二つの道-命か死か 申命記30:15-20              主の2010.10.3聖日礼拝


時々こんなことを言う人に会います、「私も教会に少しばかり行ったことがあります。聖書も読んだことがあります。『だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。敵を愛せよ』(マタイ5:39,44)など感動的な教えがありますね」。しかし、その人は評論家のようにその御言葉を論じるだけで、自分はその御言葉とは無関係であるという傍観者的な態度をとっています。なぜ傍観者的な態度をとるのかと言えば、自分の敵を愛するということは素晴しい事であるが、それは人間にはできないことであると考え、愛の教えを実践してみようという決断をしないからです。
本日は申命記30:15-20です。主なる神様は次のように私たちに呼びかけておられます。「きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる」(15節)、「あなたは命を選ばなければならない」(19節)、「あなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わねばならない」(20節)。それぞれの御言葉が、私たちに主を愛すること、主を愛する者は主の御言葉に従うべきであることを強く迫っています。ヤコブは「御言を行う者になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:22)と言っています。心を開いて主のメッセージを聴き、一つ一つの教えを心に受け入れ、その教えを実践する者となるように主に祈って行くことが祝福を受ける秘訣です。


内容区分
1、神と偶像がある。私たちは二つのうちどちらか一つを選び取って行かねばならない。30:15-18
2、私たちは、「きょう」命を選ぼう。「きょう」主につき従って行くことを決断しよう。30:16-20
資料問題
申命記の「申」とは「ふたたび」という意味である。荒野の40年を経て、今やイスラエル民族はヨルダン河を渡って約束の地に入る寸前の所にいる。その時に、モーセを通して神の律法をもう一度示され、神の選民としての決断を明らかにするために、モーセから律法の説明を聴いているのである。
モーセの説教は三部ある。❶1:1-4:43神の業について、❷4:44-28:68神の律法について、❸29:1-30:20神の契約についてである。31章は後継者の任命とそれに関するモーセの奨励、32章モーセの歌、33章はモーセの祝福の言葉、34章はモーセの死となっている。本書には明白なキリスト預言がある(18:15,18)。キリストは荒野の試みの時に、サタンに対し申命記の言葉をもって三回の誘惑を退けている。16節「それ(神の戒め)に従うならば、あなたは生きながらえる」、神を愛して、その声を聴き、主につき従うことが命である。他の神々を拝み、それに仕えるならば死である(17-18節)。神か偶像か、命か死か、そのどちらかを、今、選ばなければならない。


1、神と偶像がある。私たちは二つのどちらか一つを選び取って行かねばならない。30:15-18

見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災いをあなたの前においた。すなわちわたしは、きょう、あなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。(15-18節)

申命記の「申」という言葉は「再び」という意味です。イスラエル民族は、これからヨルダン河を渡って先祖達の住んでいた土地に帰ろうとしています。その時に神の律法をもう一度示され、神の選民としての決断を明らかにするために、モーセから神の律法の説明を再び聞くというのが申命記の内容です。

申命記の内容を代表する言葉は、「きょう」という言葉で、申命記の中で75回繰り返して用いられています。多くの場合、いましめを「守る」、「行う」という言葉と結びついて用いられています。本日の箇所では「きょう」という言葉が4回使われています。



まず15-18節を通して教えられることを見て行きましょう。



人生には二つの道があるという事実を心に留めることが最重要なことです。


15節で、「わたしは、きょう、命とさいわい、死と災いをあなたの前に置いた」と告げられています。これは、私たちに対し、人生には「命とさいわい」、「死と災い」という二つの道があるということを示しています。
「命とさいわい」の道とは、神様を信じて、罪を赦されて神の子になり、死んで終わりではなく、天国で永遠に生きる道です。
「死と災い」の道とは、他の神々(偶像)を拝み、罪をもったまま死んで行き、永遠の滅びに至る
道です。
神様は、二つのうち、どちらかを選び取るように、と言われます。ここにおられる方々は命とさいわいの道を選び取っていることを信じ、主に感謝します。
神様は、私たちに常に信じるか、信じないか、或いは従うか、従わないかを問いかけてきます。
アダムとエバに、「この木の実をとって食べてはならない。食べると死ぬ」と言われました。しかし
アダムとエバは神様の戒めに背き、食べてはならない木の実を食べて罪人になってしまったのです(創世記2:17、3:6参照)。
神様はノアに洪水に備えるように知らせ、ノアはそれを受け入れ、彼とその家族8人だけが救われるという恵みを受けました(創世記6-8章参照)。
キリストの所に永遠の生命を求めてきた青年は、「持っているものをみな売り払って貧しい人々に分けてやりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」という言葉を聞いて、悲しみながら去って行きました(ルカ18:18-23参照)。
エリコの取税人のかしらザアカイはキリストに出会って心が変えられ、持ち物の半分を貧民に施し、不正な取立ては4倍にして返すと皆の前で言い表しました。キリストはザアカイに、「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」という救いの祝福を与えています(ルカ19:1-10参照)。


命とさいわいを選び取り、神様の御言葉を守り行い、従って行くことが求められています。


命とさいわいの道は神様を信じる道です。15節で「主を愛すること」と言われています。キリストは、信仰の最も大事な点は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)という教えにあると言っています。

「主を愛すること」に続いて、「神のいましめと定めと、おきてとを守ることを命じる」と言われています。どんなに御言葉を読んでも、聴いてもそれを実践しなければ何の意味もありません。聖書の言葉を研究し、歴史的背景を知り、聖書に関する知識を得ても、それを実践しなければ信仰にはなりません。

ある男性と話したことがあります。聖書の内容を良く知っていました。キリスト教の歴史を勉強し、日本の教団教派についてもよく知っていました。それらを滔滔と話してくれました。話が一区切りした時に、「ところで、あなたはキリストを信じていますか。教会生活をしていますか」と訊いてみました。すると声を落として、「私にはキリストのことがよく分かりません」と答えました。それを聞いて、すぐに人間の罪の問題、イエス・キリストの十字架と復活による救いを伝えましたが、「これはもっと研究してみなければ分からない」と言って、素直にキリストを信じる決意ができませんでした。別れ際のその男性の淋しそうな表情を忘れることができません。

キリストは、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と明言されています。聖書を読む目的はキリストを知ることです。そしてキリストが御言葉を実践なされたことに倣って行くことです。真のクリスチャンとは、主を愛し、主の御言葉(聖書の言葉)を行う者です。御言葉を実践する者となるように主に祈って行きましょう。



2、私たちは、「きょう」命を選ぼう。「きょう」主につき従って行くことを決断しよう。30:19:20

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう。(19-20節)



「きょう」という言葉が出てきます。信仰は過去のことでははなく、また明日のことでもなく、今、この現在の時に、キリストを信じる信仰に生きるということです。



19-20節から教えられることを見て行きましょう。



信仰は、今、この時にキリストを信じることです。



申命記の中で75回も用いられているのは「きょう」という言葉です。「きょう」という日に、神様の御言葉を「守る」、「行う」ということが信仰であると告げられています。

「きょう」という日に神様に従うということは、「現在この時に決断する」という意味です。主なる神様は、19節で、「命と死および祝福と呪いとをあなたの前に置いた」と言われると同時に、「あなたは命を選ばなければならない」と呼びかけておられます。ここに神様の愛が表されています。二つの道をポンと示して「好きなほうを選びなさい」と冷たく言うのではなく、「あなたは良いほうを、命の道を選んで行くように」と訴えているのです。それを「きょう」という時に決断するようにと言われているのです。

この教えは素晴しいものです。しかし、私たちは神様の戒めを守り行うことができないという悩みを抱えています。多くの人々が律法を守り行うことの難しさを体験してきました。その中の一人が使徒パウロです。彼は叫んでいます、



わたしのうちに、すなわち、わたしの肉(生まれつきの罪の性質)の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている(ロマ7:18-19)。



悩み苦しんだパウロは、ただひとり律法を完全に成就されたイエス・キリストを見上げます。イエス・キリストは全ての律法を成就されたお方です。



キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」(ロマ10:4)



キリストは律法のすべてを完全に行われたので、律法の終わりと言われています。そして私たちが律法を行うことができないでいるのは罪の故であることを知っておられました、そこで十字架にのぼり、私たちの罪の身代りになって律法のすべてを行った完全な清い命を捧げ、罪の赦しの道を開いて下さったのです。



信仰を持続し、それを伝えて行くことが大事です。



「あなたは命を選ばなければならない」という言葉に続いて、「あなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」という祝福の言葉があります。ひとりの人が信仰を持つことによって、子孫に、周りに祝福が及んで行きます。道は二つあり、良いほうを選び取った私たちは、この素晴しい恵みを周りの方々に伝えて行くことが大切です。家族のある方々は家族に、子供さんのいる方々は子供さんに信仰が伝わって行くように祈ることが大切です。また周りの方々に信仰を伝えることが大切です。

教会の歴史を考えてみると、ここには信仰初代の方々がいます。信仰二代目の方々がいます。信仰三代目の方々がいます。そして信仰四代目の方々が登場してくる時期になっています。私事になりますが、我が家は家内の母が信仰をもち、家内に伝えられ、私たちの子供たちが信仰をもち、やがてその次の世代に信仰が継承されようとしています。親から子供ではなく、子供から親に信仰が伝えられているケースもあります。また友人関係などを通して導かれた方々もいます。様々なケースがありますが、大事なことは、主の憐れみによって、二つの道のうち命の道を選ぶように導かれたことを感謝し、この救いを「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)伝えて行くことです。

ある牧師が種子島に遣わされました。キリストを信じれば、子々孫々に恵みが及ぶことを伝道しました。しかし具体的な成果が得られないまま島を去り、外の伝道地へ行きました。牧師は、種子島での伝道は失敗であったかなーと思いつつも祈り続けていました。10年ほど経って、ある教会へ行った時にその教会の牧師が証ししてくれました。「私の父は鹿児島で米屋をしていたが、借金の保証人になり、店から住いまですべてを失ってしまったのです。種子島に行き、その時はまだ神様を信じませんでした。よそに移った時、弟が救われ、神様は家族全員をクリスチャンにして下さいました。そして私の一族から大勢の者が牧師になりました。私たちは先生の伝道の実です」。神様の約束は真実であり、命を選ぶことによって、子々孫々に恵みが及んで行くことを知ることができます。

ある牧師は、山奥に配布された伝道文書を通して、キリストを信じるという命を選ぶ信仰を与えられ、やがて都会に出て教会に行き、献身して牧師への道を歩みました。

二つの道のうち、キリストを信じるという信仰による命の道を選ぶことによって、家族に、周りの方々に多くの祝福が大及んで行くことを知ることができます。

今朝、主を愛して、「命とさいわい」、「命と祝福」、そして「命を選ぶ」ように導かれた主に感謝を捧げましょう。命を選ぶ恵みが、家族に、周りの方々に及んで行くように祈って行きましょう。



祈りを捧げます。



天地の主である神様、救主イエス・キリストの救いの恵みをほめ讃へ、感謝をします。人生には二つの道があることを心に留め、常にキリストに従う道、命とさいわい、命と祝福の道を選んで行くように、神様の聖霊によって導いて下さい。私たちの家族、また周りの方々がキリストを信じる道を選び取って行くように導いて下さい。病気の方々に平安を与え、癒しを与えて下さるようにお願いをします。困難の中にある方々を守り、逃れの道を備えて下さい。10月の間に救われる者を起し、洗礼決心者を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。





参考文献:申命記注解―口語略解、文語略註、ペイン、フランシスコ会、米田、聖書各巻講解。「ショートメッセージ100・成長センター」、「高等科説教53週・教師の友文庫」