自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ(2)
レビ19:13-18
2011・2・27 聖日礼拝メッセージ
熊谷福音キリスト教会副牧師:荻野倫夫
導入
来週月曜から水曜日出席する教職研修会の中で、火曜日按手礼式が行われ、そこで私は晴れて正教師(牧師)となる。皆さんのおかげでここまで守られた。心から感謝。
礼拝の中で私にそっくりな方に読んでいただいたルカ10:25-37は、「隣人愛」について教える「良きサマリヤ人」という有名な譬話である。だが「隣人愛」はもともと今読んだレビ記に記されていた。こちらが本家本元。後で見るが、有名な「良きサマリヤ人」の譬話は、レビ記の美しい注解となっている。
先週、「自分自身を愛する」ということについて学んだ。私たちは愛されることを願っている。実際生まれた時から親の愛が私を育て、これまでも多くの人の愛に支えられ、今の私がある。愛なしには今の私はない。そして何よりも神が私を愛し、御子がその命を十字架に捨てても惜しくない程私を愛して下さっている。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)。この格言は「黄金律」の名で知られている。ビジネスの世界でも引用され、成功の秘訣と言われる。何よりもクリスチャンとしての成功の秘訣である。今度は私が愛する番である。自分が愛されたいと望むとおりに、人々を愛する。今週は「隣人愛」そのものについて学ぶ。
ポイント1.弱い人を愛せよ(13-14節)
先ほど献金をささげた。その献金の一部は、昨日のホームレス伝道のために用いられている。ホームレス伝道のための、献金、お米、奉仕のためのガソリン代、高速代等に使われる。皆様は献金を捧げることによって、もれなくホームレス伝道に協力している。なぜホームレス伝道を行うのか。私たちには食べ物があって、屋根のあるところで寝ている。一方で食べる物に事欠き、路上で生活している人がいる。それで良いはずがない。そうであってはならない。隣人愛とは、弱い人を愛することである。
13-14節は、「人の弱みに付け込んではならない」ことを教える。いくつか取り上げてみよう。
「あなたの隣人をしえたげてはならない」(13節)。いじめてはならない。学校、職場でいじめがあろう。いじめは、隣人愛と正反対である。いじめを見たなら、それに加担せず、却っていじめられている人を助けることが隣人愛である。
「耳しいを、のろってはならない」(14節)。耳の聞こえない人の悪口を言っても聞こえない。だから言ってしまう…これは人の弱みにつけこむことである。そのようなことをしてはならない。
「目しいの前につまずく物を置いてはならない」(14節)。盲人の前につまずく物を置いても見えない。だから置いてしまう…これも人の弱みにつけこむことである。そのようなことをしてはならない。
13-14節が教える「人の弱みに付け込んではならない」と言うことを積極的な言い方で言い代えると、「弱い人を愛せよ」ということになる。
私が熊谷福音キリスト教会を愛している。その理由の一つは、当教会が「手話通訳のある教会」として紹介されている点である。つまり耳の聞こえない人を愛し、それらの人々も一緒に礼拝に参加できる環境が整っている。さらに一歩進んで、皆さまはろう者の方々とあいさつされているだろうか。「手話が分からない」と言わず、どうぞ笑顔とジェスチャーであいさつを。
耳の聞こえにくい人もいる。今どれほど耳の良い人でも、いつか耳が聞こえにくくなる時が来る。そのとき自分にしてほしいことをするのが黄金律なら、聞こえにくい人の聞こえる声で喋るのが隣人愛である。その人は聞き返すのを恥ずかしく思う。その人たちを恥じさせてはいけない。大きな声で聞こえるようにゆっくり話す。「相手のためにしてあげている」感を出さずに自然に行う。これが隣人愛である。
車椅子の方が礼拝にいらっしゃることもある。車椅子を持ち上げ、あるいは介護の助けによって、教会の出入りをする。その際、「申し訳ありません」としきりに仰るが、そう言わせてしまうことこそが申し訳なく思う。どうか皆さん、積極的に、本人に頼ませず、私たちの方から気づいて、お手伝いしよう。
近い将来なされる新会堂建設のヒントに、私の友人の牧師が牧会する教会の新会堂を紹介したい。四階建て、バリアフリー、車いすがそのまま入れるトイレとエレベーターが完備されている。車椅子の方への愛が、建物に受肉している。私たちの新会堂も、弱い人への愛が表された造りにしたい。
ある人は精神面での弱さを抱えているかもしれない。それゆえ、他の人とは違う反応、言動があるかもしれない。いいではないか。神はその人をユニークにお造りになった。その弱さをあげつらわないようにしよう。私自身も弱さがあり、その弱ささえも、神に価値あり、尊しと言われ、御子が十字架に命を捨てるほど愛されている。どうして私たちが、人の弱さを愛さないでいられようか。人の弱さを取り上げて裁かないようにしよう。むしろそれを包み、受け入れ、愛そう。
ある方が、マザー・テレサの「死を待つ人の家」で奉仕をしたときのことをお聞きした。「死を待つ人の家」とは、誰にも看取られず死んでいく人々が、最後に愛を感じることができるようにと、マザー・テレサが創設した施設である。マザー没後も、その奉仕は続けられており、希望があればボランティアとして参加することができる。奉仕を終え日本に帰るとき、その方は「弱い人」にこう言われたという。「あなたのために祈っています」。弱い人を愛するときに気付くことは、実は私が一方的に愛しているのではなく、むしろ私がその方に受け入れられ、愛されているのだということ。「弱い人」の方がむしろ、愛が深く、賢明で、謙遜であることを知る。このことを発見するのも、弱い人を愛するとき与えられる恵みであろう。
ポイント2.隣人に正義を行え(15-16節)
『イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」』(ヨハネ4:16)。この言葉は、イエス・キリストがある女性に語った言葉である。二人は、対立する民族の壁を越えて会話をし、永遠の命に至る命の水にまで話題が及んだ。二人の蜜月である。ところが突然、二人の間に水を差すような言葉。女はかつて五人の夫がいたが、今一緒に住んでいるのは夫ではなかった。だがイエスはその問題を避けず、ずばり切り込んだ。この時キリストは愛であることを辞めたのだろうか…。否、愛そのものであるキリストは、毎瞬間愛である。女性を心から愛していたからこそ、「間違っていることは間違っている」と教えた。このように、愛は隣人に正義を行う。
15-16節は、「隣人に正義を行うべき」ことを教える。いくつか取り上げてみよう。
「さばきをするとき、不正を行ってはならない」(15節)。裁判員制度が導入され、我らも裁判にかかわることがあり得る。その際、どのようにかかわるべきか。今日の御言葉によれば、正義を行うことが隣人を愛することである。ではその裁きはどのようなものであるべきか。
「貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない」(15節)。貧しい家庭環境のゆえに、その罪は致し方なかった…としてはならない。それは神の似姿に造られた人間の良心、判断能力を侮ることである。その方は善をなし得る能力があった。しかしそれをしなかった。それゆえに、正しい裁きに服させることが、その人の人格を尊敬し、愛を実践することである。
あるいは、力ある者、富める者、権力者におもねって、裁きを曲げてはならない。裁きは、その人がだれであるかによらず、正しいか正しくないか、間違っているか間違っていないか、善悪の判断によって裁かれなければならない。「ただ正義をもって隣人をさなかなければならない」(15節)。
「民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない」(16節)。ゴシップ、噂話は隣人愛ではない。それによって、人が傷つき、人についての情報が間違って伝わり、問題を引き起こす。私たちは人と人との間に問題を引き起こす者ではなく、人と人との間を結びつける、平和を作り出す人とならなければならない。私たちは人について語るなら、聞いている人の益になる、聞いている人の徳を高めることを語るべきである。
「あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない」(16節)。人と人の間に争いを引き起こす、偽りの証言を行ってはならない。先程の裁判で言えば、人が間違って罰せられる、そのような証言をしてはならない。隣人に正義を行うことは隣人を愛することである。
兄弟同士、家族同士で教え合えるなら素晴らしい。ありのままを受け入れつつ、かつ教えることができ、矯正することができる。これが本当の隣人愛である。
自分の人生を振り返って、私を本当に愛してくれた人は、間違っていることは間違っていると面と向かって言ってくれた人である。愛がなければそれは言わない。ゆえに私たちも本気で親身になって隣人のことについて考えるなら、神が赦し、機会を与えるなら、正しいことを教えられるはずである。
「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び…」(ロマ12:9)。愛とは、正しいか間違っているかをあいまいにすることではない。愛は、正義を行うことである。偽りなき愛は、悪を憎み退け、善には親しみ結ぶ。真に隣人を愛し、隣人に正義を行おう。
ポイント3.あなたに罪を犯す者を赦せ(17-18節)
「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(創世記45:4-5)。この言葉は、ヨセフが自分の兄弟に語った言葉である。ヨセフは実の兄弟から妬みのために奴隷として売り飛ばされるという憂き目にあう。ところがヨセフは兄弟に恨み言を一言も言わなかった。ヨセフは自分に罪を犯した兄弟を赦していた。それゆえに「私をここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりません」と言ったのだ。
このヨセフを例に取り上げつつ、17-18節を学ぼう。17-18節は、「あなたに罪を犯す者を赦せ」と言うことを教える。
「あなたは心に兄弟を憎んではならない」(17節)。ヨセフの場合は、文字通り自分の兄弟を憎まなかった。私たちに当てはめ考えるなら、私たちはクリスチャンもそうでない人も、ただひとりの天の父をもつので、私たちの出会う人はすべて兄弟姉妹である。だから誰をも憎んではならない。
「あなたの隣人をねんごろにいさめて…」(17節)。ヨセフは、自分の兄たちに、「自分の兄弟を売ってはならない」と言うことを実体験を通して教えた。つまり兄弟を赦しつつ、適切に教えた。
「彼のゆえに罪を身に負ってはならない」(17節)。もしヨセフが自分に悪をなした兄弟を恨むなら、自分自身の身に罪を負うこととなっただろう。英語では「罪を分け合う、山分けする」と言う表現がなされている。私たちに悪を行った人を恨むなら、私たちもその人の悪に預かることになる。悪を共有していることになる。だから、悪をなされたとしても、その人を恨んではならない。その人のゆえに、私自身が罪を負ってはならない。
「あなたはあだを返してはならない」(18節)。ヨセフは自分を奴隷として売り飛ばした兄弟に、復讐しなかった。
「あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない」。ヨセフは兄弟のした悪を忘れた。無論兄弟の方では忘れることはできない。彼らの父親が亡くなるとき、兄弟は復讐されるのではないかと恐れた。ヨセフの方では、兄弟のした悪を完全に忘れ去っていたので、そのように恐れなければならない兄弟を可哀想に思い、気遣うほどだった。
神は隣人の悪からも善をもたらすことがおできになる。ヨセフは兄弟から奴隷として売り飛ばされた。これはまごうかたなき悪である。だが結果ヨセフはエジプトの大臣まで登りつめた。そして未曽有の大飢饉が襲ったとき、彼は家族ばかりか、エジプトと近隣諸国を救った。これらは正に善である。だがもしヨセフが兄弟を赦していなかったなら、この善を見ることはできなかっただろう。兄弟を赦していたので、神はこれらの素晴らしい善を生み出したことで神をほめたたえ、兄弟にも優しく接することができた。我らに罪を犯す者を我らが赦すとき、我らは神が悪から善を生み出したことを知る。目が開かれ、善を見ることができる。恨みごとを言う代わりに、神を賛美することができる。
私たちに悪をなす人がいるかもしれない。だがそれらの人の悪を赦そう。私たちは主の祈りにおいて「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく…」と祈る。毎週祈る。だから私たちはいつも、「私たちに罪を犯す者を、私たちは赦します」と告白し、祈っている。祈りは聞かれる。皆様は、皆様に悪をなした人を赦すだろう。
そして神は、悪から善をもたらすことがおできになる。人のなした悪から、神は善をもたらす。この善を見ることができるのは、赦した者の特権である。ヨセフが自分を奴隷に売りとばした兄弟を赦し、神がどんなにかこの悪から素晴らしいものを生み出してくださったか見ることができたように、私たちも赦しにより、神の奇跡のみわざを拝させて頂こう。神は神を愛する者たちに対して、万事を益として下さる。悪さえ、善に転じて下さる。神に栄光があるように。
結論
イエスの譬話「良きサマリヤ人」はレビ19:13-18の美しい注解である。
隣人愛は弱い人への愛である。半殺しになっている人を助けるよりも大事なことはない。弱い人、困っている人、その人たちを助けること以上に大事なことはない。それをおいて、他に優先することはない。私たちは弱い人への愛を全てに優って最優先しよう。
隣人愛は隣人に正義を行う。通り過ぎて助けなかった祭司、レビ人は、礼拝の奉仕に急いでいたのだろうか。礼拝に急ぎ、正義を疎かにしてしまった。礼拝、教会が大事なのは言うまでもない。だが正義なしの礼拝、祈りは虚しい。神は正義を行わない者の礼拝、祈りを受け給わない(イザヤ1:13-17)。隣人愛を行うとは、正義の味方となるということである。正義を行おう。
隣人愛は我らに罪を犯す者を赦すことである。ユダヤ人は、サマリヤ人に終始冷たく接した。歴史家は、元をたどれば同族のサマリヤ人が滅ぼされる様子を見ながら、ユダヤ人は指一本動かさなかった、と記している。そのような民族的には大敵であるユダヤ人を、この「良きサマリヤ人」は助けた。なぜなら隣人愛とは、自分に罪を犯す者を赦すことだからである。私たちも「我らに罪を犯す者を赦す」その特権に預からせて頂こう。