自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ(1)

―健全な自己愛―

マルコ12:31

2011220聖日礼拝メッセージ

 

導入

 メッセージ後渡辺先生に講壇をお譲りし、ご病気と治療の報告、恵みの座等に時間を使っていただく。

 お読みした「隣人愛」は「神への愛」と共に、旧約律法で最も大事であり、かつ旧約律法全体を実践するための鍵である(マタ22:40)。だが隣人愛は「自分を愛するように」とある。よって今週はまず「健全な自己愛」を聖書から学び、その成果を踏まえ、来週「隣人愛」を扱うこととしたい。

 皆さんはご自分のことが好きだろうか。私は「自分のことが大好きな人」に囲まれている。私の幼馴染は教科書に自分の名前を書きその横に必ず「天才」「良い子」と付け加えた。私の妻に“I love you.”というと“Me too. I love myself very much.”と言う。訳すと「愛しているよ」「私も。私も私のこと大好き」。

自分のことがこれほど好きなら良いが、皆が皆、自分のことが大好きな訳ではないかもしれない。一方でこのような人々もいるかもしれない。

 ある人のことを好きになれない、あるいは赦せない。そんな自分を自己嫌悪している。

 自分はあまりに罪深い。そんな自分をとても愛せない。             

すぐに人を裁いてしまう自分が嫌になる。

 どうしても悪癖を変えられない自分に絶望している。

 私見では、多くのクリスチャン生活の問題は、自分との関係の不均衡に原因がある。自分のことが受け入れられない、自分のことが嫌いである、自分についてゆがんだ像をもっている、これらのことが、私たちの健全なクリスチャン生活を阻害し、私たちのクリスチャンとしての成長を阻んでいる。正にキリストのおっしゃる通り、自己との適切な関係及びそれに基づく隣人愛に、「律法全体と預言者とがかかっている」(マタ22:40)。健全な自己愛は私たちの豊かなクリスチャン生活のための重要な基盤である。

 

ポイント1.あなたは神の目に高価で尊い

 私はかつて自分のことが大嫌いだった。そんな自分に対する嫌悪感をいやすキッカケの一つは駒込の中央聖書神学校だった。神学校は全寮制で共同生活をしている。学生同士は、プライベート(生活)と仕事(勉強、伝道、奉仕)を全部一緒に行う。いわば学生たちは丸裸の私を知っている。そして自分が嫌いな私とも仲良くなってくれた。そういう意味で神学校時代の同窓生たちは何者にも代えがたい友である。彼らが丸裸の自分を好いてくれたことは、自己嫌悪から自己肯定へと変えられる一つのきっかけとなった。

 神学校の同窓生以上、私たちの親友以上、私たちの家族以上に、私たちのことを知り給う方がいらっしゃる。私たちのことを文字通り全て知っている方が一人おられる。その方は私たちに何と語り給うか。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4(新改訳))ご丁寧に「あなたがた」でなく「あなた」となっている。この聖句ではイスラエルをひとりの人物と見立てて語っている。ところでキリストを信じる私たちこそ、真のイスラエルである(ロマ4:16)。ゆえに、もしあなたがキリストを信じるクリスチャンであるなら、ちょうど「あなた」と個人的に語られているこの聖句を、あなた個人への語りかけとしてとらえることができる。

 神はあなたを愛しておられる。イザ43:4はあなた宛ての個人的なラヴレターである。他の誰でもない、あなただけに充てられた、他の人には内緒のラヴレターである。

ある父親が、娘に次のように言ったという。「皆には内緒だよ。兄妹の中でお前のことを一番愛している」。娘は自分のことを誇りに思っていた。ところで後で姉に聞いたら、父親は彼女にも「お前を一番愛している」と言っていた()。父親は嘘をついているのでなく、本気で言っていた。妹に対して本気で「世界でお前のことを一番愛している」と言い、姉に対して「世界でお前のことを一番愛している」と。それが親の正直な気持ちではないだろうか。どの子も「一番」なのである。神の私たちに対する語りかけも似ている。実は他の人もイザヤ43:3を通して神から「お前を一番愛している」と聞いているかもしれないが、いいではないか。神は私に対して、本気で「お前を一番愛している」とこの聖句を通して語りかける。神は本気である。真剣にありがたく、神の私への個人的な愛の告白を受け取ろうではないか。

 「あなたはわが目に尊く、重んぜられているもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える」(イザヤ43:4(口語訳))。神はあなたを愛しておられる。「あなたの代りに人を与え」(イザ43:4)。あなたの代りに、あなたただ一人のためにキリストを与え、十字架上で死ぬことを良しとした。父なる神の願いを完全に実現したキリストのことを父なる神は誇りに思っている。あなたは神にその命を賭しても惜しくない程愛されている。あなたはそれほどに神の目に尊く、重んぜられている。あなたはそれほどに神に愛されている。

 「主我を愛す」との実感は、私たちの内に隣人を愛する愛を育んでくれる。日々祈りと御言葉により神の愛を知り、隣人愛を育てて頂こう。

 

ポイント2.あなたは善をしたいと願っている

 「善をしようとする意志は、自分にはあるが、それをする力がない」(ロマ7:18)。妻はイギリスでカウンセリングの学位を取る予定である。妻は既に日本で多くの方にカウンセリングをする機会が与えられている。妻によれば、彼女のカウンセリングはすべて聖書に基づいている。そしてクリスチャン、未信者を問わず、聖書が人々を解放するのを私自身目の当たりにしてきた。そのような彼女のカウンセリングのキーワードの一つと思えるのが引用の聖句である。パウロは自分自身を見つめ、このように告白する。「善をしようとする意志は、自分にはあるが、それをする力がない(ロマ7:18)

妻のところへカウンセリングに来る方の悩みの多くは、自分を悪者のように感じ、罪意識を感じていることにある。障害をもった息子を愛せない。家族に対して忍耐がない。職場で出会う心無い人に対して、苦々しい思いを抱いてしまっている…。

当初妻のカウンセリングについて、人生のあらゆる局面、あらゆるタイプの方々を扱うので、さぞや複雑な内容なのかと思っていた。ところが段々、多くの問題は、図らずもある共通のパターンがある事が分かってきた。そのパターンとは、「どんな人も、良いことをしたいと願っている」ということである。神の似姿に造られた私たちは、本来悪いことをするようには造られていない。必ずしも達成し得ないかもしれないが、私たちはいつも「何か良いこと」をしようとしている。パウロによればその良いことの達成を阻害するものが「罪」である。

障害をもった息子に対してその母親が一日朝から晩までしてあげていることは脱帽である。愛がなければ一日たりとて、その息子にそこまでしてあげることは不可能であろう。妻はカウンセリングで概ね次のように語った。「お母さん、あなた程息子を愛している人はいませんよ。そんな大変な息子をお世話してあげられるのはあなたしかいないと、神様は障害をもった息子さんをあなたに託したのですよ。お母さんは『息子を愛していない』とご自分を責めておられますが、実際はお母さんの愛のおかげで、今の息子さんがあります。ただ疲れて、疎ましく感じたり、少し休みたくなったりすることがあると思うのです。でもお母さんの愛は明らかです。お母さんの愛は余りに大きいが、仕事もあるし疲れていて体がついて行かないのです。だからお母さんの愛を、息子に良い事だけをしたいという当初の願いをどうぞ保ってください。あなたがご自分の心を守らなければ、誰も守ってあげることはできません。」

人々は涙を流しながら、見違えるような表情になって帰っていく。だがその人たちは、本当の自分に出会ったに過ぎないのだ。ご自分の当初の良い心がけ、それが肉の弱さ、あるいは罪のために達成し得ず、自分でも本来の動機を忘れてしまっていた。だが、第三者を通して思い起こした。見失っていた自分に再会することができた。自分自身になることができた。そこには何らマジックはない。ただただ「自分自身となる」ことによって得られる解放がある。

 皆さんも同様だと思う。皆さんは良いことをしたいと心から願っている。だが肉の弱さ等のため、それを達成し得ず、自分を責め、自己嫌悪し、罪意識を感じている。どうか、初めのご自分の気持ちを思い起こして欲しい。あなたは「良かれ」と思ってそれをしたのだ。あなたの「良かれ」と思ってした心がけ、それをあなた自身が忘れてしまったら、一体誰があなたの心を守ってあげられるだろう。あなたの心を守ってあげられるのはあなただけである。

「あなたは善を願っている」。正しい自己認識は、隣人愛実践のための確かな土台である。あなたのそもそもの動機を思い起こし、自分の心を守ってあげていただきたい。

 

ポイント3.神はあなたが神の完全に達することを期待しておられる

 フィリピンの神学大学院で、教育心理学で次のようなことを学んだ。親が子供に「この子は落ち着きがなくて悪い子で悪戯ばかりしている」といつも言いながら育てると、本当に親の期待通り、「落ち着きがなくて悪い子で悪戯ばかりする子」に育つ。一方「この子は良い子で聞き分けが良くて賢い子なの」といつも言いながら育てると、本当に親の期待通り、「良い子で聞き分けが良くて賢い子」に育つという。いわば子は、親の期待通りに成長する。親は言葉の種を子供の心に蒔くのである。

 私たちの父なる神は、一体私たちにどれくらい期待しているだろうか。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)

 ワオ。これ以上大きな期待の言葉はあるまい。聖にして義、愛に満ちた神。あなたがこの方の完全に達すると、神は本気で期待しておられる。だが本当だろうか。山上の垂訓を始め、聖書の要求はあまりに高く、とても自分がそれを達成できると思えない、と言うのが正直なところではないだろうか。実際私も、当初それほど聖書に書いていることが本当に自分に起こるとはどれほど信じていたか心もとない。だが改めて振り返ると、神は既に私の可能性を聖書を通して数え上げ、事実今ではそれを自分の中に発見するに至っている。

 例えば、かつて私は絶望ということにかけては誰よりも自信があった。最悪の未来を予想することに長けていた。また忍耐がなく、誰よりも短気だった。だが神は楽観的である。こちらが気恥ずかしくなるような、私についての可能性を数え上げ、それが実現すると主張して憚らない。

「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す…」(ロマ5:3-4)。短気で暗かった私に無縁のような聖句である。だが神は諦めずに、楽観的に、粘り強く、これはお前の姿だよ。おまえ自身も知らない、お前の本当の姿だよ、とこの聖句を通して私に語りかけ続けた。

 そして事実、今では自分の内に忍耐を発見して驚く。自分の苦手なタイプ、訳の分からない質問をする方に対する忍耐が育ってきている。今ではそういう人に伝道をするのが大好きである。主は私自身知らない私の内にある可能性を探り当て、あなたは忍耐があるよ、と語りかけ続け、事実実現して下さった。また私は病院から絶望的な宣告をされた方の病の完全なる癒しを本気で信じている。絶望にかけては右に出る者のいなかった私が、希望に満ちてその方のために祈ることができる。

 このように、神は聖書を通して、あなたの限りない可能性をことごとく数え上げている。聖書は神のあなた宛ての個人的なラブレターである。「凄すぎる」「自分には無縁」と思うかもしれない。それでいい。それでこそ神の視点とあなたの視点が異なる証拠だ。だが信仰生活が進むにつれて振り返るならば、自分でも知らなかった美徳を、神は予め数え上げ、私たちに語りかけていたことを知る。一つ一つ私たちは自分の内にその美徳を発見している。

「神の完全」。これが、私たちの目指すべき理想の自己である。主の私たちへの無限大の期待を覚え、主の完全を目指すことを今日決断しよう。

 

結論

 「○○のことを好きになれない、あるいは人のことが赦せない自分を自己嫌悪している」。どうかご自分を嫌わないでほしい。神はあなたの丸ごとをあなた自身よりよく知り、なおあなたのことを心から誰よりも深く愛しておられる。聖書という神の熱烈なラヴレターを読んで、ご自分がどれほど神の目に高価で尊いか、日々発見して欲しい。聖書を読めば読むほどご自分の価値に目覚め、そして隣人への愛、奉仕の力、伝道の情熱にあふれる自分を発見するだろう。

 「罪深くいつも失敗する自分のことが大嫌いである」。だがあなたは「良かれ」と思ってやったのではないか。それがいつの間にか肉の弱さのため、誤った方向に行ってしまったのではないか。良いことをしようと願った自分の心を大切に。あなた以外誰もあなたの心は守れない。あなたの良い心がけはあなたの宝物である。大事に抱きしめて育んでほしい。

 「すぐに人を裁いてしまう自分が嫌になる。どうしても悪癖を変えられない自分に絶望している」。大丈夫。あなたは神の完全に達することができる。仏の顔も三度までだが、あなたは十度も二十度も人を赦す自分を発見するだろう。そして自分の拭い去ることのできないと思った悪癖から、いつの間にか解放され、きよめられているのを発見するだろう。神はあなたに期待し給う。神の目に狂いなし。

神の恵みにより自分を愛することができれば、驚くほど隣人に対する愛にあふれる自分を発見するだろう。実際このような体験をした。私はある人の癖が受け入れられなかった。ところが今日のメッセージを準備した後、その苦手な癖に接した時、自分の心が柔らかくなって、受け入れられるようになっているのを発見した。このように健全な自己愛をもつことは、隣人のあるがままを受けいれることへとつながる。自分を愛するときに、隣人をも愛することができるようになる。

皆さんがご自分を愛し、隣り人を愛することができるように、

皆さんがご自分のあるがままを受けいれ、隣り人のあるがままを受けいれることができるように、

皆さんがご自分と和解し、隣り人と和解することができるように、心から祈っている。