主は今生きておられる
ルカ24:13-35 2011・1・30
荻野 倫夫副牧師
導入
(渡辺先生の現状の報告と祈りのリクエスト)
宗教改革者のマルティン・ルターが落ち込んでいた時のこと。ルターの妻が、お葬式の服を着て悲しそうな顔をしていたという。ルターは妻に尋ねた。「誰か亡くなったのかい」妻は答えた、「神が死んだのです」。ルターは驚いて言った、「『神が死んだ』だって、何を馬鹿な」。妻は答えた、「あなたがあまりに落ち込んでいるので、神が死んだのかと思って」。ルターの妻は、落ち込みは、生ける神が共にいるクリスチャンに相応しくない、ということを示すため、一芝居打ったのだった。
我々は、落ち込み、ふさぎこむ。あたかも神が死んでしまったかのように。私たちは、落ち込むことによって、「神が死んだ」かのような証しを立ててしまうことのないようにしよう。積極的な言い方で言えば、私たちの生き方次第で、「主は生きておられる」という証しを立てることができる。
今日の聖書箇所は、一般に「エマオの途上」と呼ばれ、ご覧の印象的な絵画でも有名な物語。この絵画は実にすばらしい。聖書によればふたりの弟子は不安でいっぱいであった。だがこの絵画を見ている私たちから見れば、彼らは美しい大自然の中を歩いている。何よりもイエス様が共におられる。これ以上望むべくもない素晴らしい旅ではないだろうか。
これは正に私たちの姿である。私たちは先ほど読んだふたりの弟子のように、不安でいっぱいである。だが真実は今日の聖句が、またこの絵画が表しているように、私たちはキリストと共に最高の旅をしている。恐らくいつか御国に行ったときには先ほどの賛美のごとく「我が霊は歌わん力の限り。『君に守られて今日まで来ぬ』と」となることだろう(聖歌628)。主と共に歩む、この最高の旅を楽しもう。今日はこの聖句を通して、私たちの信仰生活が、この絵画を見た感動そのままとなることを願いつつ、御言葉に耳を傾けて行こう。
また、弟子たちの目が開け、それがイエスであるということを認めることができたタイミングを見てほしい。30-31節。そう、パンが割かれたとき、それがイエスであるということが分かった。今日は、パンを割く聖餐式が行われる…はずだったが、渡辺先生の緊急入院により、延期となった。私は月曜日からの正教師試験にパスすれば、四月から聖餐式の執行が可能となるが、今はまだ無理である。だが私は信じている。私が執行できるようになる前に、渡辺先生が完全回復し、聖餐式の執行をして下さることを。いずれにせよ、聖餐が行われるときに私たちの目が開け、私たちの真中にイエス様が臨在し給う事を私たちが知ることができるようにと願っている。
ところで本日午後、私は神学校時代の友人であり牧師である吉永先生が牧会する町田聖書教会に出かけてくる。先生が今日、主管者となる就任式に出席してくる。夕拝は、妻がメッセージを取り次ぐ。私たち夫婦のそれぞれの働きのためにお祈り頂ければ幸いである。
今日は「主は今生きておられる」という題名で御言葉を取り次がせて頂く。
ポイント1.主の臨在を証しする生活
あるとき妻に「あなた普通ね。」と言われた。どういう意味かというと、「クリスチャンとして『何か違う』感がない。世の中一般の人と変わらない。」ということ。妻によると、私はある程度親切で礼儀正しいが、日本人は一般的に親切で礼儀正しい。だから私がクリスチャンとして世の中で特に目立つわけではない、という。
私たちクリスチャンは、どうしたら「他とは違う」証し人となることができるだろうか。私たちの生活の中に神の臨在が表されるときに、世の中の人とは一味違う、キリストの証し者となることができるのではないだろうか。ここにおられる皆さんは、主の恵みにより倫理的で真面目な生活を送っておられることだと思う。だがそれに加えて、皆さんの生活の中で主の生き生きとした臨在がより一層明らかになるなら、ますます力強いクリスチャンとしての証し人となるのではないだろうか。そういう訳で、ポイント1として、「主の臨在を証しする生活」について学びたい。
一体どうやったら私たちの生活に、神の臨在が現われるだろうか。
1ヨハネ4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。
良く、「神がいるなら見せてくれ」と仰る方がいる。残念ながら、神をお見せすることはできない。聖書自身、「神を見た者は、まだひとりもいない」と認めている。神を見ることはできない。では、どうやって神の臨在を表すことができるだろう?どうやったら、見えない神を、実感することができるだろう?御言葉の続きを見て見よう。
Tヨハネ4:12(続き)
もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし…
神が臨在を表す条件、それはわたしたちが互に愛し合うことである。繰り返すが神は目に見えない。だがもし私たちが互に愛し合うなら、見えない神の存在が露わになる。
私たちの生活にはキリストの臨在があふれているだろうか。言い代えれば、私たちは互に愛し合い、赦しあい、受け入れあっているだろうか。
マラキ2:10
われわれの父は皆一つではないか。
私たちは、地上でそれぞれの親をもっている。だが私たちの親をも創造なさった、全ての親の大元がおられる。それは父なる神であり、我々すべては、この方の息子、娘である。 よって、我々はみな、ただ一人の神を父とする、兄弟姉妹である。イエス・キリストを長男とし、皆キリストの弟、妹に当たる。全員身内である。「互に愛し合いなさい」とは、言い代えれば「家族同士仲良くしなさい」ということである。
私は荻野家で良い息子、兄ではなかった。親に反抗し、妹に辛く当たった。だが神は恵み深い。この間も、ある事を通して、「やっぱり私の家族は最高だ」と家族のことを誇りに思うことがあった。今では私は私の家族を愛している。
私たちクリスチャンが家族として愛し合うなら、その兄弟愛はとりもなおさず父なる神を指し示す。もし教会に神の臨在がなかったら、教会の名倒れである。教会に神の臨在が現われるか否かは、私たち兄弟姉妹同士が、愛し合うことにかかっている。
愛し合い、赦しあい、受け入れあおう。ところで注意点。「これで彼/彼女も人を愛し、赦し、受け入れるだろう」と人のことを考えないでいただきたい。愛し、赦し、受け入れるのはあなたである。あなたは他の人のことを気にしないように。私の例で言えば、親は私を愛し、妹は私を慕ってくれていた。変わらなければならないのは私だった。私が家族を愛すること、これが私の責任である。神の家族も同様である。あなたは他の人のことは気にしなくていい。あなたが、あなたの家族を愛する、この一事に集中していただきたい。各々がこの一事に集中するとき、神は我らの真中におられる。
ポイント1として「主の臨在を証しする生活」とは、互に愛し合う共同体となることである。
ポイント2.主の臨在を証しする礼拝
私がフィリピンに留学しているとき、時折カトリックの教会へ行った。カトリック教会は、礼拝堂の構造自体が、神の臨在を招く凝った造りをしている。例えば、会衆席に跪くためのクッションがある。礼拝の中で、皆が一斉にそのクッションに跪く。跪くとき、神の御名があがめられ、神の臨在を豊かに感じることができる。この教会でも、会堂に入ってからまず跪いて祈る方々がいる。そのような姿勢が、礼拝に主の臨在を招来すると思う。ポイント2として、「主の臨在を証しする礼拝」について学ぼう。
週報の裏を見て頂きたい。
私たちもこの稀有な福音書記者ルカに倣いたい。すなわち私たちのもてるすべてを用いて、「どや」顔のためではなく、「主は今生きておられる」ということを力強く証しする礼拝をささげたい。
さあ、礼拝のどんな場面が、主の臨在を表すだろうか。今日は特に二つの側面を強調したい。
@賛美
1-2週目は10:20から、3-5週目は10:30から、準備賛美が始まる。また聖歌の賛美、プレイズ&ワーシップ、賛美の献げもの等、礼拝には賛美が満ちている。礼拝における賛美の大事さは、どれだけ強調してもし過ぎることはない。準備賛美ももちろんである。準備賛美は「前座」ではない。準備賛美は、これから始まる礼拝に主の臨在が現われるための、これ以上ないくらい大事な、厳かな時である。その他、主の臨在が表される礼拝のために賛美は欠かすことができない。
詩篇22:3
[わが神は]…イスラエルのさんびの上に座しておられる…
神の臨在は賛美の中に現れる。私たちはただ「歌う」のではない。賛美は「礼拝」である。賛美の中に住まわれる神を崇めるときである。
私は何でも試してみる性質である。神学校時代、その時はたまたま時間が普段より限られていたということもあり、賛美なしのチャペルをしてみた。何かが物足りなかった。それはそうである。賛美を通して、主は臨在を表して下さるのだから。その賛美をささげないことは、神の臨在を求める礼拝にとって致命的となる。
賛美は特に私たちの直感と感情に神の臨在を表してくれる、素晴らしい神からの贈り物である。賛美リーダー、賛美チーム、奏楽者のために格別に祈ってほしい。それらの奉仕者の働きを通しての神の臨在が現されるよう祈ろう。また私たち自身の賛美を通して、神の臨在が表れるよう期待しつつ賛美をささげよう。恐れおののきつつ、感謝をもって、心から喜んで賛美をささげていこう。
A静まる
・礼拝前に静まる
さあ準備賛美後、奏楽が鳴る。1-2週目であれば10:30から、3-5週目であれば9:00及び10:40から礼拝が始まる。私は司会を担当させて頂いているが、礼拝前、静まるように導いている。というのは、我々が静まるとき、神が語り出して下さるからである。我々が喋っているなら、神は語らない、あるいは神が語っても聞こえない。だから主の前における静寂が、会衆の隅々にまで行き渡ってから、礼拝を始めさせていただく。
一週間振りに兄弟姉妹に会い、嬉しいし挨拶もしたい。そのお気持ちも良く分かる。同時に、私たちは主の臨在があふれる礼拝を願っている。だから、礼拝前しばらく静まるときをもたせていただきたい。
・説教者は自分の言いたいことについて沈黙する
我らが静まると、キリストが語って下さる、と言った。聖書も語る。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。静まることが、神に語って頂く必須条件である。でも礼拝中、確実にひとり喋っている人がいる…。そう説教者である。現に今、私は喋っている。説教者は例外なのだろうか。静まるというより、語るべきなのだろうか。
実は説教者も沈黙を学ばなければならない。いや、説教者こそ、沈黙を学ばなければならない。そうでないと、講壇が「私の主張」という、聞くに堪えない、礼拝に相応しくない騒音になるからだ。説教者は「これ言いたいな」という人間的な思いを封印し、神の前に沈黙し、御言葉に仕えることを学ばなければならない。神の前に静まることを学んだ説教者は、その説き明かす御言葉を通して神が語って下さるだろう。だから、神の前に静まるとは、教会挙げて、全員一致で取り組む作業なのである。
・祈りにおいて静まる
また祈りの時を大事にしたい。代表の祈りがあり、説教者の祈りがあり、恵みのみ座がある。これらすべての祈りの時、やはり静まるべきことを覚えたい。日曜学校の子供が、お祈りの後このように言うことがある。「先生、○○ちゃん、お祈りの時目を開けてたよ。」…祈りの時間、私たちは目を開けるばかりか、色々と手を動かしたくなったり、人に見られたら困る作業を済ませようとしたりする(ことはないと信じるが)。あるいは、お祈りの最中用事があって喋りたくなる。だが祈りの最中はぜひお静かに。主の臨在を求めることに協力してほしい。なぜなら祈りは、独り言ではないからである。神との対話だからである。我々が病の癒しを祈るとき、それは「神様が聞いてくれているかどうかわからない」では困る。我々は「必ず癒そう」という神からの語りかけ、確証を聴きたい。繰り返すが、我らが静まるとき、神が語って下さる。祈りを独り言とせず、祈りの答えを神からさやかに聞くことができるよう、沈黙し、静かにして、祈りの心に合わせてほしい。
・礼拝中の出入りにもご協力を
礼拝中の出入りにもご協力頂きたい。祈りの時等、役員が礼拝堂に入るのを止めることがある。渡辺牧師が、「そのようにして下さい」と頼んだからである。なぜなら我々は共に神の前に静まり、神に臨在を表して頂きたいと願っているからである。無論、今は玄関で待つには寒い時期であり、お体の悪い方もいる。適宜役員が、適切に判断して、皆さんを止めたり通したりする。神の信任を受けた役員が、止めたり通したりするその判断を信用し、従っていただければ幸いである。
私たちは礼拝中、皆で一致協力し神の前に静まって、思いを神に集中したい。我々が静まるとき、神が語り出して下さる。神の臨在が濃厚に現われる。そのような礼拝を求めていこう。
ポイント2として、「主の臨在を証しする礼拝」について学んだ。
ポイント3.主の臨在を証しする聖餐
この劇的な絵の作者は、カラヴァッジオという。光と影の使い方が見事で、描かれた人物たちは二次元の世界から飛び出さんばかりである。一眼レフに優る画家の目がルカ24:30-31の瞬間を、見事に捉えている。二人の弟子の驚く様子が、この絵の白眉。「イエス様だ!」という驚嘆を、向かって右の弟子は両手を広げて表している。通常の遠近法に逆らい、両方の手はほぼ同じ大きさあり、その存在感のある手が、弟子の驚嘆の念を見事に表している。またもう一方の手前の弟子も負けず劣らずおったまげている。今にも画面から飛び出てきそうな椅子は、弟子が驚きのあまり腰を浮かすその瞬間を劇的に活写している。
歴史家ルカは、復活のイエスを認めた弟子たちの驚きを伝えてくれている。加えて、ルカは福音書記者でもあり、ある意図をもってこの印象深い記事を我々に伝えていると思われる。二人の弟子はどんな場面で、キリストを認めることができたか…。30節。「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡して」いる時(ルカ24:30)、すなわち聖餐(愛餐)の時である。「理想的な聖餐とは、『キリストは今生きておられる』『主は我らの真中におられる』と私たちが知る、そのような聖餐であるべき。」という、聖餐のあるべき姿を、ルカは私たちに伝えようとしている。
私たちが「主は今生きておられる」そのように実感するとき、もちろんそれは私たちの生活の中であり、また礼拝の中である。とりわけ「エマオの途上」の記事は、聖餐式の時にこそ、主の臨在が現されるべき、と訴えている。
このふたりの弟子のように、今も生きておられる主の臨在に驚く、(今日は行うことができないが、間もなく渡辺先生が執行して下さるだろう)そのような聖餐式をもちたい。ゆえにポイント3として「主の臨在を証しする聖餐」を学ぶ。
明日から三日間、妻と私は牧師になるための試験を受ける。どうか私たちのために祈っていただきたい。明日は四科目の筆記試験なのだが、その四科目の内のひとつが「組織神学」である。組織神学では、聖餐について以下の四つの主な見解を学ぶ。
@カトリックの化体説。聖餐のパンと杯は、事実キリストの肉と血に変化する。
Aルターの共存説。聖餐のパンと杯そのものは変わらないが、キリストの肉と血が共に存在する。例)熱した鉄は、鉄そのものの性質は変わらないが、鉄と熱は共存する。同様に、聖餐のために聖別されたパンと杯は、その性質は変わらないが、キリストの肉と血が共存する。
Bカルヴァンの霊的臨在説。聖餐のパンと杯そのものは変わらないが、キリストの肉と血は霊的に臨在する。
Cツヴィングリの象徴説。聖餐のパンと杯は、キリストの肉と血の象徴であり、聖餐は記念ある。
なお私たちの教団では、ツヴィングリの説を採用している。すなわち、「主の記念」との位置づけである。ここでは組織神学の試験ではないので、個々の違いについて、細かく理解する必要はない。ただ、カトリックから段々と神秘が失われてきた、ということだけ理解して頂ければ十分である。
私たちとしては、カトリックの見解「パンと血は聖別された時、文字通りキリストの体と血に変わる」という説は取れない。だがカトリックの聖餐式は、神への恐れに伴う厳粛さがあるのも事実である。私自身は、私たちプロテスタントは、カトリックに対抗する形で、聖餐から神秘を除去し過ぎたのではないかと思っている。今日の聖書箇所などを参照するに、聖餐式とはキリストの臨在に私たちが腰を抜かす、そのような時であるべきだからだ。聖書においては「~説」というような学問的定義づけはない。だが確かなことがある。それはパンと杯が配られるとき、私たちはこの弟子たちのように、キリストの臨在に驚く、そのような式であるべき、ということである。主の聖餐は、文字通り生きているキリストを証しするときである。2000年前に死んだ人についての記念、追憶ではない。
これはあるギリシャ正教の聖餐式に参加した人の体験である。ギリシャ正教は、先ほどの四つの説では取り上げなかったが、聖霊の働きによってパンと杯はキリストの体と血になる、と信じている。ある聖書学者が、ギリシャ正教の修道院に滞留していたときのこと。彼の母親が自死したことが、長年乗り越えられない大きな傷となっていた。そのことを聞くと司祭は、「ではワインを飲みましょう」と言った。聖書学者は、美味しいワインが飲めると快諾。すると聖書学者の予想と違い、何やら厳かな準備が始められた。そして「ワインを飲もう」とは、主の聖餐、聖餐式を行おう、という意味であることにようやく気付いた。司祭は母の自死を乗り越えられない聖書学者の癒しのために聖餐を準備したのだ。
聖書によればキリストは「聖霊を受けよ」と言って、息を吹きかけた。正教の信仰によれば、聖霊により、パンと杯がキリストの体と血に変わるという。司祭は聖書学者に息を吹きかけた。
その聖書学者は著書の中でハッキリと言明していないが、恐らくその聖餐式を通して初めて、母の自死を乗り越える、いやされるという体験をした。
その聖餐は決して理想的な形ではなかった。受けた本人は気が進まず、不意打ちのような形の聖餐だった。聖霊により、パンと杯が文字通りキリストの体と血に変わると素朴に信じる司祭は、彼の癒しを信じ、彼に聖餐を受けさせた。そして事実、彼は初めて母の自死の傷が癒される体験をした。正に癒し主であるキリストの臨在が、その聖餐にあったのだ。
聖餐は、現に今生き給うキリストを体験する、神秘である。私たちはただの記念ではなく、生きている神に触れていただき、癒していただく、解放していただく、奇跡を体験させていただく、そのような時としたい。
近い将来行われるであろう聖餐式では、恐れとおののきをもってキリストの御体と血潮を受けたい。癒しと奇跡を期待したい。身内の自死という長年の心の傷が癒された。聖餐にどんな奇跡が起こっても然るべき。起ることを期待しよう。
まとめ
第一に「主の臨在を証しする生活」について学んだ。主は今生きておられる。私たちが互に愛し合うとき、そのことを証しすることができる。とりわけ、人がどうかということではなく、私自身が主にある兄弟姉妹を愛することを求めていこう。
第二に、「主の臨在を証しする礼拝」について学んだ。私たちは全精力を注いで、主の臨在が現われる礼拝作りにいそしまなければならない。そのために賛美が大事である。また主の前に静まることが大事である。全員で一致協力して、神を賛美し、神の前に静まる、それによって神が臨在を表して下さる、そのような礼拝をもっていこう。
第三に、「主の臨在を証しする聖餐」について学んだ。聖餐は、昔のことを思い出す記念行事ではない。今生き給うキリストを体験する、常に新しい「今」におけるキリストの癒しと奇跡の体験のときである。聖餐において、キリストの濃厚な臨在を求めていこう。