熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                            2011.5.8

聖書箇所 ヨハネによる福音書20章19〜23節

 「イエス様を中心に生きる」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

 

 メッセージを取りつがせていただきます前に、まず皆様に感謝を申し上げたいと思います。それと、証しをさせていただきたいと思います。

 正晴先生が天に召されました日から葬儀に至るまで、主の導きの中で皆様から多くの愛をいただき、また献身的なご奉仕をしていただいたことを心より感謝申し上げます。それにより主の栄光に満ちあふれた本当に素晴らしい葬儀を行うことができました。何よりも、悲しみの中にあります私達家族に、慰めや励ましの言葉をかけてくださり、祈ってくださったことを心より感謝いたします。ありがとうございました。

 

 私は、今回の正晴先生の死を通し、また、悲しみの中にある家族と時間を共有することにより、とても大切なことを主から教えられました。

 私が諏訪で伝道していた時にも葬儀はいたしました。また、家族を亡くし悲しむ遺族の気持ちを少しでも受け止め、理解するように努めてきたつもりであります。

 今回の正晴先生の召天は私自身にとっても大きなショックでありました。そして悲しみの中にある家族と、共に過ごすことにより、私は今まで悲しむ遺族の気持ちを理解していたつもりでしたが、万分の一をも理解していなかったことを教えられました。睦子先生どころか、自分の妻にかける言葉も祈る言葉も出なかったのです。本当に自分の小ささ、無力さ、惨めさを痛感いたしました。こういう情況の中で、この悲しみを癒せるのはイエス様しかおられないと心の底から実感いたしました。

 熊谷に赴任となった時に、私は正晴先生と睦子先生の指導の元で、時間をかけて訓練を受け引き継がせてもらう思いでいました。しかし、正晴先生の容態を見ていく中で、自分がしっかりしなくてはいけないという思いと、諏訪で経験して来たことなどを必死で思い出していました。その結果、気付かないうちに「経験してきたこと」という名の城壁を自分の周りに築き上げていたように思えてきました。

 主の御計画の前に、それらはみな必要のないものと、主は教えてくださいました。パウロがピリピ3章8〜9節(新改訳)で言っているように

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 主の御前で、自分に必要だったものは経験ではありませんでした。必要だったのは、イエス様御自身であります。               1

 今私の中には、イエス・キリスト様にお頼りする以外には何もありません。これからもまだまだ、沢山主の御前に捨てていかなくてはいけないものがあるでしょう。

 いま私は主に心から感謝しています。これからも熊谷福音キリスト教会は、信徒の皆さんと牧師が、イエス・キリスト様を中心にして成長していくことができるからであります。イエス様中心、それはまさに、ネームレスでいくと言うことではないでしょうか。熊谷に就任1ヶ月目にして、そのことを教えられ、謙らせていただけたことを主に感謝しています。これからもこの小さき主の僕の為にお祈りをよろしくお願いいたします。

 

 それでは、ここからキリストを中心に生きていく為に、弟子達はイエス様からどのようなことを教えられたのでしょうか、聖書をひも解き共に教えていただきましょう。

 

 今日の箇所は、時間的には先週の「エマオの途上」とほぼ同時進行に行われたことが分かります。それが、全く同じ時間帯なのか、ずれがあるのかは定かではありませんが、同じ日の夕方であることは確かであります。ここに登場します11使徒と、他の弟子達も、エマオの途上の二人同様に、マリア達が墓で目撃したイエス様の復活を信じることができずにいました。

 そこでまず初めに、

T.イエス様は平安を与えて喜びに満たしてくださるお方です。(19〜20節)

 弟子達は人生の導き手であり心の支えであるお方をなくし、絶望の中にいました。イエス様の復活を信じることのできない彼らにとって、十字架は死以外の何ものでもありませんでした。その結果かれらは、起きるかどうかも分からないユダヤ人の迫害を恐れ、扉に鍵をかけて、閉じてこもってしまったのです。 

 十字架の愛が分からない彼らをとらえたのは、十字架の愛ではなく、十字架の死による恐れでした。十字架の愛にたてない時に、私達の心を支配しようとするのは恐れなのです。しかし、十字架の愛に立つことができた時、私達は恐れの心より解放されていきます。第一ヨハネ4章18節

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」

(完全な愛)これこそが主イエスの十字架の愛であります。しかし、その十字架の愛が、現実であり本当なのだと弟子達に証明したのが主の復活なのです。

 イエス様は、失望の中で恐れに捕われていた弟子達の真ん中に現れてくださいました。それがどんなに固く閉ざされた心であろうと状況であろうとも、主には関係ないようです。

 主は「安かれ」とおっしゃって平安を持って入って来てくださいました。そして、弟子達に分かりやすいように、手と脇を見せられました。同じように、私達にも、一番分かりやすい方法で「平安」を与えてくださいます。

 その平安が、弟子達を悲しみから喜びに変えたように、主は私達の憂いや悲しみも、喜びに変えてくださるお方です。そして、その信仰を持っている私達の中に住んでくださり、いつも共にいてくださる神様であることをしっかり覚えて、感謝をいたしましょう。

さて次は

 

U.主の平安があってこそイエス・キリストを伝えることができます。(21節)

 主に用いられることを願うのならば、私達はまずイエス様しか与えることのできない平安をいただ

かなくてはなりません。何故なら、その平安によって私達は主を喜ぶことができ、イエス様が生きておられる神様であるという、確信を持つことができるからです。では、その平安を得る為に大切なことは何でしょう。それは、静まってイエス様こそ私の神様であることを知ることです。

 詩篇46篇は、神様がいつも共にいてくださるから大丈夫と確信を与える詩篇であります。そして、その10節はまさにその平安を得る方法です。

46:10 静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめら

      れ、全地にあがめられる」。

 神様が、力強い御手と権威を持って導かれるのですから、静まってイエス様の御前にひざまずき、祈りなさい、あなたの心を向けなさい、重荷を下ろしなさい、その時主は平安を与えてくださると語っていらっしゃるのです。

 主に用いられたい、主イエス様のことを、誰かに伝えたいと願っておられるのならば、主の御前に日々静まる時を持ちましょう。

 最後になります。

V.すべては聖霊様の導きによって実現するのです。(22〜23節)

 確かに実際に行動をとるのは私達であります。祈ることも、伝道することも、私自身なのです。しかし、私の力だけでは、神様が与えた平安と喜びを持ち続けることは難しいことであります。私達には、助け主なる聖霊様の御力が必要なのです。

 聖霊様の導きと助けがなければ、神の御心を行うことなど無理な話しなのです。ヨハネ20章23節の御言は、キリスト者である私達にとって大変重い御言ではないでしょうか。

「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、」「あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

もし、私達がこの御言を、自分の常識や思いで判断したのならば、いったいどのようなことが起きるでしょうか。私達はたぶん、人をうわべで判断したり、自分の好き嫌いで人をえこひいきしたりして、愛のカケラも見られない泥沼状態になると思います。だからこそ、助け主なる聖霊様の力を必要とするのです。そして、何より聖霊様は、イエス様が聖書を通して私達に語ってくださる御言を明らかにし、悟らせ、実行していけるように助けてくださるお方なのです。 ヨハネ14章26節

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」

ですから、聖霊様を受け入れ、その導きを受けることが大切なのです。もし、今日まで、聖霊を拒んで来た方がいましたら、イエス様が「聖霊を受けよ」と言われたこの言葉に素直に従うことをお勧めいたします。しかし、主の御言は「受けよ」と命令形であることをよくお考えください。

 

 先週行われました正晴先生の告別式で、司式者の北野耕一先生が「どのように死ぬかは、どのように生きるかということです。どのように生きるかは、どのように死ぬかということです。」とメッセージの中で語られていました。確かに、葬儀は、神様の栄光に満ちた素晴らしい葬儀でありました。しかし、私はもっと素晴らしいものを正晴先生は残されたと思っています。

 ヨハネ12章23〜26節を開いて読んでみましょう。

すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

 正晴先生は、一粒の麦となってキリストと共に歩まれ、家族の賛美と祈りの中で静かに地上での人生をおえられました。渡辺正晴牧師という一粒の麦は亡くなりましたが、キリストと共に歩まれた人生を通して、多くの豊かな実を結んで下さいました。ここにいます私達一人一人がその実であります。

 先生はその生涯を通して、私達にはっきりと証ししてくださったことがあります。それは、イエス・キリストを人生の中心とし、その御言に耳を傾け、従って行く時に、必ず神様の御言は実現し、神の栄光が顕わされるということであります。私達を通して、神の御言葉が、実現されてまいります。

 この神の御言の実現はまだまだ続きます。今度は私達一人一人が一粒の麦となるのです。その為に、イエス様を中心として生かされてまいりましょう。日々の個人的ディボーションを通して、イエス様から平安を与えられ、喜びに満たしていただきましょう。イエス様から平安をいただき、キリストを喜びキリストを伝える者としていただきましょう。

 

今日の三つのポイントを最後に振り返りましょう。

T.イエス様は平安を与えて喜びに満たしてくださるお方です。

U.主の平安があってこそイエス・キリストを伝えることができます。

V.すべては聖霊様の導きによって実現するのです。

 聖霊様は実現に導いてくださる、助け主であることをしっかりと覚えましょう。そして、日々キリストと共に歩ませてくださいと導き求めて参りましょう。

 

 

お祈りをいたします。