イエスのように

Tコリント9:19-23

201136 聖日礼拝メッセージ 

熊谷福音キリスト教会副牧師:荻野倫夫

                                                                                                                        

先週の月曜から水曜、教職研修会に参加。火曜日、按手礼を受け、正教師(牧師)に。皆さんの祈りに守られ感謝。研修会では理事長が教団の年間聖句から説教。教団の年間聖句は以下の通り。『「宣教力UP!」~あらゆる賜物を用いて、何とかして、幾人かでも~ Tコリント9:22c~23』。教職研修会では、初日、二日目、三日目つまり全期間、渡辺正晴先生の名をあげ、癒しのために祈って下さっていた。翻って私はどうだろうか。「私はどれだけ教団のために祈っているだろうか。教団の年間標語を教会に伝え、達成に努めるべきではないか」ということを問われた。ということで今日は教団の年間標語を学ぼう。神は教団の年間聖句を通し、熊谷福音キリスト教会の必要を満たそうとされていると信じる。

 「宣教力UP!」つまり「宣教力強化」ということ。宣教力強化の処方箋が、今日読んだ聖書箇所に書かれている。週報裏に、今日の聖書箇所を分かりやすく整えた文章が印刷されている。参照下さい。

 「宣教」あるいは「伝道」とは、狭義には未信者にキリストを伝え、信仰告白に導くことだと解されよう。だが広義的には、私たちの全生活は伝道である。なぜなら相手が未信者であれクリスチャンであれ、私たちはキリストを表したいと願っているからである。だから今日の説教で言う「伝道」は、もちろん未信者を信仰告白に導くことを含むが、それだけでなく、あらゆる人に対してキリストを表す、そのような目論見も含まれていると解されたい。

 今日の聖書箇所で、伝道のために用いるのは何だと言っているだろうか…。そう、伝道の道具とはあなた自身なのである。何かの方策(doing)よりも、あなたが相手のようになること(being)、これこそが「宣教力強化」に最も必要なことである。なぜならそれはキリストの宣教の方法だからである。

 

ポイント1.イエスの愛

 妻の姉のアニーの子供を「自由」と言い、現在生後四ヶ月。今や妻の姉夫婦の生活は全て自由中心である。妻の姉夫婦だけでなく、親は赤ちゃんのために何でもする。家庭は赤ちゃん中心に回る。親は愛のゆえに喜んで、赤ちゃんの僕となる。

同様にキリストは、私を愛するあまり、進んでご自分のすべてを変えた。人間になること、僕になること、奴隷になることを厭わなかった。19節を見てほしい。「自由であるが、進んで奴隷になった」とは、キリストの方法であり、それをパウロが倣っている。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6-8)。キリストは、神を知らない罪深い私を、まず矯正しようとなさらなかった(ロマ5:8)。キリストは罪人の私が最初に変わることを求めなかった。キリストはまずご自分を変え、人間となり、僕となり、奴隷となって私たちに仕えた。旧約聖書によれば、奴隷でさえ、主人の好き勝手に殺すことは赦されなかった(出エジ21:20)。キリストは私のためにご自分の命を捨てた。いわば奴隷以下になって私に仕えて下さった。私のために奴隷以下へと下って下さった。

私たちはどうだろうか。「相手が変わったら私も態度を変えてあげよう」と思うことはないだろうか。キリストは、私が変わるより先に、ご自分を徹底的に私のために変えて下さった。我らはキリストの弟子である。キリストに倣う者である。だとするなら、相手が変わることを期待する前に、まず自分を相手に合わせて変えなければならないのではないだろうか。それが「イエスに倣うこと」ではないだろうか。

私はかつて絶望の中にいた。ところがキリストは私と同じ絶望を経験して下さったことを知った。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マルコ14:34)。キリストは私を理解し、私に共感するため、私と同じになって下さった。ここに愛がある。私と同じになって下さったことによって、私はキリストの愛と救いを知った

 キリストは私たちに、キリストの地上の働きを継続してほしいと願っている。キリストが相手に合わせてご自分を変えたように、私たちが相手に合わせて自分を変えることを願っておられる。あなたはこの招きにどう応えるだろうか。

 私たちは人の救いのため、人を助けるためにあらゆることをしてきたかもしれない(doing)。それでも効果がないようにも見えたかもしれない。だが私たちは相手に合わせて自分を変えただろうか(being)。キリストがそうなさったように。もしそれをしていないなら、試してみる価値がある。「私は私だ」というところに留まらず、キリストのごとく、相手に合わせて自分を変える、そのような伝道、助けをしてみてはいかがだろうか。

 

ポイント2.イエスのように

パウロは忠実にイエスの伝道法を実践した。パウロは、救いは信仰のみによるとして、割礼による救いを説く者を激しく攻撃した。一方で、ユダヤ人伝道の前にテモテに割礼を受けさせる柔軟さをもっていた。すなわち、救いの本質に割礼は関係ないので、その点について激しく戦いつつも、ユダヤ人の救いのためユダヤ人のようになり、テモテに割礼を受けさせた。正に相手に合わせて自分を変えるイエスの伝道法である。

イエスの伝道の法則は以下である。「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(ヘブル4:15)。避けるのは罪のみ。罪は死に至る病だから。だがそれ以外は、福音のためにどんな事でもする(23)。特に、自分を相手に合わせて変える(20-22)。これがキリストの伝道法である。

@共感しつつ伝道する

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ロマ12:15)。キリストに倣う伝道とは、相手に共感する伝道である。共感は神が与えた偉大なプレゼントである。私の経験上、全く話が通じない人とも、共感は可能である。理性的に話を合わせることが難しい相手でも、心を共有することはできる。

あるとき、どうやっても理性的に話が通じない人がいた。だがその人の目を見て、心の動きを知ろうとするとき、その人の悲しみに共感することができた。そこでその人のために祈ることができた。またある時、やはり話は全く通じなそうだった人と、一緒に笑い合うことができた。神の恵みにより、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことができた。仮に今は心の病をもっていて理性的な会話が困難な方とも、共に悲しみを共有し、共に喜びを共有することはできる。その心に寄り添うことはできる。あなたが心を分け合うことはその人の癒し、救いの突破口となろう。そしてキリストを伝えるのは、未信者ばかりでない。クリスチャンにも、私の存在を通してキリストを伝えることができる。キリストを伝えることは未信者、クリスチャンを問わず、相手の方にとって最高の祝福となる。

 

A相手の目線で伝道する

「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった」(1コリ9:20)。私が好きなカトリックの哲学者でギトンという人物がいた。当時の教皇曰く、「誰でもギトンと2時間いれば、皆クリスチャンになってしまう」。何が教皇をして「彼と2時間いれば、誰でもクリスチャンとなる」とまで言わしめたのか。彼は、哲学者でもあったが、「自分の書いた本をすべて論駁できる」と言っていた。どういう意味か。彼は自分と反対側の人の気持ちになって考え抜くことができた。それが「どんな人でも2時間いればクリスチャンにしてしまう」伝道の力だったと思う。

私たちは通常それができない。自分と違う立場、正反対の人の立場で考えてみようなどと夢にも思わない。自分の苦手な人であれば、その人のように考えることを毛嫌いさえするかもしれない。だがパウロは、頭の固いユダヤ人には、自分も頭の固いユダヤ人のようになって、テモテに割礼を受けさせた。それによって、ユダヤ人の気持ちを理解し、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人の目線で伝道をすることができた。

私たちはまず共感しよう。共に泣き、共に喜ぼう。そのように気持ちを共有するときに愛が生まれる。共感できたなら、その人のように考えることも可能となる。その人のように考えるなら、その人の考えや論理を理解することができる。理解してもらった人は、理解者を得たと感じ、少しずつ心を開いてくれるだろう。

B相手の世界に飛び込んで伝道する

「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」(1コリ8:13)。パウロは、偶像に捧げた肉を食べても罪でないし、救いにも影響しないと考えている。だがもし肉を食べることが兄弟をつまずかせるなら、私は決して肉を食べない、と断言する。例え肉をたしなむとしても、福音のつまずきになるなら、私は自分を相手に合わせて変える、と言っている。

 他教会での出来事。教会員の方のお迎えで、未信者のご家族が教会に来た。まだちょっと事務の仕事があって時間がかかるというので、ご家族の方には教会で待っていただこうということになった。やや言葉使いの荒い人だったが、私が丁寧に対応した。だが頑として教会に入ろうとしなかった。そのとき妻が来て、その人に合わせてやや荒々しい言葉で対応した。その人は嬉しそうに教会に入ってきた()

私たちクリスチャンは自分なりのスタンダードをもっている。「クリスチャンはこうあらねばならない」「牧師はこうあらねばならない」等々。そのスタンダードを崩すのは勇気がいる。だが幾人かでも救うため「えいやっ」とその人の世界に飛び込むなら、その人は救い主、癒し主、助け主であるキリストに、徐々に心を開いてくれる。

 

ポイント3福音のご相伴

 妻の家族や妹が住む川口に行くと、しばしば家族を誘って、「つけ麺102」に行く。私は絶妙に美味しく脂っこいその味を「美味し気持ち悪い」と呼んでいる。一緒に行った家族は「ありがとう。美味しかった」というが、本当は私が一番喜んでいるのである。一緒に食べた家族も喜んでいるが、私が一番うれしいのである。

 人をキリストのもとに連れて行くこともこれに似ている。キリストの福音は全ての人を最高の喜びで満たす。だがキリストの元に連れて行った私自身はもっと嬉しいかもしれない。この事をパウロは「わたしも共に福音にあずかる」(23)と表現している。キリストを表す者は、福音のご相伴に預かる。相手も嬉しいが、自分はもっと嬉しいかもしれない。

キリストを表すことは、私自身の救いの達成に努めることなのだ(ピリピ2:12)。救いはちょうど、腕の良い医者にかかったようなものである。我々はキリストと言う魂の名医にかかり、「必ず治る」と言われた。そういう意味では、私たちの救いは、ただキリストのわざによる。一方で私たちの節制が、養生に影響を及ぼすのは明白である。キリストの心を心として、私たちが相手に合わせて自分を変えることは、ちょうど良く休んで、栄養を取り、薬をしっかり取ることに似ているのかもしれない。それによって、キリストの救いが、より完成へと一歩近づくのだ。だからキリストのように、相手のために自分を変えることは、私たち自身が福音のご相伴に預かることになるのだ。

もちろんキリストを伝えていた。キリストを伝えるためにどんなこともしてきた(doing)。そうかもしれない。しかし今朝、御言葉からのチャレンジを受け取りたい。あなたの一つしていないことがある。キリストを伝えるのみならず、キリストのように伝えたか。ご自分を否定し、無にして福音を伝えたキリストのように、自分を否定して、無にしてキリストを伝えたか(being)。私が恐れることは、講壇でキリストを語っても、「私」と言う存在が大きすぎで、人はキリストを見ることができなくなることである。私が相手に合わせて自分を変えるなら、私でなく、キリストが伝わる。私がキリストを伝える器となって用いられる。

「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」(2コリント4:5)。私と言う乗り物は一人乗り。二人を乗せることはできない。私かキリストか、二人のうちどちらを乗せるか選ばなければならない。「花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:29-30)。「花婿の友人」とは私たちである。「彼」とはキリストである。これらを代入すると以下のようになる。「私は立ってキリストの声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びは私に満ち足りている。キリストは必ず栄え、私は衰える(ヨハネ3:29-30を私たちに当てはめた場合)。自己顕示欲に生きるなら、私たちは決して満足できない。だがキリストのように、自己を否定し、相手に合わせて自分を変えるなら、キリストのみを伝えることができる。その時私たちは大いに喜び、私たちは喜びに満たされる。

 

結論

私が個人的に苦手なのは、話があっちこっちに行ってしまう人である。そのような人と話しているとき、「相槌を打っているが、目から関心の色が消えている」ことに気づき、妻もそのように感じたようだった。「その人のように」なっていない自分を示された。そこでその人が「ぐるぐるする」なら、一緒に「ぐるぐるしてしまう」ことを良しとした。理路整然としていなければいけない、という無言の上から目線の要求をするのを辞めた。始めは抵抗があったが、「えいやっ」とその人の世界に飛び込んだら、結構楽しかった。今ではその人と良い友人となることができている。現在も喜びの伝道を継続中である。「わたしも共に福音に」あずかって、福音のご相伴中である。

私たちはクリスチャンのスタンダードを作り、見えない壁を作り、人々をキリストから遠ざけることのないようにしよう。全ての人は救い主、癒し主、助け主であるキリストに招かれている。我々はキリストの大使である。我々の「お高くとまった」態度が、人々を福音から遠ざけることのないようにしよう。むしろキリストに倣ってプライドも立場もかなぐり捨て、すべての人に対してすべての人のようになろう。そうして私と言う自己否定の器を通して、キリストが宣べ伝えられることを求めていこう。