熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝
説 教 者 山本憲治 牧師 2011.4.24
聖書箇所 ルカによる福音書24章1〜8節
「十字架から復活へ」
ハレルヤ!私達の主、イエス・キリスト様の復活を心からほめたたえます。
主は、永遠から永遠に変わることなく、私達を愛し、許し、受け入れ、世の終わりまで共にいてくださるインマヌエルの神であります。
この素晴らしいイースター、復活祭を、愛する兄弟姉妹の皆さんと共にお祝いできるこの恵みを、心より主に感謝しています。何故なら、私達のこの素晴らしい出会いを与えてくださったのは、主イエス様以外の誰でもないからです。
キリストにあって人生の喜びも、悲しみさえも、分かち合うことができる。これは、世の中としましては、うらやましいことであると同時に、驚くべきことであります。それを望んだとしても、分かち合えるような人は早々現れないからです。また、人によっては「あり得ない」と言い切ってしまう出来事だと思います。でも、それができるようになることがキリスト者の特権であります。
もちろん、初めから何でもかんでも、分かち合える訳ではないでしょう。ある人が、教会は仮面舞踏会のようなところだと言いました。それはどういうことかと言いますと、舞踏会には皆それぞれの仮面を持って集まり、その仮面の下で様々な思いを持って互いに接しています。しかし、ひとたび王が仮面をとり面前に現れると、皆などのような理由があろうとも、仮面をとり素顔をさらさなければならないのだそうです。教会でも、初めからお互いに全てをさらしている訳ではありません。しかし、ひとたび王の王主の主であるイエス・キリストの愛に触れられる時、人は変わっていくのであります。
Uコリント 5:17に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」とあります。
そうです。キリスト様が私達を新しく創造し直してくださるのです。それは決して中古物件をリフォームすることではありません。新しく新築してくださるのです。ですから周りは変わらないかもしれません。でも、あなたは確かに神の素晴らしい作品となっていくのであります。それがキリスト共に生きる人生なのです。それがキリストに似た姿へと成長していくことなのであります。
このイースターの日に、キリストの十字架のもとで古い自分に死に、新しい創造、キリストの復活の恵みにあずからせていただきましょう。新たに神の子クリスチャンとしての歩みをさせていただきましょう。
さて、まずルカの福音書24章1〜3節を見て参りましょう。そこにはマグダラのマリアを初め、3人の女性が登場します。
「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石
が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。」
この女性達は何をしに来たのでしょうか?それは、主イエス様の遺体に香油を塗り葬りの仕上げをしに来たのです。それは彼女達が考えてできる最善の方法でした。しかし、「それもそれしかできないから」という思いでもあるのです。マルコによる福音書16章では、その行く途中で彼女達が「誰が墓のふたの石をどかしてくれるのでしょう。」などと心配していますが、現地について彼女達を襲ったのは、それ以上に途方に暮れることでした。そうです。主の遺体がなくなっていたのです。
そしてこの後に、御使いが現れ大事なことを思い出させてくださいます。しかし、その前にこの場面で教えられることはどのようなことでしょうか。そこで第一のポイントとなります。
T.あなたの思いを手放し主にあずけなさい。
マリア達は、自分の思いや悲しみに囚われていました。その考え方は破壊的でありました。それは、あきらめと、あきらめきれないという矛盾に満ちていたのです。そこで、せめてものという行動になったのではないでしょうか。
死というものは、彼女達の考えをあきらめという常識に縛り上げてしまいました。しかし、その考えは覆されなくてはなりませんでした。何故なら主イエス様は、その死に勝利された方だからです。
キリストは生きておられます。その神の恵みに飛び込むためには、彼女達の常識と言えるその思いを一掃する必要があったのです。でも、自らの力でできるのであれば苦労はありません。できないからこそ、主自らが動かれているのです。
私達はこの場面の結論が、素晴らしい結論につがっていることを知っています。それは、現在でも同です。キリストを信じているあなたの人生においても同じなのです。あなたの結論は常にキリストの栄光に満ちたものとなります。その栄光に満ちた結論を常にあなたの人生に欲しいのならば、あなたはキリストに徹底的に信頼を置くべきなのです。それを「自分に死ぬ」と言います。
徹底的に信頼し、自分の思いや常識と言う恐れに囚われ支配されないように、主に覆していただく必要があるのです。これは、マリア達のような否定的な場面でも、夢を叶えるため、仕事を実現させるためと言う肯定的な場面においても同じことが言えます。
「自分に死ぬ」と言うことは、主を信頼して生きると言うことにあります。主は最良の道をご存知なのです。その最良の道を生きるためには、常識や恐れに縛られた私のやり方ではまずいのです。人生の問題も物事も、夢や理想も主のやり方で料理していただいて、古い自分の考え方ややり方を変えていただきましょう。そして、主に信頼し、主と一緒に歩んで得た結果を感謝のうちに味わおうではありませんか。
イエス様が父なる神様を信頼して、十字架の死に至るまで従順であったからこそ復活があります。マリア達も「自分に死ぬ」と言う道を通らされ復活の主に合いました。結論を知っている私達は、恐れないでこの恵みに飛び込みましょう。そして、この恵みをもっと確かにしていくために大切なことがもう一つあります。
第2のポイントです。それは、
U.神の御言葉にしっかりと立つこと。なのです
ルカ24章4〜7節
そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
御使い達は、「あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。」と言っています。そうです、イエス様がお話しになったことを思い出しなさいと言っているのです。私達にとって主の言葉とは何を指すのでしょうか。それは、聖書の御言葉以外のなにもでもありません。ローマ10章17節
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」とある通りです。
マリア達にその事実を気付かせてくれたのは主の御使いでした。
今の私達にはどなたがいるのでしょうか。ヨハネ14章26節をお開きください。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
聖霊様がそのお方であります。
聖霊様に気付かせていただいた御言葉は、私達に揺るがない確信を与えてくださいます。どのようにその深い確信を求めれば良いのか・・・簡単です。素直にくださいと祈れば良いのです。求めれば良いのです。与えられるまで聖書を読めば良いのです。
そのための時間をあなたの生活の中に作れば良いのです。
私達家族がこの熊谷に来て、4週間が経ちました。まず、主に感謝をいたします。今ここにいさせていただくことは、本当に感謝なことであり主の恵みであります。それが私の現在の本音であります。敦子先生も同じ思いでありますし、子供達も徐々にここの良さが分かり始めています。感謝します。
しかし、初めからそうではありませんでした。
誤解がないように、今現在は主の御心を確信して心より感謝をしています。
今から3ヶ月前、今年の2月に正晴先生が癌であることを知りました。それと同時に教団より、熊谷への派遣の打診がありました。正直、私達は全く考えていませんでした。と言うよりも、他に移ることが考えられなかったのです。一つのところに派遣されたらそこで骨を埋める。特に田舎であればあるほどその姿勢は重要です。
13年間、長野県茅野市で牧会と伝道をして来て、実は昨年から今年が、一番脂が乗って来た状態と言ってよい年でした。信徒は、信仰の自立を始め、教会の形が見え始めた、そんな中での移動の話でありました。「なぜ今!」それが本音でした。「今動くなんて無理でしょう?!」「あり得ないでしょう」信徒を置き去りにするなんて・・・・。そんな思いでありました。
神様にすがったり、泣き言を言うのはともかく、噛み付いたのはこれが初めてかも知れません。
その祈りの中で、主は私に語りかけてくださいました。「これは誰の教会か?」、これはキリストの教会、山本憲治の私物ではないと・・・・。
私達の献身は、主イエスキリストのためであります。ですから、主が行けと言うのであればどこへでもいきます。と頭では理解していました。でも、感情は違います。「無理」、受け入れるのは難しい、苦痛の思いでした。祈れば祈るほど、信徒一人一人の顔が浮かんで来て涙が止まらない日が続きました。 信徒に申し訳ないという思いと、別れたくないという思いでグチャグチャになりました。
でも、主は「自分に死ぬ」ことだけを要求するお方ではありません。死ぬと同時に、まさに復活の道をも切り開いてくださいました。
それは御言葉で始まったのです。イザヤ41章9〜10節
わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
この御言葉は私が献身のときに、生涯の御言葉としてくださったものです。この御言葉が私の心に力をよみがえらせました。
その後の主の導きは鮮やかでした。毎日それまで伝道して来た様々なところに連れ出して、その度ごとに、確かにここにもあそこにも主の導きがあったと感謝に満ちさせてくださったのです。感謝に満ちたある日、最後の御言葉が与えられました。
ヨハネ14章26〜31節(新改訳)
ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネ 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ 14:28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
ヨハネ 14:29 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
ヨハネ 14:30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
ヨハネ 14:31 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
主は言われました。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」敦子先生もこの御言葉に感動を覚えました。二人で感動を覚えた御言葉です。
そして今日私達は、後ろに何一つ引きづるものを持たず、ただ主への感謝と喜びでこの地に立たせていただいています。
十字架の死、「自分に死ぬ」ことへ導かれるお方は、中途半端なことはなさいません。私達が復活の恵みを味わい知るまで責任を持って導いてくださいます。私達一人一人に対して皆同じであります。
決して例外の人はありません。大切なことはその恵みに飛び込んでいくことです。
共にこの恵みに飛び込んで、豊かな者へと成長できるように祈り御言葉にしっかりと立たせていただきましょう。このイースターから、皆さんがさらに主の十字架と復活の恵みにあずかり、力強い神の恵みに満ちた一人一人へと益々成長させていただけることを心より祈ります。キリストにあって、喜びも悲しみもすべて共に分かち合える、神の愛の中に歩ませていただきましょう。
お祈りをいたします。