あなたに知ってもらいたい福音の前進

ピリピ1:12

2011320 聖日礼拝メッセージ 

熊谷福音キリスト教会副牧師:荻野倫夫

 

導入

 今日は二部礼拝にてI.N君の洗礼式が行われる。個人的なことだが正教師となって初の洗礼式、感無量である。次は初の結婚式の司式を楽しみにしている。

 260年続いた江戸幕府の恐れたもの、それは「福音」であった。なぜなら福音は、あらゆる困難、障害に打ち勝って前進するからである。江戸幕府の政策として有名な「鎖国」「檀家制度」は、福音の前進を食い止めるための政策である。「鎖国」は、これ以上福音が外から入ってこなくなるように。「檀家制度」は、「私はクリスチャンではありません」という証明によって、福音を根絶やしにしようとするためであった。江戸幕府の恐れた「福音」は、今もその力を発揮し、前進することを辞めない。

 

ポイント1.福音

 東北大地震、計画停電、電車の運行状況、福島原発等、特にニュースに聞き入った週ではなかっただろうか。だが私たちにとってもっと大事なニュース、それは教会の発するニュースである。教会の発するニュースは「福音」という。「福音」とは「良きおとずれ」「良いニュース」を意味する。テレビや新聞のニュースは、殺人事件やスキャンダルなどの悪いニュースを伝えることがあるが、熊谷福音キリスト教会ではその名前に「福音」と入っているように、「良いニュース」をお伝えする。ポイント1として、「福音」特に今日お読みしたピリピ書を書いたパウロが意味する「福音」について学びたい。

@こだわりの逸品?

わたしの福音によれば…」(ロマ2:16)

「願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより…」(ロマ16:25)

その道のプロによる「こだわりの逸品」であれば、思わず素人も身を乗り出そうというもの。福音宣教職人パウロがいう「わたしの福音」。正に「こだわりの逸品」「極上の品」であろう。

「わたしは福音を恥としない」(ロマ1:16)。「恥としない」とはむしろ「大いに自慢している」「心から誇りに思っている」という意味である。

Aキリストの福音

 「キリストの福音」(ガラ1:7)

 パウロにとって福音とはキリストであった。これは他の新約聖書記者にとっても同様である。

 「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)

 「福音」すなわち、「心躍るような良き知らせ」は、「キリストについての福音である」というのは新約聖書記者共通の了解事項である。だが次に見るように、パウロにはある特徴がある。

BGeschichte(ゲシヒテ)

 ドイツ語で「歴史」という言葉は二つある。Historie(ヒストリエ)Geschichte(ゲシヒテ)である。ドイツ系の神学者は、両者に以下のような意味を付与した。

         ヒストリエ (Historie)  ゲシヒテ(Geschichte)

「生の歴史」 「歴史の意味」

 

 マルコをはじめとする福音書記者とパウロは、以下のような強調点の違いがある。

    ◇四福音書              ◇パウロの手紙

主にキリストの生涯の「事実」を扱う   主にキリストの生涯の「意味」を扱う

 

 キリストを愛してやまないパウロであり、手紙の中で私の統計では650回キリストについて触れているが、キリストの言葉そのものには(私が知っている限り)四回しか引用していない。それはパウロは「自分の役目はキリストの生の生涯よりも、むしろその意義について語ること」と自覚していたからだ。

「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ロマ5:19)。「ひとりの従順」とは、キリストが罪に立ち向かった英雄的行為を指す。「多くの人が義人とされる」とは、このひとりの人キリストの英雄的行為により、私たちすべては救われたということを意味する。

 福島原発の冷却処理に当たった人々について、アメリカのメディアは英雄的行為と讃えた。ご自分たちを放射線によって汚染される危険に身をさらしながら、放射性物質の拡散を食い止めるために、作業を行ったからである。

 キリストは、この英雄的行為をご自分一人で行った。我々は皆、罪の汚染により破滅する運命にあった。だがキリストがご自分の聖い命を盾に、福島原発よりも、チェリノブイリ原発よりも危険な罪の大元に身をさらし、十字架上でそれを葬り去って下さった。我々はキリストの犠牲により救われている。これが「福音」=「良い知らせ」でなくてなんだろうか。

 これがパウロの意味する「福音」、「キリストの十字架と復活の意義」である。キリストの十字架と復活は、私たちの暗闇を打ち破って下さった。私たちが落ち込むとき、それは既にキリストが体を張って処理して下さった罪の記憶に怯えているのである。もはやキリストは私たちが落ち込むべき悪の親玉である罪と罪の罰をすべて処理くださった。私たちはキリストにあって、「救ってくださってありがとうございます」と感謝こそすれ、落ち込むべきことはない。人間であるから、悲しむこともあるが、だが絶望はもはやない。いつも希望があり、救いがあり、喜びがある。

 

ポイント2.福音の前進

 スイレンの花は汚れた水から綺麗な花を咲かせるという。福音にもそのような力がある。順風満帆な時よりも、むしろ逆境を糧として、却って福音は前進する。

 今日お読みしたピリピ書を、パウロはどこで書いたかご存じだろうか…。これは監獄からの手紙である。獄中書簡である。ピリピ書を読むと、パウロとの仲睦まじい、牧師と教会の美しい関係が見て取れる。そんな頼りにしていた大伝道者パウロが投獄された!ピリピの教会はどれほど憂えたことだろうか。 

 ところがパウロによれば、「わたしの身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになった」(ピリピ1:12)。つまりパウロの投獄が、却って福音の前進に役立った。13-14節によれば、パウロの投獄により、兵営全体に福音が広がり、ピリピ教会でも人々は「ますます勇敢に」(ピリピ1:14)福音を語った。災い転じて福となす。一体誰が、キリスト教史上最大の伝道者パウロの投獄が、却って福音を前進させると予想しただろうか。だがそれが福音なのである。福音は後退せず、停滞せず、前進あるのみ。

 渡辺先生は、熊谷福音キリスト教会に四〇年以上仕えておられる。文字通り教会の大黒柱。その渡辺先生のご病気は、人間的には大きな悲しみであり、教会にとって大きな痛手である。

 では福音は後退しただろうか…。否。「わたしの身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになった」(ピリピ1:12)。先生のご病気によって、教会に祈りの炎が生まれた。今日も一人の人が洗礼を受けようとしている。福音に停滞、後退はない。福音は前進する。

 先月、上野で奉仕した。2月の底冷えする中、泊まる宿もないホームレスの方々に向けて福音を語った。じっと下を向いていたおじさんたちに、渡辺先生のお話をした。『いつも第四土曜日にお話に来る四角い顔の渡辺先生、っているでしょう。先生は、「末期の腎臓がん」と宣告されたんです。ところが先生「末期ということはこれ以上悪くなりようがない、あとは良くなるだけ。」と仰っていました。このように神は、どんな状況にあっても希望を与えて下さるんです…。』

 この話をしたら、上野のおじさんたちの顔が上に上がった。ご自分たちのこれ以上悪くなりようがない状況にも福音の希望は届くと感じて下さったか。後で私の兄ジェイムスが、「涙を流している方がいた」と報告してくれた。先生のご病気という逆境が却って、おじさんたちの心に福音を届かせた。

 福音は逆境で輝く。またこの福音は、渡辺先生、斉藤さんを始め、病の方々に希望と平安を与え続け、ご病気そのものを癒し、回復させると信じる。

 一方、熊谷に憲治先生一家を送り出す諏訪シオンキリスト教会は、悲しみに暮れているという。ピリピにとってのパウロの投獄、熊谷にとっての渡辺先生のご病気、諏訪にとっての山本先生一家の転任、これらは痛手以外の何ものでもない。

 だが福音は前進するだろう。「憲治先生以上の先生はいません」と仰った諏訪の方々の言葉は本音であろう。それでもなお、福音は前進するだろう。敦子先生は現在教会で英語クラスをしているので、密かに諏訪の後任に「英語のできる先生を」と祈っていたそうである。果たしてフィリピン、アメリカに留学経験をもつ高谷満世先生が遣わされた。ちなみにこの先生は、妻と私がフィリピン留学時代のヘブル語の教師でもあった。諏訪の信徒の方々の一致団結と高谷先生の召しへの従順により、諏訪に地においても福音は前進するだろう。山本先生ご一家のため、諏訪のため、高谷先生のためにも祈ってほしい。

 

ポイント3.あなたに知ってもらいたい

神学校「聖書解釈学」の授業にて。担当の先生が、「将棋でもセオリー(定説)を学んでから自分の方法を確立する。皆さんも、初めから自己流でやらずにセオリー(定説)を学んでください。」とおっしゃった。授業後、友人が私のところへ来て、「みっちゃんのこと言ってたなあ」と言った。まさか自分のことを言われているとは夢にも思っていなかったので「えっ俺!?」と寝耳に水だったのを覚えている(その先生も、留学の推薦状を書いて下さり、先の正教師試験の聖書解釈学の試験も合格させて下さった。私も聖書解釈学のセオリー(定説)を学んでおり、自己流なだけではないので、ご安心を)。その時先生は、「あなたに知ってもらいたい」という気持ちで、私に向けて語っていたのである。

今日お読みした節で、原語で一番最初に来るのは「知ってもらいたい」という言葉である。「福音の前進」について「何よりも、あなたにこの事を知ってもらいたい。」というパウロの並々ならぬ熱意が込められている。「いい話を聞いた」。それだけではない。「福音の前進」の舞台はあなたの人生において起こる出来事である。福音の前進は止まらない。逆境にもかかわらず前進していく。これは他の人の出来事ではなく、あなたの生活に起きることである。

あるクリスチャン女性の証しをさせて頂きたい。未信者であるご主人は、仕事を早期退職して、夫婦で田舎に引っ越された。最寄りの教会は、車でも1時間半かかるが、奥さんは免許を持っていない。電車とバスだと3時間。しかもご主人は教会やクリスチャンを避けておられたので、とても車で送ってとは言えない。まさに逆境であった。ところが見るに見かねてかご主人が、毎週往復3時間かけて車で教会に送ってくれているという。そればかりではない。教会、クリスチャンに近づかなかったご主人が、段々とクリスチャンと口をきいてくれるようになり、教会に入って、牧師たちと一緒に食事をしてくれるまでになっているという。正に「わたしの身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになった」(ピリピ1:12)

このように、我々にとっては逆境とも思えるような事態が、却って福音を前進させる。「福音の前進」は教会の証しだけではない。誰か他の人の証しではない。あなたの人生に起こる出来事である。

ある牧師はこの箇所を講解してこのように語った。「愛する兄妹、『わたしの身に起こった事』(12)とパウロは言いました。私たちが置かれている状況が改善されて福音が前進していくのではなく、私たちが置かれているその状況の中で、福音は障壁を乗り越えて、かえって前進していくのです。私たちもいろいろな制約や束縛を感じる状況の中に置かれる時があります。『もっと自分の置かれている状況がこうであれば、もっとああできるのに…』、『もっと教会との距離が近ければ…』、『家族全員がクリスチャンであれば…』、『子供が手のかからないときじゃなければ…』、『もっと自分が若ければ…』、『健康であれば…』、数えてみればたくさんの『もっと』があります。…しかしパウロは…自分の身に起こった事は、どんなことでも、福音の前進になると信じているのです。愛する兄妹、今朝、いかなる状況の中でも、かえって福音は前進していくと信じようではありませんか。自分の置かれた状況が、神の福音の前進のための機会だと信じていこうではありませんか。」[1]

 福音は、あなたの逆境をなぎ倒し、あなたの人生に光を輝かし前進する。福音は、どこかの誰かの良い話ではない。あなたへの良き知らせである。

 

結論

 「福音」とは「キリストについての良き知らせ」。とりわけパウロにおいては「一人の人イエス・キリストが、すべての人に死をもたらす罪を処理くださった。ゆえに全ての人が救われた」という素晴らしい知らせを意味する。

 この素晴らしい知らせは、無敵のブルドーザーである。パウロが投獄されても、ピリピ教会で福音は前進する。渡辺先生のご病気の間も―完治したらなおのこと―福音は前進する。山本先生ご一家が転任になった諏訪においても、福音は前進する。

 そしてこの福音の前進は、あなたの人生においてこそ事実となる。先々週の金曜日、東北大震災が起こり、先週は急遽直前で、震災に関するメッセージに差し替えた。今日のメッセージが、本来先々週に準備していたものである。だがその準備の間、私自身は体の調子が良くなかった。先々週、月曜から火曜まで熱が出た。水曜に下がって朝晩と祈り会の御用に当たったが、また木曜に熱が出た。健康な時は、神の御言葉を力強く語ることができると思っていた。だが弱くなった途端、メッセージも力を失うように感じた。その時今日の御言葉に出会った。大伝道者パウロの投獄が、福音の前進に役立ったという。「そうだ。私の体力があるから福音は前進するのではない。却って私が弱い時にこそ、福音は本領を発揮し前進する。『私は弱い時に強い』とはこのことか。きっと今度のメッセージは素晴らしいぞ。なぜなら私が弱いからこそ、福音は前進するから」。そう思って講壇に立たせて頂いている。皆さんも弱さを覚えることがあろう。だが皆さんが弱い時に、福音は本領を発揮する。皆さんの逆境のただなかで喜びの福音の光は輝く。福音は、逆境にある皆さんに、愛の素晴らしさを知らせ、一致をもたらし、祈りの絶大な力を知らせ、病を癒し、問題を解決し、福音の福音たるゆえんを明らかにするだろう。皆さんに神の祝福があるように。



[1] 日吉成人『福音は前進する』No,3 ペンテコステ神学研究会、85-86