという正しい判断が必要です。そこで、いにしえから人間に示されている創造主である神様の教えを中心にして、自分の進むべき良い道を、「よく見」「尋ね」なければならないのです。何故なら何を思い、何をするのか、私たちは時々刻々自分で判断しながら答えを見つけ、行動して行かねばならないからです。例えば卒業、就職、結婚、転職など人生には大切な別れ道があります。その度ごとによく祈り、よく考え、正しい判断をもって生きて行かなければなりません。このような目に見える別れ道はこの世のことであって、先輩、先生、両親などと相談することができます。しかし、最後のところは自分で決断して、神様の喜ばれる道へと進んで行くように祈って行くことが大切です。


聖書の教えに従って祝福を得た川端京五郎さんの証しです。今から90年ぐらい前に深川の木場には材木屋さんが集まっていました。和歌山県のほうで木が切り出され、それが船で深川まで運ばれていたからです。当時は船に船頭がいて、彼らはお酒が好きで、材木をお店に届けるとお酒をご馳走になるのが楽しみでした。その中に一軒だけ、お酒を出さない材木屋がありました。ヤソの材木屋と呼ばれる川端さんのお店です。川端さんはイエス様を信じてから、お酒とタバコをやめました。「体に悪いから」と言って、材木を運んできた船頭たちにお酒を出すのをやめたのです。荷主が来て言いました、「自分が飲まないのはいいけれど、船頭たちには飲ませてくださいよ。あまり頑固なことを言うと船頭たちが嫌がりますよ」。けれども川端さんは信念を通しました。

1923年9月、関東大震災で、深川の木場は火の海になりました。東京だけでも30万軒の家が焼けてしまい、材木がたくさん必要になり、材木屋は競って材木を注文しました。いつもお酒をご馳走していた材木屋は、船頭たちが自分たちの所に真っ先に材木を届けてもらえるだろうと思っていました。ところが、船頭たちが先ず材木を届けたのは、川端さんの店でした。

「こんなにたくさん材木を届けても、もし材木の代金を払ってもらえなかったら大変だ。その点、川端さんは安心だ。川端さんは正しい神様を信じている人だから、間違いなくお金を払ってくれるだろう」。まことの神様を信じている川端さんのふだんの生活を見て、信用できる人だということを、船頭たちはちゃんと知っていました。

まことの神様の教えに従う者は決して辱しめを受けることなく、大きな祝福を得る者となります。私たちも神様に従う良い道を歩み続けて行くように、祈って決断して行きましょう。



2、クリスチャンは、新しい道である新約を尋ねて、魂に安息を得ている者である。

主はこう言われる、「あなたがたは別れ道に立って・・・・良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」。(16節後半)



「しおり」という言葉は「案内書」という意味にも使われています。観光地の案内書では「京都観光のしおり」、結婚式場では「幸せな結婚式のしおり」などというふうに使われています。人生のしおり、すなわち人生の案内書は聖書です。私たちが手にしている聖書66巻は、聖霊の働きによって、今の私たちに語りかけて下さる神様の言葉です。聖書を読むことによって、神様の語りかけを心に聴くことが出来るのです。新しい電化製品を買うと、まず「使用のしおり」を読んで、その器具を正しく使うことが必要です。自分勝手にコードを接続したり、やたらにスイッチを押したりすれば故障のもとになります。自分の考え、欲望のままに人生を歩めば、正しい人生を歩むことが出来ません。まず、静まって聖書を読むことによって、自分の人生を正しく歩むことができるのです。

聖書は古い書物ですが、ただの歴史の記録でもなければ或いは伝記でもありません。聖書は、いつまでも人間に正しい道を歩ませる最善の案内書です。教会のバンにカーナビがついていますが、少し古いので、新しい高速道路に入ると突然に案内が止まります。古いデータには新しい道のことは入力されていないので、カーナビはどこを走っているのか分からずに沈黙してしまうのです。旅行案内書も、古いものは役に立ちません。聖書は人間の社会がどんなに変化し、機械化しても変わることのない、いつも人生を導くしおりであり、案内書です。キリストは言われました、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)。



エレミヤの言葉の中に「魂の安息(安らぎー新共同訳、いこいー新改訳)」ということが言われています。皆さんは魂に安息を得ていると思います。安息とは罪の赦しを受けて、心が新しくなり、何があっても大丈夫という神様に信頼する心の状態を指しています。

八月末に河口湖畔で関東北東教区教職修養会があり、私達夫婦も出席しました。朝食の時、神学校で共に学んだ3組が一緒になり、良き交わりの時をもちました。20代前半で神学校に入り、それから40数年の時を経ているので、世間では敬老の仲間に入る者達です。その中の一人が、「私の父は98歳ですが、電車を乗り継いで礼拝に行っています。老いてますます信仰が燃えています」と語ってくれました。それを聴いて、キリストを信じて救われた人が、心に安息を与えられて恵まれている姿に、新しいチャレンジを受けてイエス様の救いは素晴しいことに感謝をしました。



魂に安息を与えるのはキリストに対する信仰です。



幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(テモテ第二3:15-16)



「キリスト・イエスに対する信仰によって」と言われています。ここに聖書を読む真の目的が記されています。自分にとって、聖書が人生のしおりとなるためには、キリストを信じることが大切なのです。教会に多くの方々がきます。それらの人々に対して、最も必要なことは、「イエス・キリストのことを知っていますか」、「イエス・キリストについてお話をしても良いですか」という質問です。これは相手の霊的温度を測る体温計です。教団の話、宗教の話、教会の行事の話ではなく、キリストについて知らなければ魂は救われないのです。キリストに話題を集中し、キリストに関心をもってもらい、なるべく早くキリストの十字架と復活を伝えることが救いにつながって行きます。先日、松江の由香先生から手紙をもらいました。ひとりの大学生が礼拝に出席し、手伝いをしてくれ、一年以上ずっと通ってきていました。その大学生に個人的にキリストを伝えたところ、驚くべきことに彼は信仰については何も知らない状態であることが分かったというのです。集会にずっと来ているので安心していたら、救いを与えるキリストについて実はわかっていなかったのです。そこで初歩からキリストのことを学び始めたということです。皆さんは個人的にキリストを心にお迎えしていると信じます。もしキリストを心に迎えていない方々は、今この瞬間に「キリストを求めます。私を救って下さい」という決断をするように勧めます。



人生には別れ道がある、そこで「よく見」「尋ね」、魂に安息を得る道を選ぶことが大切です。



私たちの信仰の中心はイエス・キリストです。人生には無数の別れ道があり、サタンは私たちをキリストのいない滅びの道に引きずり込もうと働いています。



アメリカの青年の証しです。クリーブランドとスミスは仲のよい友達でした。二人はその日酒を飲みに行く約束をしていました。ところが歩いている途中、「罪から来る報酬は死です」(ロマ6:23)と聖書の言葉がクリーブランドの頭をよぎりました。「ぼく、酒を飲みに行くのはやめる」。スミスが何度も誘いましたが、クリーブランドはキッパリと断りました。イエス・キリストを救主として信じ、まことの神様に従う決心をしたクリーブランドはクリスチャンとして信仰生活に励みました。バッファローの市長からニューヨーク市長になり、やがてアメリカ第22代の大統領になりました。一方スミスはその後も気ままに暮していましたが、罪を犯して捕らえられ、刑務所の中で友達だったステファン・G・クリーブランドが大統領になったのを知ったということです。



私の若い時代、教会に集う若者がたくさんいました。高校、大学を経て社会人になって行く中で、キリストから離れ、教会を去った人々がいます。教会を去って、この世的には安楽な生活の中に入って行った者もいます。遊びにのめりこんでいった者もいます。しかし、その先のことは分からず、現在の状況は荒れた生活をしている人もいると聞きました。若者のうち三人が伝道者になり、一人は働きを終えて天に召されて行き、私ともう一人は健在で伝道の第一線にあります。

若い皆さんに伝えます。エレミヤ6:16の前半を心に刻んで下さい。そしてキリストを信じる道をひたすらに歩んで下さい。壮年の方々も、年配者も同じです。キリストにしがみついて信仰生活を継続して下さい。私はキリストに従ったことによって、人生の最善のパートナーを与えられました。人生の晩年に両親はキリストを信じて天に召されて行きました。家内の両親は開拓伝道の時代から教会の礎になって、私たちの伝道を助けてくれました。キリストを第一にして行く時に、神様は私たちの全てを守り、導いて下さることを証言できます。私の心からの願いは、ここにいるすべての方々と天国で会うことです。その時には皆さんの家族も一緒であるように祈り、願っています。



祈ります。



天地の主である神様、私たちはキリストを信じるという恵みを与えられて神様の家族の中に加えられていることを感謝します。人生には無数の別れ道があります。聖書という人生のしおりに従って、常にキリストに従う道へ私たちを導いて下さい。病気の方々に平安と癒しを与えて下さい。問題ある者に励ましと解決を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。





参考文献:エレミヤ書注解―口語略解、文語略註、米田、フランシスコ会、デビッドソン、矢内原。

LAB。 「ショートメッセージ100・成長センター」