熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                            2011.5.22

聖書箇所 ヨハネによる福音書21章15〜22節

 「わたしに従ってきなさい」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

 主に従っていくのに資格がいるのでしょうか。神学生になるには、神学校が定めたそれ相当の資格が必要でしょう。しかし、イエス様に従って行くにはどうでしょう。もし資格を必要とするならば、それは一つだけであると思います。そのままのあなたを恥とせずに、主の前に祈りを持って自分自身を捧げることです。何故なら、主はすでにあなたに対して特別な御計画を持っておられるからです。人間的な、飾り付けや格好付け、まして資格など必要ありません。ペテロを初めとする12弟子達の大半が無学でした。でも彼らからこの救いは広がっていったのです。さあ、主の前にそのままの姿で出て行きましょう。そして、主に用いていただこうではありませんか。今日の聖書箇所を通して、主の導きを教えていただきましょう。

 

 今日の第1のポイントです。

T.ありのままの自分を認める時に主は許し、癒し、用い続けて下さるのです。(15〜17節)

 イエス様は、私達の心の傷を放置しておかれるお方ではありません。しかし、私達の意志と関係なく癒しを行うお方でもありません。

 イエス様は、ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

と問われました。それ対してペテロは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えます。そのような問答をイエス様はペテロと3回繰り返されました。よくこの場面から、3段階の愛と題して、エロス、フィリオ、アガペが取り上げられますが、今回はそれを横に置いておきます。それよりも、何故イエス様が3回もペテロに問い直したのかを注目したいのです。

 イエス様とペテロの3回と言えば、聖書を読まれている方ならすぐ思い出しますのが、イエス様が捕らえられ、不当な裁判にかけられた時に、祭司長カヤパの家の裏庭でペテロが3回イエス様を知らないと言い放ってしまった場面です。「絶対にイエス様を裏切りません、死ぬような目にあっても離れません、主を愛しています。」と熱く最後の晩餐で語ったペテロでありました。しかし、死の恐怖にとらわれた時、ペテロはいとも簡単にイエス様を「知らない!」と裏切ってしまいました。

 本当に人の心とは弱いものであります。一人庭を後にして、ペテロは大泣きをしたと聖書に書いてあります。

 ショックだったでしょう、立ち直れないほどに傷ついたと思います。その心の傷を誰よりも分かっていたのは、仲間の弟子達ではありませんでした。それは、裏切られたはずのイエス様御本人であります。イエス様はそんなペテロに、心の傷をごまかしてほしくなかったのではないでしょうか。ですから、ペテロが本音を言うまで3回も聞き直されたのです。

 そして、3回目に聞き直された時「ペテロは心を痛めて」本音をイエス様に言ったのです。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」                

イエス様を知らないと否定したことも、呪ったこともいっさいを主はご存じですと・・・。

「それでも私はあなた愛し慕っています。イエス様から離れられません。」と・・・。

 イエス様は、愛してやまないペテロを許したかったのです。許すことよって傷ついた心を癒したかったのです。イエス様の十字架の前に赦されない罪などあり得ません。その赦しの前に、癒されない心の傷はないのです。また癒しが進むたびに、その感謝があなたの証しとなっていくのです。

ルカの福音書22章31〜32節を読んでみましょう。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 イエス様は、ペテロを赦し、癒しながら、なおもペテロを主の働きのために用いると「わたしの羊を養いなさい。」言われたのです。大切なことは、ペテロと同じように主の前に自分の弱さを素直に認めることなのです。

 イエス様はあなたの過去を問いません。ただ素直に主の前に祈り委ねていきましょう。主は生涯を通して、許し続け、癒し続け、用い続けて下さるのです。そのような愛で愛されていますことを主に感謝いたしましょう。

 

次のポイントは

U.生涯、神の栄光を表し続けさせていただきましょう。(18〜19節)

 イエス様がペテロに向かって、どのような死に方で神の栄光をあらわすのかを語られましたように、イエス様に従っていくことは、一時の出来事ではなく、生涯にわたっての歩みであります。そして何よりも、主に従うことは神の栄光を表していくことなのであります。

 その中で一番大切なことは、イエス様がペテロに「わたしに従ってきなさい」と決断を促されたように、主はあなたにも従う決断を促しておられるということであります。

 神様の栄光を表すために、主に従い、御心に沿った歩みをするには、あなたの決心という意志が必要不可欠なのであります。

 第1のポイントで語りましたように、イエス様はあなたの過去を問いません。ただ素直に主の前に祈り委ねていきましょう。主は生涯を通して、許し続け、癒し続け、用い続けて下さるからです。生涯主の栄光を表し続けていけるように、主の前に日々従う決心を捧げていきましょう。

 

最後のポイントになります。

V.あなたにはあなたのための主の御計画があるのです。(20〜22節)

 私達一人一人に対して、神様が特別にお立てになった御計画があります。ペテロはイエス様から、特別に直接肉声で神様の御計画を教えていただきました。それにもかかわらず、彼は他人を気にします。「イエスの愛していた弟子」とはヨハネが自分を指して使う愛称です。でもイエス様は、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と「他人を気にしてはいけない」と言われました。

 神様に用いられるのに大切な心がけは、他人と比べないと言うことです。あなたはあなた、私は私と一人一人にあった御計画があるのです。

 私が神学校に入学する前のことですが、私は母教会で教会献身をいたしました。私はその時に、他人と比べるという大きな失敗をしたのです。

 私が教会献身をした時に、もう一人同時に献身をした相棒がいました。彼は、とても活発で目立つ存在でした。彼が動なら、私は静といった感じです。それぞれの賜物も違いました。彼は伝道計画をたてるなど、活発に前面に出ることが得意でした。一方私は、教会で着いていけない人、悩んでいる人、落ち込んでしまった人の面倒を見たりすることが多く、伝道をバックアップする方でした。しかし、若かったと言うこともあり、周りの目もありました。そして何よりも用いられたいという思いで一杯でした。目立つことは用いられることと勘違いをしてしまったのです。その時点でしっかりと神様に祈って聞けば良かったのですが、焦っていたのでしょう、自分より用いられていると思った相棒のまねを始めたのです。

 最初はうまくいきました。でも所詮物まねですから、化けの皮はすぐにはげます。はげた時には惨めであります。最初に指摘してくれたのは、大学生の女の子でした。すぐに私の態度をみて、「違う!」と言うのです。「何が」と聞くと、「そんなのけんちゃんじゃない!」と言うのです。ショックでした。しかし、私は頑固にも認めようとしなかったのです。正直にいって、その頃の教会献身は苦しいだけ

でした。その化けの皮が本格的にはがされるのが神学校でした。当時は、井桁久先生や山田晃美先生(旧姓野崎)、そして、私の妻の敦子先生がいました。

 寮生活であった神学校では、毎日顔を会わせなくてはいけません。正直、自分をとりつくろっている場合ではありませんでした。信徒時代の私を知っていた先輩の神学生は、ありのままでいられるように変えられた私を見て「これが本当の君か」と言って喜んでくれました。化けの皮がはがれることは確かに苦痛が伴います。しかし、はがれた後は楽なのです。解放が来ます。そのままの自分で良いのですから・・・。

 神学校の3年間ですっかり私は、あるがままの私に変えられていました。もちろん完璧になったのではなく。主に用いていただくスタートラインに、山本憲治として一人の人間として立つことができたのです。

 

 主はありのままのあなたを用いたいのです。他人の真似をしたり、人目を気にして生きるあなたではありません。先週のメッセージの最後にも言いました。「幸いな人」であるあなたを用いたいのです。鏡は正直に、そのままのあなたを移します。ニキビがあろうと、シミがあろうとおかまいなしです。でも、主はそのあなたを愛している。あなたは高価で尊いと言われるのです。

 主に従うのでしたら、自分の弱さをごまかしているあなたではなく、「あなたは高価で尊い、あなたを愛している。」とおっしゃっておられるイエス様に、ありのままの自分で従っていきましょう。そのように変えられて行くならば、あなたを通してイエス様の十字架の愛と許しと復活の命の力が、毎日のあなたの生活の中にあらわされていくのです。

今日の三つのポイントを最後に振り返りましょう。

T.ありのままの自分を認める時に主の癒しが始まっていく。(15〜17節)

U.生涯、神の栄光を表し続けさせていただきましょう。(18〜19節)

V.あなたにはあなたのための主の御計画があるのです。(20〜22節)

 

お祈りをいたします