ルカ12:54-13:9
2011・3・13 聖日礼拝メッセージ
熊谷福音キリスト教会副牧師:荻野倫夫
導入
四月から、副牧師として就任される山本憲治先生ご一家をお迎えするため、教会では昼夜を分かたず片づけの奮闘がなされている。渡辺先生はご病気で動けない(それで大事なものが捨てられてしまう…ことがないようにお祈り頂きたい)。睦子師が一人でやって倒れてしまっても困る。そこで富田さんが仕切って、どれを残し、どれを移動し、どれを捨てるか、昨日も一日かけて有志の方々が手伝ってくださった。心から感謝。
既に申し上げている通り、数週間前教職研修会に参加した。全国400の教職の内、200程のアッセンブリーの教職が一堂に会した。そこで私も改めて実感したが、全教職が、そしてそれぞれの牧会する教会の方々が、渡辺先生のために、熱心な祈りをささげて下さっている。感無量であった。私たちの教会だけでも、熱き祈りがささげられ、一致を生み出していた。だが全国の数百規模の教会が応援して下さっている、というのは新たな感動であった。多くの兄弟姉妹の助けがあることを肌で実感した。
先日、東北地方を襲った大地震により、数千人規模の死者、行方不明者が出ている。また命は助かったが、被災プラス積雪というような、不自由な生活を強いられている方は未だに数多くいる。渡辺先生のためにあれだけ心を注ぎだして祈っていて下さる方々である。今度は私たちが東北の方々に、ご恩返しをしたい。ショックと悲しみの中におられる方々が励まされ、慰められるため何かをさせていただきたい。具体的には祈りを通して、義援金を通して、その他私たちのできることを通して、被災された先生方、信徒の方々を応援したい。
また私たちの家族や親せき、友人が、被災した、という方もおられるかもしれない。そして顔も存じ上げない被災された全ての人のために、私たちクリスチャンは、今日も御言葉に聞き、とりなしの祈りを捧げたい。
以前「だんご三兄弟」という歌が流行った。それぞれ串団子一郎、串団子次郎、串団子三郎という。今日お読みした聖書箇所も三兄弟である。三つで一つである。今日読んだ箇所は、章をまたがっているし、それぞれの段落も、理解が簡単ではない。だからなおのこと難しいものをたくさん抱えたくないと思うのも無理はない。だがこれらは三位一体。三つで一つとして扱うのが、本文を公平に扱っていると思われる。一郎と次郎の間、13:1「ちょうどその時、」とは、前章12章の終りで、イエス様が群衆に話をしているときのこと。つまり章をまたがっていても、それは後代の人が勝手にやった事であって、本文は、連続して読まれることを欲している。次郎と三郎の間、13:6「それから」とある。すなわち13:1-5で話したことの主眼点を、改めて強調するために話された譬である。よってこれら三兄弟を一本の串が貫いている。そのメッセージとは「悔い改め」である。今日は「悔い改めの実を結ぼう」と題してメッセージを取り次がせて頂く。
ポイント1.災難における神とクリスチャンの役割
20世紀のユダヤ人哲学者でエマニュエル・レヴィナスという人物がいた。20世紀のユダヤ人と言えば、ナチスにより600万人の同胞ユダヤ人が殺されるという悲惨を体験。レヴィナスはユダヤ人として、哲学者として、このことについての思索を深めた。だが、彼は「なぜ600万人の同胞が殺されたのか」ということについてでなく、「なぜ自分が生き残ったのか。生き残った自分の、神の前における使命は何か」ということについての思索を深めた。
われわれも敬虔なユダヤ教徒レヴィナスに倣う必要がある。すなわち「なぜ地震で多くの方々が亡くなったのか」ではなく「生き残った私たちの使命は何か」を考えるべきである。
@因果応報ではない
数年前フィリピンで起きた津波について、フィリピンの新聞に「Act of God?」との見出しが出た。直訳すると「神の行為なのか?」となる。“Act of God”は「天災」の英語表現である。それをそのまま、新聞の見出しに使って、「この津波は神の罰なのか」と問うたのだ。皆さんはどう思うだろうか。
今日の聖書箇所で、キリストは因果応報を完全に否定している。ルカ13:2を見てほしい。ある無残な死に方をしたガリラヤ人は、他のガリラヤ人より罪が深かったのではない。またルカ13:4を見てほしい。当時シロアムの塔が倒れて死んだ十八人は、他の住民以上に罪の負債があったわけではない。先日起った出来事も同様である。東北地方太平洋沖地震で亡くなった人は、他の日本人以上に罪深かったわけではない。
では、なぜこれらの方々が亡くならなければならなかったのだろうか。聖書は、これらの不条理な死の原因を明言していない。ただ「因果応報ではない」と断言して、人を罪の罰の呪いから解放する。
災害による死の原因について聖書は明言しないが、その際に感じる神の気持ちについては明言がある。
A泣く者と共に泣こう
「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。キリストは、地上で愛された友人ラザロの死に際して、涙を流された。ラザロの死に際し多くの人々が泣いていたが、キリストも共に涙を流した。これがわれわれの神である。神は、「なぜあの人たちが死ななければならなかったのですか」という問いには答え給わない。その代わり、泣く者と共に泣き、悲しむ者と共に涙を流し給う。今回の地震による犠牲者のため、悲しむ者のため、キリストは涙を流しておられるだろう。それがわれわれの信じる神である。
「泣く者と共に泣きなさい」(ロマ12:15)。私たちも共に涙しよう。不条理な死の原因を知的、神学的に探ることを、当時キリストの弟子もしたがったし(ヨハネ9:1-3)、クリスチャンもしたがる傾向がある。だがキリストによれば、それは私たちのなすべきことではない。そうではなく、キリストの心を心とし共に涙すること、被災し悲しみの中にある者と共に泣くことが、私たちクリスチャンの役目である。
Bとりなしの祈りを捧げよう
先ほど、ラザロの死にキリストが涙を流された話を取り上げた。その際、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤは、キリストにすがり続けた。涙にくれながら、あなただったらラザロを助けられた、と訴えた。キリストは心動かされ、涙を流すばかりか、何とラザロを死から復活させる奇跡を行う。人々の流す涙、訴えに突き動かされ、キリストはその御手を動かすに至った。
私たちもマルタ、マリヤと同様のことをしたい。東北地方には私たちのとりなしを必要とする多くのラザロが今も苦しんでおられる。私たちが神の前に涙を流し、祈ることを通して、キリストがあわれみの御手を動かされるように。被災された方々が慰められ、励まされるように。家族や友達を失った方々の悲しみが癒されるように。まだまだ厳しい生活が強いられる被災者の方々が、「ひとりではない」と感じることができ、我々の愛を感じることができるように。具体的な助けを得、この患難を乗り切ることができるように祈ろう。しばらく祈りの時をもとう。
ポイント2.天地の模様よりむしろ、今の時代を見分けよ
ミャンマー人である妻は、日本人の天気予報の細かさに感嘆している。とりわけ桜の開花予想には舌を巻いている。どうやら日本は、天気予報が得意なようである。
そんな私たち日本人にとって、12:56のイエス様の言葉は衝撃である。イエス様は、それだけ天気予報が得意なら、今の時代を見分けることができるはず、その事の方がはるかに大事なことではないか、という。そして58-59節の話をなさった。その話の要旨は「あなたを訴える人と和解せよ」ということである。これは何のことだろうか。これは「あなたを裁くことのできる神と和解せよ」ということである。「あなたの人生の終わりが来て、手遅れになる前に、早めに、今生きている間に神と和解せよ」と。
つまりこの初めの団子、串団子一郎をまとめると、「あなたは天気に備えるが、最も大事なのは死後の備えではないが。最も大事なのはあなたが神と和解することではないか」となる。この関連で二つ目の団子、串団子次郎はこうなる。「突然の死を見て、人のことについて神の裁きを思うのは間違っている。むしろ自分自身の神の裁きのことを覚え、悔い改めよ」と言っている。
私たちの命はいつ終わるか分からない。その死は今回の災害のように突然やってくるかもしれない。私たちは自分でも知らぬ間に死んで、気づいたら裁き主である神の前に立っていることになるかもしれない。あなたはその準備ができているだろうか。いつあなたの人生の終わりが来ても良いように、神の前に出られる準備ができているだろうか。
2月22日、ニュージーランドのクライストチャーチで地震が起こった。テレビで被災された方が「この世の終わりかと思った」と仰っていた。先日の東北地方太平洋沖地震後、やはり被災者が「この世の終わりかと思った」と仰っていた。これが「今の時代を見分ける」ということである。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来るのである。その日には、天は大音響を立てて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(IIペテロ3:10)。 クライストチャーチ、あるいは東北地方を襲った地震は、私たちに世の終わりを思わせる。「いつかこの世は終わる」ということを思い起こさせる。
十代の時、アルバイトから自転車で帰って来た。交差点でぞくっとして急ブレーキ。猛スピードのダンプが私を追い越して目の前を左折していった。もしブレーキをかけていなかったら、巻き込まれて死んでいたかもしれない。死の手触りを感じた瞬間だった。
あの時、私は自分で生きているのではなく「生かされている」ということ、そして「いつかはこの人生に終りがある」ということを一瞬にして直感した。
私たちは今生かされている。だが必ず終りが来る。総決算の時が来る。私たちはいつでも神のみ前に出られるだろうか。いつ終りが来ても良いように、罪の染みのない服を毎日着ているだろうか。
ポイント3.悔い改めの実を結ぼう
ぶどうの木はぶどうの実を結ぶ。いちじくの木はいちじくの実を結ぶ。クリスチャンは悔い改めの実を結ぶ。クリスチャンは悔い改めの実を結んで何ぼのものである。
ところで「悔い改めとは何か」。何事かを定義する際、その逆を考えると、輪郭がはっきりする。悔い改めの逆は、「心を頑なにすること」である。
イスラエルがエジプトで奴隷となっていた時、パロ(ファラオ)は心を頑なにして、イスラエルを解放しなかった。このパロの状態が、悔い改めの真逆の状態と言える。すなわち、神のわざを見、神の声を聞いても、心を頑なにして拒み続けるということ。これが「悔い改めの逆」である。
いよいよ三つ目の団子、串団子三郎に触れる。これは「ぶどう園の譬」と命名することができる。「いつまでたっても実を結ばないいちじくの木が、園丁のとりなしによってもう少し生き長らえる」という話である。一体これは何の話をしているのだろうか。この実を結ばない木は、私たちのことである。
レヴィナスと共に尋ねよう。「なぜ私は生き残っているのだろうか」。それは悔い改めの実を結ぶためである。神はぶどう園の主人のように、私たちを切り倒してしまうこともできた。だが私たちは生き残った。なぜか。「それで来年実がなりましたら…」(ルカ13:9)。私たちは悔い改めの実を結ぶことが期待されている。「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら…あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル3:7-8)。あなたは今日、御声を聞いていないだろうか。この度の災害を通して、「自分は神の前に出る準備ができていない」と思ったなら、あなたは心を頑なにせず、悔い改めるべきではないだろうか。今日聖書の言葉を通して、「私は悔い改める必要がある」と思ったなら、神の前に心から悔い改めるべきではないだろうか。
「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った」(Iテモテ1:19)。クリスチャンも心を頑なにして、悔い改めることをしないなら、「信仰の破船」に会うことがあり得る。気を付けよう。
クリスチャンにとって何が最も大事だろうか。失敗しないことだろうか。失敗しても大丈夫。悔い改めるなら。クリスチャンにとって最も大事なことは悔い改めることである。信仰歴が長くとも、伝道者牧師であろうとも、神の前に一人の罪人であることを覚え、悔い改めること、これがクリスチャンにとって最も大事なことである。
私が講壇から人に教えるばかりで、自分が悔い改めることをしないなら、私は信仰の破船に会うことになるだろう。「われらの主イエスが、『悔い改めよ』と言われた時、その信仰者の全生涯が悔い改めであることを意味しておられた」(マルティン・ルター「95箇条の提題 第1条」)。クリスチャン、未信者を問わず、神の御言葉に心刺されたなら、神の前にそのことを悔い、心を改めるべきである。心の方向転換をし、生き方を軌道修正すべきである。クリスチャンとは何か。悔い改める者である。何が我々をしてクリスチャンたらしめるのか。悔い改めである。「我悔い改めるゆえに我あり」。
結論―悔い改めの実を結ぼう
「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13:3、5)。上記を積極的に言い代えるなら、次のようになる。「あなたがたが悔い改めるならば、みな同じように救われるであろう。」
私たちは心を頑なにすることのないようにしよう。頑なにするなら、御言葉の種がまかれても、跳ね返されてしまう。悔い改めることができなくなってしまう。
心を良く耕して柔らかにしよう。そうでないと、御言葉の根が生え出ても、その後力強く成長しないかもしれない。
心の畑の雑草取りをしよう。そうでないと、せっかく耕された心に根が力強く張っても、様々な世の心遣いが邪魔をしてしまう。神の言葉が陰ってしまって成長しない
どうやったら悔い改めの実をたわわに結ぶことができるか。心を柔らかにし、心の雑草を取り除いた上で、神の御言葉を良い心でしっかりと受け止めることである。そうするならあなたの心で、神の言葉が深く根を張り葉を伸ばし、30倍、60倍、100倍の実を結ぶだろう。私たちは悔い改め、救われる者となろう。