熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                            2011.5.1

聖書箇所 ルカによる福音書24章13〜32節                                         

 「私に信仰の火を与えてくださるお方」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

ルカ24章27〜32節

 

 先週は幸いなイースター礼拝を皆さんと共に過ごすことができたことを、心より主に感謝いたしました。聖歌隊も本当に素晴らしかったです。私は講壇の上にいて聖歌隊の後ろにいましたので、ほとんど男性の声しか聞こえませんでした。それでも素晴らしかったのですから、次回はぜひ真正面から聞いてみたいと思います。また、午後の祝会も食事がとっても美味しかったですね。ゴスペルも最高に楽しかったですし、3人の兄弟姉妹が捧げた賛美もとても美しかったです。感動しました。さらに感動したことが、その後にもありました。幾人かの方が、今回イースターに出席できなかった正晴先生に、リアルタイムで写真を送ってくださっていました。また、イースター礼拝から祝会までのCDを作ってくださった方もいました。正晴先生を愛して、このように心をくばってくださった兄弟姉妹の皆様に改めて感謝を申しあげます。ありがとうございました。

 私も、そのように愛される牧師になれるよう成長させていただきたいと思います。どうぞ、私と敦子先生の為にもお祈りください。

 さて、イースター礼拝が終わったと言いましても、イースターの喜びと恵みは終わった訳ではありません。復活から召天されるまでの40日間、主は弟子達に現れ続けます。そこで、6月2日の召天日まで復活シリーズを説教で取り上げたいと思います。初代教会を立て上げた弟子達に、主は何を教え、何を伝えたのかを見て参りましょう。そして今の私達に何が必要なのか、主が何を求められておられるのかを教えていただきたいと思います。

 そこで今日はイースター第2弾となります。「エマオの途上」のこの場面から、日々健全なクリスチャンとして生きる為に、信仰の火を燃やしていただく必要があります。状況が良くても悪くても、信仰の灯火を燃やし続けるにはどうすれば良いのでしょうか。主はその復活直後にその方法をこの場面で教えておられます。ともに、心を開き主に教えていただきましょう。

 

もう一度ルカによる福音書24章13〜32節までをお読みいたします。

今日の第一のポイントです。

T. 何時如何なる時にも主に語りかけ祈りましょう。(13〜24節)

 最初に13節から24節を見てみましょう。二人の弟子は、「互いに語り合い、論じ合った」とあります。その内容はイエス様の十字架と復活であることは19〜24節を読めば明らかです。しかし、その語り合い、論じ合いには、キリストにある希望はどこにもありませんでした。それどころか、失望と絶望しか見て取れません。24節には、「救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。」と失望の言葉が書かれています。私達はまずここで二つのことを学べます。一つは「何故」と言う失

望の中より生まれる、空しい語り合いや論じ合いは、私達の信仰心をも曇らせてしまうということです。しかし、15節を見るとき感謝をすることができます。

「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」

 空しい思いの中で失望しきっていても、絶望に浸っていても、主イエス様の方から私達に近づいて来てくださると言うことがここから分かるからです。

 二つめは、私達は時にはっきり分かって話しているつもりが、全く的外れな考えや思いの中で迷走している場合があると言うことです。

 19〜24節を見ますと、イエス様の「それは、どんなことか」と言う質問に対して、彼らは全くとんちんかんな返答をしています。

 弟子達はイエス様のことを、一人の力ある預言者と見ていました。また、イスラエルを救うことは、イスラエル国という国の復興を願う気持ちでありました。当時の支配者であったローマ帝国からの解放のことを言っていたのです。しかし、その迷走の中にある弟子達を主はお見捨てにならず、正しい道に導こうと主御自身の方から導いていらっしゃるのです。

第1ペテロ5章7節を見ますと

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」とあります。

 主は私達を絶対に見捨てません。また、すべてをご存知の上で、主の方からいつも近づいて来てくださいます。そして、私を正しい道に導かれるお方なのです。私達は今ここを読んで、この事実を今確認いたしました。だからこそ、何があろうとも主から離れることをしないで、何時如何なる時も主に語りかけあなたの思いのすべてを主に祈りで捧げましょう。

 

第2のポイントにはいります。

U. 心のにぶい私達の目を開くのは主御自身です。(25〜31節)

 25節にある主のこの御言を読みましたら、私達は「私は神様の前に愚かで心のにぶい者である」ことを認めましょう。

 にぶいからこそ、私達は自分につまずき、他人を裁くのです。にぶいからこそ、他人を認められないどころか、自分さえも受け入れられないでいるのです。私達は神様の前では、皆等しく小さな者です。十字架の愛で許された罪人にすぎません。

 二人の弟子達も同じであります。そんな彼らの心の目を、主はどのように開かれたのでしょうか。ここでも、二つの方法を見ることができます。

 一つは27節「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」

 つまり、聖書の御言によってであります。この時代の聖書は旧約聖書を示しました。ですから新約聖書だけではなく、旧約を合わせた聖書全体よりイエス様の恵みを私達は知ることができるのです。

 聖書を通読いたしましょう。偏った読み方は、健全な信仰を養いません。ローマ10章17節に

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」とあります。聖書全体からイエス様の恵みをいただきましょう。

 二つめは、イエス様と共に時を過ごすことにあります。

 御言葉の解き明かしを受けた弟子達の心は、さらに主と共に時を過ごすことにより開かれていきます。そして、夕食のパンを主が二つに裂かれた時、彼らは最後の晩餐の場面を思い出したのでしょう。その時、主の姿が目の前から消えました。どうして消えられたのでしょう。この御言葉で説明がつきます。ヘブル11章1節

  「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」

 二人の弟子達はこの信仰に立ったのです。今何も起こっていなくても、今現実に見えなくても、「主を信頼していれば大丈夫」と言える確信が与えられたのです。だから、主が目に見える形でいつまでもいる必要がなかったのです。また、Uコリント4章18節では

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

 永遠に共にてくださるお方、主イエス様に毎日心の目を開いていただきましょう。イエス様に目を向けさせていきましょう。

 

最後の三つ目のポイントは

V.命のライフラインをいつもつなげていただきましょう。

 37節 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 主と共に時を過ごし、御言葉によって養われていく時に、私達の霊と心は燃やされます。それはまさに、個人的なディボーション、主への礼拝、祈祷会を守り捧げることの大切さを言っていると言ってよいでしょう。つまり、個人的なディボーションをもつこと、礼拝、祈祷会、早天に出席することこれらは、私達クリスチャンにとって命のライフラインなのです。

 

 私は信徒の時に、母教会の八王子教会より開拓伝道に遣わされました。それは、献身を表明した私にとって訓練の一環でありました。そこは、私達夫婦が13年間牧会と伝道をしてきた長野県茅野市にあります“すわシオンキリスト教会”の前身でありました。

 その時、私は信仰を持って4年目で、まだ日曜学校と公園伝道しかしたことがありませんでした。しかし、信徒の数が100名ちかい教会にいた私は、「自分ならできる」と大きな勘違いをしていました。本当は多くの信仰の先輩や仲間達に、祈り支えられていたのだと言うことに気付いていなかったのです。

 一人開拓に遣わされ、そこで月曜日から金曜日まで普通の仕事に就いて働きました。まず休みの土曜日に公園伝道から始めました。八王子から離れ、一人での信仰生活が始まって初めて気が付きました。礼拝や祈祷会がどれほど大切で、大きな意味を持っていたのか、教会の仲間に会えるということがどれほど嬉しいことなのかということを・・・・。

 毎週土曜日の公園伝道が終わると、その足で八王子の母教会まで通っていました。毎週伝道報告をしなくてはいけなかったからです。しかし、私にとってそれは、大変なことではなく大きな喜びでありました。毎週の礼拝が、天国のように感じられ、そこで聞く御言葉私を燃やし、力を与えてくれたからです。

 

 教会に行くこと、礼拝を守ること、祈祷会に出ることは当たり前で、「いつでもできる・・・だから今日くらい休んでも・・・・。」などと思わないでください。

 東北で地震や津波、原発で被災している兄弟姉妹の皆さんは、今その当たり前ができないのであり

ます。残されたクリスチャン達がその地で礼拝を守ろうと、必死になってがんばっています。

 

 皆さんの中で今日やっと休みになって、礼拝に出席できた方がいましたら、ぜひその恵みを噛み締めてください。そして兄弟姉妹との交わりを楽しんでください。皆さん一人一人が主の恵みを味わい感謝してください。

 教会生活ができること、私に命の火を灯してくださるイエス様に礼拝ができること、祈りを捧げることができること、毎日命の源であるライフラインにつながることができること、これらすべてのことは当たり前のことではなく、神様の恵み以外の何ものでもありません。心から主に感謝をいたしましょう。

今日の三つのポイントをもう一度振り返りたいと思います。

T.何時如何なる時にも主に語りかけ祈る時を持ちましょう。

 主はいつもそこにいてくださり、導いてくださるのです。だからこそ毎日主の前で祈りましょう。

 

U.心のにぶい私達の目を開くのは主御自身です。

 自分を含め、私達一人一人は心のにぶい者であることを、素直に認めて毎日主との交わりの時を過ごし、主の御言によって毎日目を開けていただきましょう。

 

V.命のライフラインをいつもつなげていただきましょう。

 毎日のディボーションを大切にしましょう。毎週の祈祷会、礼拝をおろそかにしないようにしましょう。間違っても来週もあるなどと思わないで一回一回の礼拝、祈祷会を感謝の心を持って捧げていきましょう。主が与えてくださる命のライフラインを一生懸命に守りましょう。

 

 私の為に十字架に架かり、死んで、墓に葬られ三日目によみがえられて、今日も私と共に歩んでくださる生ける神、私の信仰に命の火を与えてくださるお方、イエスキリスト様に毎日心の目を開いていただき、目を向けてまいりましょう。

 

祈ります。