熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝
メッセージ 山本憲治 牧師 2011.3.10
聖書箇所 マタイ11章28〜30節
「信仰の原点に日々返りましょう」
おはようございます。今日が私の、熊谷福音キリスト教会で取り次がせていただきます、最初の聖日メッセージであります。この講壇から語らせていただけることを主に感謝すると共に、主に期待して待ち望む素晴らしい皆さんに、神の言葉を語らせていただけるこの特権を心から感謝しています。よろしくお願いいたします。
それでは早速、主の御言葉を共にひもといてまいりましょう。今日の聖書箇所マタイの福音書11章28〜30節に「信仰の原点に日々返りましょう」というタイトルを付けさせていただきました。
私たちの信仰の原点。それは、イエス・キリストの十字架にあります。私達は主の十字架の元で罪赦され、贖われて、私たちの信仰はスタートいたしました。決して私達の努力や人徳が先にあったわけではありません。むしろ自分の無力さを知り、自分の限界の壁にぶつかり自分の弱さを認めた時に、父なる神様の御手がそこに伸ばされてあったことに気付いたのです。それこそが、主イエス様の十字架でした。
だからこそ十字架は、信仰の原点なのです。原点だからこそ。私たちの信仰生活は常にここから始まらなくてはいけません。私たちの信仰の原点を、新たに見直しましょう。そして主イエス様の十字架の愛に日々戻り、神の子としてキリストの愛と栄光を表す者へと日々整えていただきましょう。
今日はこのところを三つポイントに分けてみて参りましょう。まず第1のポイントは、
T.日々十字架の愛の元に重荷を下ろし癒されましょう。
これが第1のポイントです。
マタイ11章28節を読みますと「 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とあります。
今日の御言葉は、信仰をまだ持っていらっしゃらない、未信者を招くためだけの聖書の御言葉では決してありません。それよりもむしろ信仰を持った私達クリスチャンへの神様から「私の所に来なさい」との招きの言葉であります。
そして御言葉には、疲れて、重荷を負っている人とあります。では、私達はどのような時に疲れを覚え、重荷に耐えがたくなるのでしょう。はたしてこの御言葉は、重荷に耐えかねて切羽詰まったような状態に陥ったならばと言っているのでしょうか。
マタイ6章34節を開いてみましょう。そこを読みますと「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」とあります。つまり聖書は、人は日々負うべき重荷があり、心身共に疲れを覚える者であると言っているのです。
また、「明日のことは思いわずらうな、明日のことは、明日自身が思いわずらう」とありますように、明日のことは明日、今日のことは今日の内に終わらせなさいと言っています。確かに現実には、一日では終わらない仕事があり問題があるでしょう。それでも、毎日区切りをつけなさいと言っているのです。
ではどのようにその区切りつければよいのでしょう。
そこでイエス様は、私達を次のように招いておられるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と
そうです、毎日主の御前に出てひざまずき祈ることが重要なのです。
主はどうやって私達の重荷を負い、疲れを取り癒されたのでしょう。それはイエス・キリスト様、自らが私の重荷を負い、罪の苦しみとその裁きを、私の身代わりとなって十字架に架かり負われたのです。こんな私のために命を投げ出すほどに愛していると、神様自らが愛を私に示してくださいました。
この愛の元に毎日帰るのです。この十字架の愛の元で祈り、日々の重荷や悩みを、悲しみを、ぐちさえも祈りを通して主に申し上げ、あなたの心からおろしてください。あなたが正直で真実を主に申し上げる時に「あなたがたを休ませてあげよう。」と言う、主の御声があなたの心と魂を癒すのです。
今現在、多くの方が地震と津波の恐ろしい被害にあい、いつ終わるのか分からない苦しいみに耐えながら、日々を過ごしていることを私達はしています。でも、天災だけではなく、毎日様々な労苦と闘っている人々が、私達の周りにも沢山いるのではないでしょうか。それは、あなたのもっとも親しい友かもしれません。あなたの家族かもしれません。その人に「ここにこそ平安がある、休息の場所がある」と私達を通して、主は伝えたいと思っています。
そのために大切になってくることが、私自信がその確信を持っているかどうかであります。主の十字架の元には癒しがある、休息があると・・・。
繰り返しますが、その確信は毎日主イエス様の十字架の前に、神の愛の元に日々ひざまずき、その日の重荷を、毎日の疲れを、その十字架の愛の元で毎日癒されてこそ持つことができ、伝えることができるのです。
もしかしたら、あなたに主イエス様を証しするチャンスが、近々巡ってくるかもしれません。その時あなたはその日の重荷を負い、疲れのピークであるかもしれません。でも、あなたが日々主の十字架の元で癒されているのならば、あなたはきっと確信を持って「これから思いっきりリフレッシュできるところに行くんだけど君も来ないか?」と言えるでしょう。
日々十字架の愛の元に重荷を下ろし癒されましょう。その時あなたを通して偉大な神の御心が実現するのです。
これが第1のポイントです。
さて、次に第二のポイント
U.キリストに従う時、主は共に歩み、働かれ人生を乗り越え
これが第2のポイントです。
マタイ11章29節を見てみましょう。「 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」
イエス様が人として歩まれた2000年前の当時、多くのユダヤ人学者は、神の言葉の元に人々を「ねばならない」と言う言葉で縛るように教えていたようです。それ故に、イエス様はこのように言われました。ルカ 11章46節を見てみますと 「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。」
また、ルカ 6章42節 を見ますと「自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を
取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。」
このように主は律法学者達を攻めています。主がそのように言われたのは、父なる神の思いは、私達を縛り神の教えの中に閉じ込めることではなかったからです。むしろ聖書は私達に「真理はあなた方を自由にする」と言っているのです。そうです、主が私達にしたかったこと、それは私達を神の愛の中で自由にすることなのです。
ではその自由とは、いったいどのようなものでしょうか。それは決して私達に好き勝手に生きる人生を与えることではありません。何故なら、それは自由ではなく身勝手な自己中心的な生き方だからです。そして自己中心とは、罪のそのものの姿なのです。
主イエス様が与えたい自由な人生とは、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」と言う人生です。
ではこのくびきとは何でしょうか。くびきとは、畑を耕す時に家畜を誘導するために使う首にかけるカセであります。そして、このくびきにも2種類あるそうです。一つは1頭用、もう一つは2頭用です。ここで語られているのは2頭用のようです。つまり、このくびきを負うのはあなた以外にもう一人いると言うことなのです。
それはだれでしょうか?それは、主イエスキリスト様であります。「柔和で心のへりくだった者である」主は、私達に「ねばならない」と重荷を負わせるのではなく、共に重荷を背負って歩んでくださるのです。しかも、くびきを一緒に負ってくださるのです。
また、私達は右に左にそれたとしても、くびきを共にしてくださっている主が戻してくだるので、確実に主の恵みの道を歩めるのです。そうです、あなたがそのくびきをあなたの首から捨てない限り大丈夫です。
しかし主は決して全てを負うことはしません。私達にも負うべき分があります。それが、今日という一日を主と共に生きようと、自分で決心すること、主の御前に祈り知恵をいただくこと、主に信頼して一日一日を歩んで行くことなのです。ですから「わたしに学びなさい。」と主は言われたのです。主はその重荷を負い、疲れを回復し、全ての問題の解決の答えを持っておられ、日々人生を乗り越える力を与えてくださるお方なのです。
言うなれば、主のくびきとは人生の保証だといってよいでしょう。そしてそれは、全能なる愛の神から祝福をもらい続ける保証なのであります。
さぁ、最後のポイントとなります。
V.御言葉に従い生きることは、足を地に付けた余裕のある人生を生きる
マタイ11章30節を読みましょう。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
クリスチャンでも、御言葉は良いと分かっていても、実行するのは難しい、大変、無理!!と決めつている人を、よく色々な教会で見受けられます。
私達が無理と思い、できないと逃げを決めてしまうのは、自分の力量で御言葉を実行しようと考えてするからではないでしょうか。
神の御言葉は、主が共に実行に移し、実現してくださるのです。主を信頼し、従う決断をして、あなたの生活の中で、仕事場の中で、学校の中で御言葉に従って行動を始める時に、主も私達と共に働かれ、導き、力を与えて、もっとも良い神様の方法でもっとも良い時に実現させてくださるのです。また、どんな困難さえも乗り越えさせてくださいます。
イエス様と共に歩み、働き、導かれるからこそ、主の御言葉に従う道は荷が軽いのです。
そして何よりも、私達が背負いきれないもっとも重い人生の罪の重荷は、すでに主イエス・キリスト様が十字架で私の身代わりとなって全て解決してくださいました。だからこそ、主と共に生きる人生は荷が軽く、余裕のある地に足を付けた人生を歩めるようになるのです。
最後に今日の3ポイントをもう一度見ましょう。
1.日々十字架の愛の元で重荷を下ろし癒されましょう。
2.キリストに従う時、主は共に歩み、働かれ人生を乗り越える力を与えてくださいます。
3.御言葉に従い生きることは、足を地に付けた余裕のある人生を生きること。
であります。しかし、
イエス様と共に歩み始めても、決して一昼夜でこの三つのポイントが確実にできるようになるわけではありません。
何事もインスタントにはいかないのです。主イエス様との毎日の積み重ねが重要です。毎日十字架の愛の元に繰り返し行くことにより、深い主との信頼の絆が築き上げられるのです。
今年の3月まで、私と敦子先生は長野県の茅野市で13年間伝道と牧会をしてきました。私の方は25歳の信徒の時から開拓を始めましたので、神学校の時代を抜かすと、合計17年諏訪で伝道したことになります。
特に、牧師になり結婚してからの13年間、私達が諏訪の教会の信徒に伝え続けてきたことがあります。それが今日の御言葉でもあります。その牧会の中で、私が諏訪の信徒の皆さんに言ってきたことは、「共に成長しましょう」と言うことでした。
教会はキリストを頭として、信徒の一人一人がその体ですと聖書は言います。信徒一人一人が体の一部なのですから、あなたという一人の人間の成長が重要なのです。なくても良い存在は一人もいません。むしろあなたが重要なのです。牧師である私も決して完成した人間ではありません。発展途上の成長期真っ盛りの神の子です。信徒の皆さんと同じなのです。ただ一点違うところは、主イエス・キリストの名によって神様の権威を預かっていると言うことだけです。それ故に、牧師の責任は重いと思っています。でも、それも聖霊様の導きの中で、日々主イエス様の十字架の元にひざまずき、主イエス様とくびきをともにし、イエス様の愛の交わりの中、皆さんに祈り支えられているからこそできるのです。
皆がいるからこそ熊谷福音キリスト教会は存在しています。つまり、この建物ではなく、ここにいる私達一人一人が熊谷福音キリスト教会なのです。
これからも、このキリストの教会が力強く前進していくため、愛の教会として豊かに成長していくため、皆さん、共に主イエスキリストの愛によって一緒に成長してまいりましょう。
お祈りをいたします。