熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝
説 教 者 山本憲治 牧師 2011.5.15
聖書箇所 ヨハネによる福音書20章24〜29節
「全ては神の恵みによって始まる」
今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。
イエス様の十字架の救いは、全ての人々への神様からの恵みであると同時に、「あなたを愛している」という、もっとも個人的な神様からのあなたへの語りかけであります。
神様は、私達への愛の語りかけを誰かに強いられて、仕方なく行ったのではありません。主権は常に神様のものであります。神様の方から私達を愛し、一人一人を愛おしくて仕方がない程愛して下さっているのです。愛するが故に、神様が取られた行動こそが、キリストの十字架によるあがないと罪の許しなのです。私達が神を求めたのではなく、神様が常に私達の先に立って、恵みを用意して下さっているのです。私達はその恵みとわれみによって、罪が贖われ、悔い改めによる罪の許しをいただいた者にしか過ぎません。
私達の信仰は主から与えられたものなのであります。全ては神様からの一方的な愛の恵みによって始まっているのです。復活して、今も生きておられるイエス様に日々出会うことにより、私達は神の愛と力に満ちたキリスト者へと成長させていただけるのです。
確かに、毎日の生活には私達の努力も必要であります。しかし、キリストの体として、神の子として成長したいのであれば、それはあなただけの個人的な努力だけでは難しい問題なのです。神様から与えられた信仰に立ち、助け主なる聖霊様に導かれてこそ、神の御心に沿って成長をすることができるのであります。何より、主御自身がそのように導いて下さるのです。
今日の聖書箇所から、私達がどんなに素晴らしい愛と恵みを受けて、生かされているのかを教えていただきましょう。また、その恵みの中に生き続けるには、どのようにしたらよいのかを教えていただきましょう。 そして、共に主の御前に感謝を捧げましょう。
そこで今日の第1のポイントです。
T.教会から離れないことが回復への道。(24〜26節)
今日の登場人物であるトマスは、復活されたイエス様が12弟子達に顕れた時、そこに居合わせませんでした。彼は、何らかの用事があり出かけていたようであります。トマスが帰ってみますと、他の弟子達は、復活の主に出会ったと喜びに溢れていたのです。ちょっと前まで、全てを失った者同士として、悲しみを共有していたのに、突然彼だけが取り残されたのです。そして、トマスは弟子達に宣言します。「自分も同じように見ない限り決して信じない!」と・・・。彼は頑固で意固地になってしまいました。
このようなトマスは、疑ぐり深い懐疑主義者、現実しか受け入れない現実主義者などと色々と言われます。でも、素直に彼の立場に立つのならば、意固地にもなりたくなるのではないでしょうか。「何で、私がいない時に来ちゃったの・・・みんなばっかり喜んで」。
あなたがトマスの立場ならどうでしょう。
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でも、トマスにも恵みの時が訪れます。それは、彼が仲間から離れなかったからであります。意固地になって啖呵を切った手前、きっと居心地は良くなかったと思います。後ろめたかったのではないでしょうか。しかし、彼は信仰者の中にとどまったのです。8日後、イエス様が再び、「安かれ」と平安と赦しをもって訪れて下さいました。
どのような理由があっても、キリストの体である教会から離れないようにしましょう。教会から離れていく時、私達はキリストからも離れていきます。 Tヨハネ1章7〜9節
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」
キリストにある兄弟姉妹の交わりの中で、主は私達を清めて下さると言われます。教会の交わりの中にいてこそ、主からの罪の赦しと悔い改めと清めを実感していけるのです。
私は自分の母教会である八王子教会で、独身社会人のファミリーリーダーをしていました。奉仕を始めた頃は、皆に良かれと思ってしたのにもかかわらず、誤解され非難されることも結構ありました。また、皆が頼んできたのでがんばったのに、いとも簡単に否定されることもありました。今思えば自分が未熟であり、非があったことも十分わかります。しかし当時は、「頑張ったのにな・・・。」という思いが強くありました。
ある時、教会で聖会が行われました。その時の講師の先生を通して、主は私にこのように語ってくださいました。「教会は、神に赦された罪人の集まるところです。クリスチャンもか弱き罪人であることにはかわりありません。だから神様の助けが必要なのです。神様を見上げなくてはいけません、罪人の自分ではなく、周りではなく、イエス・キリスト様だけを見上げましょう。」
この時私は自分を含め、全ての人が赦されただけの罪人に過ぎないことを知りました。だから、他人を非難したり、何かを言われて意固地になっても意味がないのだと言うことを知ったのです。それよりも、その中で、主に助けていただいて祈り、受け入れる心を育てていただく方が遙かによいことであることを学びました。もちろん、その時から悩まなくなったわけではありません。でも、教会から離れようとは思いませんでした。そして、今の私があります。
皆さんも教会から離れないでいましょう。主の礼拝を守り、祈祷会を守り、ファミリーの交わりを大切に致しましょう。そして、その交わりの中で共に成長させていただきましょう。
次のポイントは
U.信仰は、主の愛と憐れみによって与えられるもの。(27〜28節)
イエス様は、トマスが12弟子達に思わず言ってしまったことと、同じことを彼に言われました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。」
それはトマスが、意固地になって言ってしまった言葉です。この目で見るまで、イエス様の復活など信じないと言った不信仰の言葉です。でも、主はトマスに否定されたにも関わらず、トマスを否定
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することはなさいませんでした。主は私達の思いの全てをご存じであり、全てを受け入れて下さっています。ですから、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われたのです。
この主の言葉は、トマスに向かってはっきりと「疑わないで信じなさい、信頼しなさい」とおっしゃっているのです。
イエス様の愛と憐れみによって、トマスは信仰を与えられ「わが神、わが主よ」とはっきりと信仰告白をさせていただいたのです。
信仰は、人の努力によって獲得できるものではありません。ですから、誰も自分の信仰を誇ってはいけないのです。誇るべきお方はただ一人です。私達に十字架と復活という、愛と憐れみによって信仰を与えて下さった主イエス・キリスト様だけであります。その信仰が、今私達の中にあることを心から主に感謝いたしましょう。
最後のポイントになります。
V.私達は幸いな者なのです。(29節)
主は「見ないで信ずる者は幸いである」と言われました。Tペテロ1章8〜9節にこのようにあります。
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」
トマスはイエス様の憐れみによって、目に見える形を取って教えていただきました。しかし、主が求めておられたのは、神様を心から信頼する信仰であります。見える、見えないにかかわらず神様を信じ信頼して従っていくところにあります。
私達は、まさにこの御言が実現した者なのです。私達は弟子達のように、イエス様に直接会ったことはありません。でも、会っているかのように信じています。イエス様をこの肉眼で見たことがありません。でも、毎日見て会っているかのように慕っています。
イエス様は、目に見えるしるしや、奇跡によって信じるのではないことを教えておられるのです。確かに、それは助けになるかもしれません。しかし、しるしと奇跡的業によって信じるのではなく、神の御言によって信じることを言っておられるのです。
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」
キリストの言葉を聞くだけで信じる者とされる。これこそ神の憐れみによる奇跡のわざと言えるのではないでしょうか。もし神の奇跡を目撃したいというのであるならば、ぜひ、毎日鏡の前にお立ち下さい。そこに神の愛と憐れみによって、救われ実現した神様の奇跡の姿である御自分を見ることができます。主イエスを信じているあなたこそが、この御言葉にある「幸いな者」なのです。
今日の三つのポイントを最後に振り返りましょう。
T.教会から離れないことが回復への道。(24〜26節)
U.信仰は、主の愛と憐れみによって与えられるもの。(27〜28節)
V.私達は幸いな者なのです。(29節)
お祈りをいたします
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