熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                           2011.4.17

聖書箇所 ヨハネ3章16〜17節                                         

「イエス様の十字架は私のため」

 

 おはようございます。来週の日曜日はいよいよイースターであります。そのイースターを迎えるにあたって、今日から受難週が始まります。主イエス・キリスト様の復活を祝う前に、私達は主の十字架を思い、祈り、悔い改めと感謝の週を過ごしましょう。

 今年の受難週の初日である今日4月17日は、私にとって特別な日であります。1988年4月17日に私は人生の第二の誕生日であります洗礼を受けました。そして、神の子として今日まで、その愛の御手の中で導かれ、生きてきたことを心から主に感謝しています。

 ところで、皆さんにとってイエス・キリスト様はどのような位置を占めている神様でしょうか?困ったときの神頼み的神様、日本人が大好きなパターンです。願いをかなえてくれるアラジンの魔法のランプ的神様、中高生の女の子が良くはまるパターンですね。「紙に好きなこの名前を書いて、5回願って彼の上履きに入れたら両思いになれる!」30年くらい前に私がいた中学校ではやっていました。または、クリスチャンというステータスをくださるブランド「イエスキリスト」、お守り的存在、高い道徳を教えてくれるお方、などなど人によって神様の見方は結構違ったりするものであります。でも、本当に皆バラバラでよいのでしょうか。

 私個人は、よく「私の神様」といいます。そうです「あの人の神様」ではなく、「親の神様」でもありません。イエス・キリスト様は「私の神様」なのです。私個人としましては、この呼び方に特許を取ってほかの誰にも使わせたくない気持ちであります。だってそうではありませんか、主は私にとって人生の道、方向性を示し導いてくださるお方であり、人生のあらゆる問題や事柄に対して真理を示し、日々を照らしてくださるお方だからです。

 そして何より、私に愛と喜びと感謝に満ちて生きる、命を与えてくださるお方なのです。しかも、この恵みを私が受け取るために、主は私がまだイエス様に背中を向けて信頼せず、身勝手に生きていた罪人であった時から、私を愛してくださっていました。そして、私を罪の泥沼から神の子としての恵みの中に移すために、主自ら私の重荷や心の傷、私の背きの罪の報いを、私の身代わりとなって十字架の上で死をもって受けてくださったのです。

 私を救うためになら、死の痛みや苦しみを受けてくださるこのお方を、「私の神様」と呼ばずにはいられません。しかし、主イエス様の思いは、私だけではなく多くの人々がイエス様のことを「私の神様」と信じて受け入れることにあります。

 ある人がこんなことを私に聞いてきたことがありました。「こんな私が、神様を信じたら迷惑ではないですか」と・・・。 迷惑どころか、神様はあなたが信じることを「喜びとし。」それだけではなく、天国に特別な家さえも用意してくださっているというのです。

 そうです、それはまるでこれから生まれてくる我が子のために、赤ちゃん用品を用意して期待して待っている親のようです。神様もあなたが心から「私の神様」と主イエス・キリスト様を受け入れ、その人生を神様と共に生きる決断をなさるのを、準備万端で待っておられるのです。

 今日、すでに信仰をもっておられる方も、まだ決断しかねて思案中の方も、今日初めて聞いたとい

う方も、イエス・キリスト様の十字架を通して神の愛を知り、「私の神様」と心から信じることができるようにお祈りいたします。

 それでは、今日の御言葉を通してさらに深く神様の愛を知っていきましょう。

 

 今日の御言葉、聖書箇所ヨハネによる福音書3章16〜17節を読んで参りましょう。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」

 今日もこのところを三つのポイントに分けてみて参りましょう。まず初めに、

T.神様は「私を」愛してくださっている。 これが第1のポイントです。

 ヨハネ3:16を読みますと「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」とあります。父なる神様とイエス様の関係はどのような関係だったのでしょう。ヨハネによる福音書14章10節を読みますと、「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。」

 「父がわたしのうちにおられて」と書いてあるように、父なる神様とイエス様の関係は、常に一つであるのです。ヨハネ1章1節にも「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」言葉、これはイエス・キリストを表しています。初めから何時如何なる時も共にいて父と子は離れることはないのです。それは、人間では持つことのできない、絶対なる信頼と言う愛で、結ばれていたからです。その信頼関係には、一寸の疑いもなく、裏切りなどあり得ないのです。

 そんな愛の関係を、罪人であり、神に背を向け見向きもしない自己中心の固まりであるこんな私を救うために、父なる神様とイエス様は断ち切る決心をしたのです。

 神様が私達を捨てたのではありません。私達の方から神様に背を向けて神様はいらないと言ったのです。でも、神様の私達への愛はかわりませんでした。それはこの御言葉が語っています。     

 ローマ5章6〜8節

「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」

 神様は、私を救うために痛みと苦しみの道を選ばれました。それが、主イエスキリストの十字架の道です。

 父と子は、常に一緒にいました。しかし、私を救い、神の子として神の手に取り戻すために、ゆいつ一人残された我が子イエス・キリストを、罪の世に送り出したのです。神であったお方が、私達と寸分変わらない姿をもってこの世に人として生まれてくださることにより、神の愛が私達に届くようにしてくださったのです。神様は、そうまでしてでも、私を愛していることを伝えたいのです。

 そのような愛で私達は、愛されていることを今日改めて覚えて、主に感謝を捧げましょう。

 

次に第二のポイントにはいります。

U.神様の愛と恵みに満ちあふれた人生を生きる者となろう。

ヨハネ3章16節の後半をみてみましょう。

「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 では、そのキリストは、私達が一人も滅びないで永遠の命を持てる者となるために、十字架の上でどのように愛を表されたのでしょうか。イザヤ53章5〜7節をみてみましょう。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 私達がイエス・キリストの十字架を、私の罪のためと認め受け入れる時に、私達に平安が与えられ

心の傷が癒される道を造られました。また、後半は

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

イエス様は言い訳を言ったり、わめくようなことはなさいませんでした。ただ黙って、私の罪を背負い、私が通るべきはずのその苦しみの道を代わりに歩まれました。それは、キリストの許しの道には、条件や差別、えり好みはないことを主は表したかったからなのです。

 そして場面はクライマックスになります。マタイ27章45〜46節を開きましょう。

「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 私が信仰を持って間もない頃、ある歯医者さんが、キリスト信仰もっていない人でしたが、私にこのように言いました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。キリストはこの台詞さえ言わなければ本物の聖人になれただろう、それどころが神になれたはずだ。こんな情けない言葉を言ったからボロが出たんだ。君もそんなキリストなんか信じないで私を信じろ。私はいずれ偉大な仏になるから。誰も達し得なかった最高峰に昇から。」と

 これは私が信仰を持ってから半年くらいの出来事でした。まぁ、それ以上に、治療の真っ最中で口に指を入れられ片手にドリルをもたれた状態だったので何も言えませんでしたしできませんでした。正直早く終われ〜・・・・、と思っていました。

 でも、今ならばはっきりと言えます。「それは違います。」と・・・。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」これは、イエス様のボロから出た言葉ではありません。本当ならば、この言葉は私が叫ぶべき言葉なのです。神に見捨てられるべきは主イエス様ではなく、罪人の私であるべきだからです。でも、イエス様が私の代わりに叫ばれたのです。私の身代わりになったからです。

 マタイ27章をもう一度みますと、「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって」とあります。

 この場面を、よく父なる神が我が子の苦しむ姿を見てられなくて、目を伏せた場面だと言います。でも、それでは実は福音が成り立たなくなるのです。もし、それが正しいというのであれば私達は十字架のあがないの苦しみと、自分の罪の本当の重さを分かっていません。この場面は、父が目をふしたのではありません。ここは父が子を勘当する場面です。見捨て吐き捨てる場面であります。天地が

暗くなったのは天の父が背を向けて、御子イエス様を見殺しにする場面なのです。でも、そのようにさせたのは誰ですか。罪を犯した私ではないですか。

 イエス様の十字架は、私の病や罪の重荷を背負ってくださるのはもちろん、罪の報いも完全に余すところなく背負うことにあります。それ故、半端はないのです。私達が最後に受ける罪の審判は、神様に見捨てられ滅びることにあります。罪をもった者が存在してはいけないのです。でも、神様はそれ以上に私達を愛されたのです。罪は憎んでも私を捨てることはできなかったのです。だからこそ、十字架の道を主は造られたのです。

 私のために十字架に架かられた主イエス様を、自分を救ってくださる救い主として信じる時に、私達は罪許されます。そして神の子としていただき、滅びるべき命から、永遠の命を持った者へと造り変えられるのです。永遠の命を持った者は、神様の愛と恵みに満ちあふれた人生を生きる者となるのです。

最後のポイントとなります。

V.罪を許されたら上を向いて胸を張って生きましょう。

ヨハネ3章17節を読みましょう。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」アーメン

 もう言うまでもなく、イエス様の許しは完璧です。偏見も、えり好みもありません。「私の神様」は私達を愛し、許し続けてくれます。しかし、許すと言うことは、何も今後いかなる罪を犯しても、気にしなくても良いとい言うことではありません。なぜならローマ6章23節には「罪の支払う報酬は死である」とあるからです。罪をなおざりにしていれば、その悪い影響はクリスチャンであろうと例外なく受けます。しかし、主イエスを信じる者の幸いは、後半にありますように「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」イエス様が十字架の許しの道を築いてくださいました。ですから、心から悔い改めるのならば、常にそこに許しがあるのです。

 罪を十字架の前で許していただいたのならば、いつまでも引きずることはやめましょう。でも、許しの実感がない時はどうしましょう。簡単です。実感が来るまで、もしくはその理由が分かるまで祈り、主に聞けばよいのです。悩むより祈ること、主に申し上げることです。Tペテロ5章7節にこのようにあります。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」

悩むより祈れと言っているのです。神様を見上げなさいと言われるのです。そして、それに従う者はどうなるのでしょう。Tペテロ5章10節をみますと

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」

神様の方であなたを力強い者に成長させる準備ができています。揺るがない不動の信仰へと成長させてくださいます。だからこそ、罪許されてた者、神に愛された者として、上(神様を)を向いて胸を

張って生きていきましょう。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」この通りであります。

 

 

もう一度三つのポイントをみましょう。

T.神様は「私を」愛してくださっている。

U.神様の愛と恵みに満ちあふれた人生を生きる者となろう。

V.罪を許されたら上を向いて胸を張って生きましょう。

この受難週は、まさにこの三つを求めるのに良い時ではないでしょうか。仕事などでいろいろ忙しいと思いますが、神の前にひざまずく時をしっかり持ちましょう。そして、神の子として罪許されていることを、再度自分の中にはっきりと確信させていただきましょう。その時あなたが具体的な悔い改めの行動を促されたならば、ちゅうちょしないで頑固にならないで、主に従っていきましょう。そして、今度の日曜日のイースターには、主イエス様の豊かな復活の命の恵みに、共に預からせていただきましょう。

 

 

お祈りをいたします。