聖霊の宮

1コリ3:16

2011327 聖日礼拝メッセージ 

熊谷福音キリスト教会副牧師:荻野倫夫

 

導入―全てのクリスチャンは聖霊の宮

 今日のメッセージタイトルは「聖霊の宮」。ところで「聖霊」とは何だろうか。ある方と話したら「聖霊が神だと知らなかった」とおっしゃっていた。確認だが、「聖霊」とは神ご自身である。私たちクリスチャンは、「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」の三つで一つ「三位一体」の神様を信じている。では「聖霊の宮」とは何か。確かに教会は「聖霊の宮」である。礼拝のとき、賛美の時、私たちは聖霊の臨在を感じる。だがパウロは更に進んで「あなた自身が聖霊の宮である」と言っている。もしイエス・キリストを心にお迎えしているなら、あなたはまごうかたなき「聖霊の宮」である。

「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら…」(ロマ8:10)

神の御霊があなたがたの内に宿っているなら…」(ロマ8:9)

 上記二つの文章の意味は等価。パウロは「内なるキリスト」と「内なる御霊」をほとんど区別なしに使っている。よってキリストを心にお迎えしているなら、あなたは「聖霊の宮」である。

 

ポイント1.聖霊の示しに従え

 ある時、ある人から、あることを頼まれた。だがその時私は熱があり「いくら何でもそこまでしてあげる必要はないだろう」と思い、引き受けなかった。後に大きな問題が勃発する。今から思うと、人からの頼みであったが、あれは聖霊の示しであった。神のあわれみにより最悪のケースは免れたが、「聖霊の示しに従う」ことの大事さを痛い経験を通して学んだ。

 「それから彼らは、アジヤで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った」(使徒16:6)。目覚ましい伝道の働きがなされた使徒行伝における、パウロたちの伝道旅行からの引用である。彼らの行動原理及び成功の秘訣は「聖霊の示しに従う」ことであった。

ところで同じクリスチャンでも、聖霊の示しを日常茶飯で感じる人と、ほとんど「聖霊」が口に上ってこない人といる。それらの人は、聖霊の示しをキャッチするアンテナの精度が異なるのだろうか…。

先のパウロの説明を思い起こそう。私たちクリスチャンはすべて「聖霊の宮」である。聖霊の宮に、松竹梅のレベルの差はない。個性はあるが、ある人は聖霊の声を良く聴けるが、ある人は聖霊に対して難聴気味で声を聞き分けることができない、ということはない。いわゆる「聖霊に敏感な人」と、余り聖霊を口にしない人、両者の内に同じ聖霊が活躍しておられる。

ただし聖霊は、その人に合った方法で働く。聖霊の示しを強調する人にも、それほど強調しない人にも、同じように聖霊は働いておられる。「私たち各々が聖霊の宮」ということは、聖霊が、「私」という人格、個性、性格の中に住まわれることを良しとされたということ。我々はクリスチャンになってから、「別の誰か」になってしまうのではない。一般に、感情表現豊かな人は救われたら感情表現豊かなクリスチャンになるだろう。通常、理性的な人は救われたら理性的なクリスチャンになるだろう。聖霊は、私たちの個性を壊すよりもむしろ、私たちの個性を通して働かれる。それが私たちが「聖霊の宮である」という言葉の意味であろう。


 

聖霊の働き方@―「あからさまな聖霊の働き」編―

 「それから彼らは、アジヤで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった(使徒16:6-7)。これは実に分かりやすい、聖霊の示しに従う例である。ある人々はこのようにあからさまに聖霊に示されるだろう。また人によっては、ある特別な時にこのような体験をするかもしれない。いずれにしても、このような御霊の明白な働きは現代にもある。

聖霊の働き方A―「超自然的ではない聖霊の働き」編―

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。…ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って解放した」(ルカ10:3033-34)。この「良きサマリヤ人」は、「気の毒に思い」、倒れた人に近づき、その人を献身的に介抱した。特に聖霊に触れられた、とも書かれていない。だが「気の毒に思う」ことこそ、聖霊の内なる迫りではないだろうか。ある人はこのように、「共感」と「憐れみ深い行動」によって、例え本人が聖霊を口にしていなくても、聖霊の促しに従っている。「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている(ロマ5:5)内なる聖霊は神の愛をその人の心に注ぐ。隣人愛、愛に基づく行為は、聖霊の独壇場である

要は、本人が聖霊の示しを常に口にするかしないかではない。またどちらが間違っているのでも優れているのでもない。クリスチャンは皆聖霊の宮であり、聖霊はそれぞれの個性をことのほか喜んで、その人の人格、性格、特徴を通して働かれる。すべてのクリスチャンは、「私は聖霊の宮である」という自覚を持ち、これまでと同様働かれる聖霊の働きに感謝しよう。

 

ポイント2.宮清め

憲治先生一家を迎えるため、教会では大掛かりな片付けが行われている。その際の整理の秘訣は「捨てること」である。捨てないことには片付かない。聖霊の宮である私たちも、心の中の不要なものを整理して、聖霊の宮に相応しくないものを捨て去ることが必須である。

 「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた」(マタイ21:12)。愛とあわれみに満ちたイエス・キリストからは想像もつかない、一種暴力的ともいえる、星一徹的な姿である。これは実際の建物の中で行われた行為であり、激しくフィジカルなイエスの姿である。

 あるカトリックの司祭は、この箇所を、次のような祈りへと昇華した。「イエスが追い出してくださればいい。わたしの心からも余計なものを」[1]。家の整理整頓は大事である。聖霊の宮の整理整頓は、それ以上に大事である。我々の王であり主であるキリストに心の王座に座して頂き、邪魔なもの追い出して頂こう。以下、私たち聖霊の宮から「追い出すもの」の具体例を挙げよう。

 私たちはキリストに「心配」を心から追い出して頂かなければならないかもしれない。心配は、神に心を向ける代わりに、自分の中で逡巡して悩む行為である。私たちはキリストの足元に重荷を下ろし、…いやこの際、大工で鍛えられていた肉体派であったであろうイエス様に、追い出して頂いて、聖霊の宮である私自身の心を整理整頓しよう。

 あるいは私たちは、「人や物に執着する思い」を追い出して頂く必要があるかもしれない。私たちは物を愛し、お金を愛し、人を愛する。それらは決して悪いものではない。だがそれらが執着となるなら、あまりに心の中心を巣食うなら、それは私たちにとって災いとなる。その線引きは、他人が口出しできるものではないだろう。私自身と神との間でなされる線引きであろう。だから神の前に、あまりに何かに囚われ執着する思いが、私たちに不安を呼び起こし、神に集中するのを妨げていることを示されたなら、今朝イエス様に、追い出して頂こう。

 さて、そうやって聖霊の宮である私たちの宮清めの結果、どうなるだろうか。『そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである』と書いてある」』(マタイ21: 13)。今年の年間聖句の一節は「常に祈りなさい」(ロマ12:12)である。イエス様に心の整理整頓をして頂いて、イエス様がわたしたちの心の王座にどっかと座って下さるなら、私たちは聖霊の宮として相応しい「祈りの人」となる。逆に言えば、常に祈るためには、心の整理整頓が必要である。宮清めが必須である。キリストにわたしたちの心から不要なものを捨て去って頂き、常に祈る者とならせて頂こう。 

 

ポイント3.聖霊に従う祝福

 何かの宣伝をする時に、その効能を説明することがその宣伝対象を魅力的にするという。私たちが聖霊の宮であり、聖霊の示しに従うべきことを、心の底からの願いとするために、最後に―皆さん既によくご存じのことだと思うが―聖霊に従う祝福をいくつか列挙しよう。

@聖霊への従順は、最も確実な道である

 実は聖霊の示しに従うことが人生における最も確かな道である。聖霊は目に見えないし、「聖霊の示し」も、人によって個性がまちまちで、曰く定義しがたい。だが「目に見えない」ことや、「定義しがたい」ことがその存在の不確かさを意味する訳ではない。

 むしろ実体験から大胆にのべさせて頂くなら、聖霊の示しに優って確実なものはない。使徒行伝における伝道の驚異的な成功の秘訣は、ことごとく聖霊に従った結果であった。私の体験からも、聖霊の示しに従うことが、問題を解決するのに最も有効な手立てであった。人は様々なことを言う。だが最終的に決断をするのは自分自身である。人におんぶで抱っこでもいけないし、また何か良くない結果が生じたとしても人のせいにすべきではない。自分の責任は自分で取るべきである。

では私たちは全く孤独なのか。否。内なる聖霊が共におられる。繰り返しになるが聖霊は、私たちそれぞれの個性に合った形で働かれ給う。だから日々自分が聖霊の宮であることを意識し、この宮をきよく保つことを心がけるなら、必ず聖霊は私たちを導いて下さる。

 私も人生の岐路に立った時、聖霊の示しに従って決断した。不安もあったが、何か見えない糸に導かれるように、聖霊の「この道を行け」という道を進んだ。結果、自分でも想像し得なかった、大きな大きな祝福を得ている。これは私の力ではない。聖霊の示しに従った結果である。

 ゆえに、聖霊の示しに従う祝福の第一は「それが最も確実である」ということある。

A聖霊への従順は、悔いがない

 時に私は「良かれ」と思ってしたのに、失敗することがある。なぜか。人を喜ばせようとしていたからである。そうやって神を喜ばせることよりも人を喜ばせようとするとき、往々にして失敗して後悔することになる。

 一方で聖霊の示しに従って行う場合、後悔がない。通常聖霊の示しに従うなら、驚くほどの、想像以上の素晴らしい結果が与えられる。ゆえに不満の起りようがない。だが時には、すぐには良い結果を得られない場合もある。聖霊に従った場合に良いことは、そのような良い結果を得られなくても平安だということである。すぐに結果が得られなくても、人に誤解されても、もちろん人間であるから悲しむ感情もあるにはあるが、いやむしろ多くの場合、目に見える結果が得られなくても、ちっとも残念ではない。なぜなら聖霊の示しに従った、という実感が、何にも優る我々の報償だからである。

 だから我々は隣人愛を実践するときも、人からの感謝や、思った通りの反応を期待するよりも、それが聖霊の促しに従ったものであるかどうかに集中しよう。そうすると、後悔がない。人間的には目に見える良い反応や結果がすぐには現われなかったとしても、不思議に心は平安である。

B聖霊への従順は、神の御心に従うことである

「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはいない」(1コリ2:10-11)。私が今何を考えているかご存じだろうか…。私が何を考えているかは、私以外の誰も知る者はいない。同様に、神のみ思いは誰も知らない。神の霊である聖霊を除いては。だが幸いなことに、我々は聖霊の宮である。神のみ思いを知ることを許された者である。

 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている」(1コリ2:16)。私たちは基本的に自律した者である。私たちには、各々聖霊が内住し、キリストのみ思いのなんであるかを直接示して頂けるからである。御霊の示しに従うことは、主の御心を知ってそれに従うことである。クリスチャンにとって神の御心に従うことに優る幸いはない。

 愛する兄弟姉妹。私たちは心から、喜んで聖霊の示しに従う者となろう。

 

まとめと結論

 第一に、キリストを心にお迎えした私たちクリスチャンは、すべて「聖霊の宮」である。人によっては、聖霊の語りかけを強調する方もいるし、あまりそのようなことを口にしない方もおられるだろう。だが私たちクリスチャンは等しく聖霊の宮である。聖霊は、それぞれの個性を愛し尊重して働かれる。私たちはそれぞれ私らしいままで、聖霊が働かれ、その示しに従うことを喜びとしている。ハレルヤ。

 第二に、キリストにむしろ少々手荒な宮清めをして頂こう。私たちが大事に心にしまっているもの。それらは私の心の重荷となって、祈りに集中することを妨げている。今朝キリストに余計なものを一切私たちの心から追い出して頂こう。祈りに満ちた者、聖霊に満たされた者となろう。

 第三に、聖霊に従うことは本当に素晴らしい。それはこの不安定な時代にあって、何よりも確実な指標である。そして結果如何に左右されない、クリスチャンとして安定したわざを行い続けることができる。何よりも聖霊に従うことは、神の思いを知り、それに従うことであり、私たちクリスチャンの最も喜びとするところである。

 私がキリスト教出版社「いのちのことば社」に勤めていた時のことである。職場に尊敬する先輩がいた。その人の教団の背景は「きよめ派」と言い、深い聖霊体験を強調する教団である。そのような教団的背景の面目躍如ともいうべき証しを覚えている。

その方はある夜突然、「親に謝るべき」という聖霊の強い迫りを受けたという。突然そんなことをするのは照れくさく、初めは躊躇もした。だが聖霊がなお強く迫ったので、その促しに従った。親の前に手をついて謝ったという。親はびっくりしたようだったと聞いている。その後のことは聞いていない。だがその方の聖霊への従順の故、きっと大きな祝福につながっていったと信じる。

愛する兄弟姉妹、私たちは聖霊の宮である。私たちは喜んで聖霊の促しに従う者となろう。



[1] 長谷川集平『ベガーズ・バンケットの招待状』「考える人2010年春号」95頁。沢田和夫『詩のように歌のように』(聖母文庫)からの孫引き。