主の愛の広さ、高さ  マタイ18:11-14                 主の2010.9.26礼拝

先日、民主党の党首を選ぶ大会があり、多数の党員の支持を得て菅氏が選ばれました。政治においては、「多数決の原理」に従って物事を決めるという方法をとっています。北朝鮮は多数決とは関係のない独裁国家ですが、しかし議会というものがあって全国より代議員を選んで、その人達の多数の賛成を得て国家の方針、人事などを決めるという形をとっています。
多数決は、多くの人々の賛同を得て決められた事柄を進めて行きますので、とても良いように思われます。しかし、一つの大きな問題があります。それは少数の意見が無視され、少数派の人々は切り捨てられて行くということです。それに対し、民主政治の基本は多数決の原理に従うことであるが、少数者の意見をも尊重する、ということが言われます。しかし現実には、「あれかこれか」を多数決で決めると、多数派が勝ち組となり、少数派は負け組みとして切り捨てられて行きます。人間が政治を行う場合には、このことはやむを得ないことなのかも知れませんが、ここに人間の限界があります。全体を立てようとすれば個人が立たず、個人を立てようとすれば全体のバランスが崩れることになり、人間はこのようなジレンマ(板ばさみ)を抜け出すことが出来ないのです。
本日はマタイ18:11-14です。羊飼いは、羊を「緑の牧場、憩いの水際(みぎわ)」(詩篇23:2)に連れて行きます。夕方になると、羊を山の斜面を柵で囲った安全な場所に入れます。その時に羊が1匹足りないことに気づいたのです。いないのはたった1匹、多数決の原理から言えば99対1です。迷い出た1匹が悪いのであって、その1匹は切り捨てられても仕方のない存在ということになります。ところが、もう夜の闇が辺りを覆っているのに、羊飼いは迷い出た1匹を見捨てずに捜しに行き、見事に見つけ出して喜んでいます。
この話をされたのはイエス・キリストです。羊飼いはキリストのことであり、迷い出た羊は私たちのことです。キリストがこの世に来られた目的は、「失われた者(神様から離れて人生の迷子になっている者)を尋ね出して救うため」(ルカ19:10)です。キリストは神様から離れた罪人であった私たちを救うために来られた愛に満ちた真の救主です。キリストの救いによって神の家族の一員にされていることを感謝しつつ、主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。


内容区分
1、キリストは、すべての人に対して愛を注がれる救主である。18:11-12
2、キリストは、人が救われることを喜んで下さる愛の主である。18:13-14
資料問題
11節「人の子」、イエス・キリストのこと。「滅びる者」、神から離れて罪人となり、死んで神の審判を受けてゲヘナに行く者。12節「あなたがたはどう思うか」、キリストは人々がただ話を聞くだけに終らず、その内容を自分に当てはめて考えるように訴えている。「99匹を山に残して」、羊飼いは羊を愛しているので、1匹も失われることを望んでいない。失われた1匹のためにあらゆる困難を冒して捜しに行くのである。13節「その1匹のために喜ぶであろう」、弱ければ弱いほど、罪深ければ罪深いほど、神の愛は豊かに注がれる。それ故に迷える者を見出し、罪に沈める者が救出された時に喜びは深い。神は迷わない羊を愛し、そして迷える羊も共に愛して下さることを表しているのである。


1、キリストは、すべての人に対して愛を注がれる救主である。18:11-12

人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(11-12節)


キリストは「人の子(キリストがご自分を指していう言葉)は、滅びる者を救うためにきたのである」とご自分がこの世に来られた目的を語っています。滅びるとは、神様から切り離されて地獄で永遠に苦しむことを指しています。この滅びから人間を救いだすために来られたキリストによって、すべての人が罪を認め、罪から離れ、滅びから生命の源である神様に立ち返る赦しと救いの道が開かれたのです。

私たちは、以前は神様から離れて迷い出た一匹の羊のような者であった

羊は目が弱く、方向音痴です。獣に襲われるとすぐに餌食になってしまいます。羊の牧者(羊飼い)は羊を一つの群れにして、草のある所、水のある所に導いて彼らを養い、また羊を狙う獣から羊の身を安全に守ります。羊は群れの中にいて、羊飼いに従って行けば何の心配もなく毎日を過ごす事ができます。ところが、羊飼いの許を離れて帰ってこない羊がいたのです。方向音痴の羊は夜の暗闇の中で迷子になり、自分の帰るべき所が分かりません。羊を狙う獣に襲われ、命を落とすかも知れない危険の中にいます。
これは私たち人間の状況を表しています。人間は創造主である神様によって生きる者になりました。ところが、人間は神様に背き、自分勝手な道へと進み始めてしまいました。これが罪です。罪とは神様を離れて生きることです。神様は生命、愛、喜び、感謝の源です。神様を離れて罪人になった人間は生命をなくし、死んで永遠の滅びの中に入って行きます。憎しみ、ねたみ、争いが心にあって互いに愛し合うことができず、争い合っています。喜びではなく、愚痴、不平、不満などによって心が暗くなっています。素直に感謝することができず、心の中に恨み言が満ちています。人間は滅びる者になってしまったのです。そうなったのは人間が神様に背いたからであって、自業自得であると言うことができます。
しかし、神様は限りない愛の持ち主です。罪人になってしまった人間を見捨ててしまうような冷たい神様ではありません。「神はそのひとり子(キリスト)を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)ということを実践された愛の神様です。人間のために救主イエス・キリストをこの世に送って、ひとりも滅びることがないようにして下さったのです。


私たちを救うために、キリストは救いの行動を起こされた


100匹のうち迷っているのは1匹です。その1匹は、「残念だがやむを得ない」ということで捨てられてしまうのが世の常です。しかし神様にとって捨てて行かねばならぬようなものは一つもないのです。何故なら神様の力には限界がなく、迷う者を救う力があるからです。人間は弱い者、足手まといになる者を置き去りにし、切り捨てて行きます。神様は違います、「やむを得ない」と言って捨てるようなことをしません。「99匹もいるから1匹は仕方がない」とは言いません。失われ、置き去りにされているひとりひとりを愛し、助けて下さいます。しかも全体を忘れずに見守っています。主の愛は広く、高くすべてのものを包み込むものです。
キリストは、「迷っている者がいる。仕方がない」とあきらめることをなさいませんでした。キリストは問いかけています、「1匹の羊が迷っている。99匹は安全な所にいる。もう夜であり、獣が餌を求めて歩き回っている、羊の命が危ない。あなたがたは羊を助けに行きますか」。キリストは議論をしかけているのではなく、羊を助ける実際行動を起こすことが大切であることを訴えているのです。
キリストのことを考えて下さい。キリストほど個人個人を愛されたお方はいません。3年半の公生涯の間に114回も個人的な出会いをしています。例えば38年間も病気に苦しむ人のために(ヨハネ5:2-18)、子供を亡くして悲しんでいる母親のために(ルカ7:11-17)、悪霊に憑かれ墓場で暮らしている人のために(マルコ5:1-20)、生まれつき目が見えない人のために(ヨハネ9:1-8)、癒やしを与え、救いと希望を与えています。キリストの周りには人が見捨て、切り捨ててしまうような取税人、罪ある女が集まって来ましたが、キリストは彼らを差別せずに受け入れ、新しい人生に歩み出すように祝福を与えています。
そしてすべての人が救われることを願って、十字架にのぼり、命を捧げ、救いと赦しと永遠の命の道を開いて下さいました。キリストにとって、全体と個人とは一つでした。すべての人のために、と言って、個々の不幸な人から目を背けるようなことをしませんでした。ひとりひとりを愛することが、また全体を愛することでありました。
私たちに差し伸べられているキリストの深い愛に感謝します。どのように小さく貧しい者であっても、人から見捨てられたような者でも、キリストによって見出され、救われることができるのです。キリストの救いに与ったことを感謝しましょう。キリストによってすべての人が救いの恵みの中に入れてもらえることを信じ、家族が、友達が必ず救われることを信じて祈りを続けて下さい。

2、キリストは、人が救われることを喜んで下さる愛の主である。18:13-14

もしそれを見つけたら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。(13-14節)

羊飼いは出かけて行きました。昼間の道をもう一度歩み、分かれている枝道などを辿り、1匹を捜し求めて歩いています。暗い闇の中で聞こえるのは獣の叫び声です。それに混じって羊の助けを求める声が聞こえてくるに違いないことを信じながら、目をこらし、耳を澄まして捜し求めている羊飼いの愛の労苦に心を打たれます。

キリストは人生の迷子になっている者を尋ね出して、救いに入れて下さる救主である

宗教といわれるものがたくさんあり、人間を救うと宣伝しています。それらの教えの内容を見てみると、人間の側から人間以上の存在を求めて行くということになっています。人間が必死になって求めて行けば神といわれるものに出会うと言います。そのために修行をし、経典を学び、欲望を断つように努力し、善いことをし、たくさんのお布施(お金を差し出す)をすることなどが条件になっています。聖書の教えは人間が神様を捜し求めるのではなく、創造主である神様が人間を捜し求め、人間に愛を注いで下さることを告げています。そして神の独り子であるイエス・キリストが神様を表し、人間に救いを与えるためにこの世に来られた事を告げています。
キリストは、罪のために悩み、苦しんでいる人間を救うために、神の独り子でありながら、人間となってこの世に来られた救主です。キリストはご自分のほうから苦しむ人の所に個人的に足を運び、罪の赦しと苦しみからの解放を与えています。そして、すべての人を救うために、罪のないご自分の身を十字架に捧げて、私たちの罪の身代りとなって下さったのです。キリストは十字架の後に復活され、それから天に帰って行かれました。キリストは天に帰られた後に、聖霊を送り、聖霊を受けた人々は教会を形成し、キリストの救いを全世界に向かって伝道して行きました。
熊谷の教会は1965年12月にアメリカより遣わされたクラー宣教師によって開拓伝道が開始され、それが今日に引き継がれています。クラー宣教師はアメリカの大きな教会での働きを辞退し、クリスチャン人口が1%の日本に渡ってきました。まず驚いたのは汲み取りトイレでしょう。何もかも違う異文化の中で暮らし、伝道の種を蒔いてくれた宣教師の働きに感謝します。それは一人の人を追い求めるキリストの愛に満たされて、当時は船で日本に来る時代でしたが、日本の熊谷で福音を伝え、それがこの教会の土台になっていることを覚え、主の御名をほめたたえます。

キリストは人の救いを喜んで下さる愛の主である

「その1匹のために喜ぶであろう」と言われています。キリストはすべての人のために、特に弱い者、迷っている者、切り捨てられそうになっている人の友であり、その救いを喜んで下さいます。
ところで、今の日本では5人に1人が鬱に覆われ、家に引きこもっている人が70万人を超え、最も大きな問題は10年以上にわたって年間3万人以上の人が自ら命を絶っていることです。それは表面に表れた数で、その背後には多くの苦しんでいる人々がいるはずです。何故こんな事態になっているのかは詳しくは分かりませんが、日本全体が何か病気のような感じです。イギリスのレスター大学が発表した世界の国々の幸福度についての調査があります(2006年度)。世界で幸福度の高い国はデンマーク、スイスで10位までが北欧諸国です。日本に大きな影響をもたらしているアメリカは23位、ドイツ53位、イギリス41位、フランス62位、日本は178カ国の中で90番目です。日本の順位の低さを知って本当にショックでした。私たちは長い間アメリカを一つの目標、幸福のモデルにしてきました。最近よく言われていることは、アメリカ型資本主義の根底にあるものは、自由競争、自己責任、成果主義という考えであるということです。それは突き詰めて行くと「弱い者を切り捨てて行くことは止むを得ない」という冷たい考えです。それが社会を支配し、その結果、人は極端な個人主義になり、能力至上主義になり、激しい競争社会になり、隣人を顧みる余裕をなくしています。個人的に孤立し、隣人からの支えは期待できません。弱い者は切り捨てられ、勝ち組、負け組みに分けられ、格差が広がって行きます。まさに多くの人が迷っている羊のような状態に置かれています。

キリストは1匹の迷っている者を捜し出てくれました。迷子になった羊が見つかったことを喜び、それから99匹の仲間のいる所へ連れ戻してくれました。私たちもかつては迷い、一人ぼっちでしたが、今や教会というキリストを信じる群れの中で、互いに祈り合い、赦し合い、愛し合って生きる者にされていることを感謝します

昨日上野公園伝道に行ってきました。オニギリ、様々な物資、お米、献金の支援に感謝します。ホームレスの人々に対し、「社会から落伍して、路上で暮しているのは、あなたの責任です。あなたは社会の数の中に入っていません」という人もいます。しかし、彼らは溺れかかっている人々です。まずキリストという浮き輪を投げてあげなければ、彼らは溺れ死んで、滅んでしまいます。上野に行く度に、「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」(ヤコブ4:17)という御言葉が心をよぎります。月に一度ですが、キリストが一人の人を追い求めた愛を心に受けて、失われ、迷っている人々のために祈り、ホームレス伝道を継続して行くことを心から願っています。


お祈りいたします

天地の主である神様、救主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、神の子にされていることを感謝します。私たちは弱い、愚かな、罪ある者でした。自分勝手な道を歩み、滅びに向かっていました。キリストが人生の迷子になっていた私たちを捜しに来て、救いの中に入れて下さったことを感謝します。
今の社会は大勢の人々が苦しみを抱えています。
主よ、苦しんでいる方々の重荷を背負って下さることを感謝します。
主よ、キリストの十字架の力によって病気の方々に平安を与え、癒しを与えて下さい。
主よ、私たちの周りには救いを必要とする方々が大勢います。私たちを愛し救って下さるキリストの恵みを伝えることができるように私たちを用いて下さい。
9月の間をここまで守って下さった主に感謝を捧げます。私たちひとりひとりを愛をもって捜し出し、救いに入れて下さった主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解―黒崎、バークレー、口語略解、文語略註、Ryle、米田、LABM、シンプソン、米田、フランシスコ会。