神はパロを打ち破り給う
出エジプト14:13-14 2011・2・13
導入―危機、窮地、絶体絶命
メッセージ後、渡辺先生に講壇をお譲りし、聖餐式や先生の病状の報告等をお願いする。先生にたっぷり時間を取って頂くため、やや短めにメッセージを語らせて頂く。
イスラエルは430年間エジプトにおり、当時巨大な権力を誇るエジプトのパロ(ファラオ)の奴隷であった。今も残るピラミッドは、当時のエジプトの強大さを現代に伝える。そんな奴隷のイスラエルがパロの力を逃れて約束の地に向かう、エジプト脱出劇が、今日読んだ「出エジプト記」である。彼らはエジプトを出て、紅海の前で宿営していた。その折、奴隷をむざむざ手放してなるものか、と当時世界最強だったであろうエジプトの軍隊を従え、パロが後を追ってきた。前は海、後ろには世界最強の軍隊。そのような緊迫した状況の中で語られたのが、今日お読みした聖書の言葉である。女子供を連れた無力な奴隷であるイスラエルの気持ちを考えてみてほしい。絶体絶命、進退窮まるとはまさにこのことである。
我々ももしかしたらこの時のイスラエルのような危機にいるかもしれない。
学生の方は、進路について悩んでいるかもしれない。周りから困難と言われる道を歩いているかもしれない。
就職の問題で悩んでいる人もいるだろう。就職難であり、仕事を見つけることが、ほとんど不可能と思えるかもしれない。
また仕事はあるにはあるが、仕事上の問題で頭を痛めている方もおられるだろう。仕事を続けること自体が難しい、存亡の危機に瀕している人もおられるかもしれない。
あるいは病の問題を抱えておられる方もいるだろう。その病は医学的には致命的であり、絶望的なことを言われたという方もいるかもしれない。
家族のことで悩んでおられる方もいるだろう。家族の問題は自分のこと以上に辛い。生きていることさえ辛い、そんな気持ちの人もいるかもしれない。
現在の熊谷福音キリスト教会も、危機に瀕していると言えるかもしれない。
その他様々な、危機に瀕しているかもしれない。皆さんはご自分のことを非力に感じ、どうあがいても勝ち目がないと思っているかもしれない。
ちょうどこの時のイスラエルがそのような気持ちだった。一介の奴隷に過ぎない民族が、どうやってあの強大なパロに立ち向かえようか。そんな危機にあるイスラエルに語られたのが今日の御言葉である。
ポイント1.あなたがたは恐れてはならない(13節)
モーセはまず、「あなたがたは恐れてはならない」と語る。アメリカのテレビ番組でAmerican Idolという歌手のオーディション番組がある。ある時「これは」という見事な歌唱力と声量、また魅力的な声をもつ人が歌った。だが彼は残念なことにかなりあがっていた。彼が歌い終わった後、審査員がコメントした。そのコメントを一言で言うと「恐れずに自信をもって」という内容だった。「君はスターだ。他の誰にも負けない実力をもっている。恐れないで堂々としていてほしい」。
この審査員の言葉は、皆さんにこそなお良くあてはまる。「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ2:15)。皆さんは「星のようにこの世に輝く」、正にスターである。ご存じだっただろうか。歌の才能が素晴らしい以上に輝かしい、いのちの言葉を堅く握った、この世で最も輝かしいスターである。だから恐れないでほしい。
ご病気の渡辺先生に代わり、2月は私が一切の集会のメッセージを担当することになった。これは正に重責である。そのことでふと恐れを覚えることがあった。だが感謝なことに、次の御言葉が示された。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(2テモ1:7)。そうだ。私は肉によらず、御霊によって歩む者である(ロマ8:4、ガラ5:16)。では御霊は臆する霊だろうか…。否、力と愛と慎みとの霊である。
私の内に宿る聖霊は、力の霊である。臆する霊、臆病の霊ではない。聖霊は私から恐れを取り除いて下さる。聖霊に頼るとき、恐れは逃げ去る。
私の内に宿る聖霊は、愛の霊である。御霊の第一の実は愛である。御霊は神への愛、御言葉を語る相手である皆さんへの愛を与えて下さる。
私の内に宿る聖霊は、慎みの霊である。御霊は、出過ぎた真似をしないように、私をして一歩下がらしめる霊である。
私はこの「力と愛と慎みとの霊」のおかげで、講壇に立っている。「力と愛と慎みとの霊」は、私から恐れを取り除き、講壇に立たせてくれている。
私だけではなく、キリストを信じて心にお迎えした全ての人は、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊をもっている。ここにおられる皆さん全ては、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊をもつ。
「あなたがたは恐れてはならない」(出エジ14:13)。モーセはイスラエルに単なる励ましとして語ったのではない。事実信者の内に宿るのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。例え私たちが絶体絶命の危機に瀕していても、私たちには力強い御霊が宿っている。何と感謝なことであろうか。我々を取り囲む危機にもかかわらず、神は「あなたがたは恐れてはならない。」と語り給う。心を主に向けよう。力と愛と慎みとが与えられるであろう。
ポイント2.主があなたがたのために戦われる(14節)
更にモーセは「主があなたがたのために戦われる」と語る。先日行われた、サッカーアジア杯は、サッカーファンにとっては最高だったろう。準決勝では、宿敵韓国に辛くもPKで競り勝った。また決勝では、日本人から見たら巨人のようなオーストラリアに勝って優勝。非常に応援し甲斐があり、見ていてさぞ頼もしかったに違いない。
我々が現在直面する危機も、ちょうどサッカーアジア杯における日本を応援するようなものである。日本の優勝に優って輝かしい勝利を取られるであろう神の戦いを目の当たりにしているのだから。韓国とのPK戦のような、危機一髪と思われることもあるかもしれない。あるいは決勝のような、巨人を目の前にするように感じることもあるかもしれない。だが最後は決まっている。神の勝利である。この戦いは主の戦いである。最後は神が勝利を得給う。
聖書の記事に戻ろう。この絶体絶命の危機、ほとんどのイスラエルは恐れた。「パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた」(出エジ14:10)。一方、モーセは「あなたがたは恐れてはならない」(出エジ14:13)と人々を叱咤激励した。つまり落ち着き払っており、全く恐れていなかった。その違いは何か。イスラエルは自分たちが戦わなければならないと思い、勝ち目がないということでパニックに陥っていた。一方モーセは、彼自身はパロに相対する力は持っていなかったが、神が戦い給う事を知っていた。この戦いは神の戦いであって、モーセやイスラエルの戦いではないことを知っていた。
これが聖書における勝利者の法則である。聖書における圧倒的な勝利者たちは、皆間違いなくこの法則に従っている。すなわち彼らの危機において戦うのは彼ら自身ではない。彼らの危機において戦い、勝利を得給うのは神である。
「この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」(1サム17:47)。 今読んだ聖句は、モーセの時からぐっと時代は下っているが、勝利の法則は同じである。モーセ同様「この戦いは主の戦いである」と認識している。この言葉を語ったダビデはこの時、イスラエル軍が皆震え上がり恐れをなす、ゴリアテという大巨人に挑んでいた。ダビデはそのゴリアテの面前に向かってこの言葉を言い放った。ダビデ自身は、王が課した鎧も重過ぎて着ることができない、戦士というにはあまりに非力な戦士だった。だが彼もモーセと同様に全く恐れていなかった。なぜならこれはダビデが戦うのではなく、主が戦う、そして必ず勝利をもたらすと知っていたからである。果たしてダビデは山のような巨人ゴリアテを倒すに至る。
私はかつてある非常に大きな問題で悩んでいた。その時自分で色々したかった。だが主に委ねるように導かれた。果たして何年かかけて、その問題が解決したばかりか、期待以上の素晴らしい結果が実りつつある。確かにその過程で、私もその良い結果に貢献することができた。だが私がしようとしたというよりは、指揮官である神が私を用いた、という方が相応しい。私はこの問題を神に委ね、神が戦い、勝利を取って下さった。私は神によって用いられたに過ぎない。
「主があなたがたのために戦われる…」(出エジ14:14)。神はイスラエルのためにエジプト軍と戦って、勝利を得た。また神はダビデのためにゴリアテと戦って勝利を得た。同じように神は、私たち一人一人のために、私たちがいま直面する敵と戦って勝利を得て下さる。強豪韓国を打ち破り、巨人のようなオーストラリアを打ち破った日本サッカーチームに優って頼もしい神が、私たちのために戦ってくださる。
ポイント3.あなたがたは黙していなさい(14節)
モーセは最後「あなたがたは黙していなさい」と語る。最近ジャッキー・チェン主演でベスト・キッドという映画がリメイクされた。いじめられっこが、カンフーを学んで強くなり、カンフーの大会で最強のいじめっ子を打ち破るという物語である。その中で、ジャッキー・チェンがいじめられっ子に、英語で“Be still”(出エジ14:14「黙していなさい」、詩46:10「静まって」の英訳聖書と同じ言葉)の大事さを教える。ところが弟子は勘違いする。「静まる」とは、「何もしない」のと同じである、と。すかさずジャッキー・チェンは言う。「『静まること』と『何もしない』ということは違う。」実際何もしなければこのいじめられっ子は決して、最強のいじめっ子にカンフーで勝つことはできなかったろう。
このことは私たちの戦いにも当てはまる。私たちも危機に瀕している。そして戦いの秘訣は「黙している」あるいは「静まること」だと聖書は言う。それは「何もしない」ということなのか。いや、「黙していること」とは「何もしない」ということではない。モーセは何もしないどころかイスラエルを叱咤激励し、杖を差し伸べて紅海を二つに分けた。ダビデは石投げを準備し、巨人ゴリアテに立ち向かって行き見事打ち倒した。彼らは「黙して」いたが、何もしないとは程遠い大活躍をした。彼らは神の前に静まるとき、何もしないどころか、誰よりも熱心に働いて神の勝利の良き道具となることができた。私たちがあわてず騒がず、静かにしているときに、我々はもっとも賢くまた勤勉に働くことができ、神が我々を通して勝利を取って下さる。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(ロマ12:1)。私たちは礼拝の時、神の前に静まるべきことを知っている。奏楽のとき沈黙すべきことを知っている。ところがこの御言葉によると、私たちは、日曜礼拝の時だけでなく、24時間礼拝者である。旧約の時代、動物は殺してから祭壇にささげられた。だが私たちの場合は、自分自身を生きたまま祭壇にささげる。もう少し正確に言えば、私たちは24時間、祭壇に乗せられっぱなしなのである。よってクリスチャンの全生活は、礼拝における静まり、神の前における沈黙が支配する。
私たちはどのような危機にも平安である。進退窮まると思える時にも落着いている。じたばたしない。だがそのような静けさこそが、瞬時に適切かつ必要な行動をし得る最高の臨戦体制である。もし私たちの全生活を礼拝者の静けさが支配するなら、神が勝利を取られるとき、モーセのごとく、ダビデのごとく、神の良き道具となって、神に勝利を得さしめるために活躍できるだろう。
私にとって生活で最も大事なのはメッセージを語ることだが、礼拝中、最高のアイデアが生まれることが多い。礼拝中、良いアイデアが「降ってくる」。いわば礼拝における静けさは、私の生活に最も必要なものを与えてくれる苗床である。礼拝における静けさが、私の生活全体を支配するとき、きっといつも最高のアイデアが降りっぱなしに違いない。
「あなたがたは黙していなさい」(出エジ14:14)。礼拝における静まりは、日曜だけではない。行住坐臥、静まって神を神とするための訓練でもある。キリスト者は日曜礼拝時だけでなく、常に静まって、平安であり、落ち着いている。それによって、いつでも主のお呼びがかかれば、主の良き道具となって、主に勝利を得さしめるために活躍できる。
結論―神はパロを打ち破り給う
今日お読みした出エジ14:13のイスラエルへの言葉を、私たち自身への言葉として受け取りたい。
「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい」(出エジ14:13)。
皆さんの困難が打ち倒される「きょう」が必ず皆さんに訪れるだろう。神は真実なお方である。エジプト軍が紅海の底に葬り去られたように、皆さんの困難も神ご自身によって葬り去られる「きょう」が来るだろう。皆さんはその日、神のなされる救いを見るだろう。
神の「きょう」という日に、あなたの進路が決まるだろう。
神が勝利を取られ、あなたの就職先が決まるだろう。
神はあなたのために戦い、仕事上の困難に勝利を得させられるだろう。
神は、恐れずに黙しているあなたに、病の癒しを勝利の分捕り品としてお与えになるだろう。
「きょう」という日に、あなたの家族について神の想像を超えた大勝利を見ることになるだろう。
熊谷福音キリスト教会に、神は圧倒的な勝利を与えて下さるだろう。
皆様に神の祝福があるように。