熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                            2011.6.5

聖書箇所 使徒行伝1章3〜11節

 「キリストに生かされている喜び」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

 ここには、クリスチャンの皆さんを始め、神様に対する様々な思いを持った方々がお集まりであると思います。神様を知りたいと求めておられるお方、まだ、良く分からなけれども、何故か教会に足が向いてしまう方、神様を信じることに心の葛藤を覚えておられる方、また慰めや励ましを求め来られている方、人それぞれだと思います。では、先週一週間を振り返る時に、皆様にとってどのような一週間であったでしょうか。喜びがあり楽しみのある、満足いく一週間であったでしょうか。あるいは、悲しみや苦しみ、悩みや葛藤を覚えるものだったでしょうか。その喜び楽しみは、一人自己満足で終わるものでしょうか。その悩みや葛藤は、一人孤独なものだったでしょうか。

 自己満足であるならば、それはあなた一人で終わることでしょう。一人ぼっちの孤独な歩みならば、それは辛い以外の何物でもないのではないでしょうか。

 今日お読みした聖書個所には、神を信じる者として、本当の喜びと満足のいく人生を送るための備え方と、その目的が記されています。

 神を信じ信頼する者は、神と共に生きる人生に対して傍観者であってはなりません。それでは神の恵みはわかりません。常に人生の中に起きてくる事柄の中で、特に人と人との関わりに関心を寄せていただきたいのであります。確かに、中には「もう人間関係には辟易している。」と言われる方もいるかもしれません。キリストは、私たちの人生に闇ではなく、光を灯したいと願っておられます。心にあった闇さえも光に変えてくださるのがイエス様なのであります。

 イエス様の弟子達は、そのように変えられていく人生を選びました。彼らは、イエス様と出会って、完全に変えられたのではありません。心の闇を残しながらもキリストと共に生き、キリストを証しする為に、人々に積極的に関わりを持つ人生を選んだのです。そして、キリストと共に歩む中で、力が与えられ、癒され、平安と喜びの人へと変えられていったのであります。

 私達も主が与えてくださった平安と喜びを持って、人々と心の交流を求めてまいりましょう。イエス様の導きを求めて、イエス様と一緒に周りの人々と関わりを持たせていただこうではありませんか。

  弟子たちが経験したように、私達も祈り求めましょう。私たち一人一人に合った方法で必ずイエス様が体験させてくださいます。

今日も共に、主の御言葉を通してこのことを学び、求めてまいりましょう。

 

 今日の第1のポイントです。

T.イエス様は復活されて今も共に生きておられる、私の神様であることを教えていただきましょう。                              (1〜3節)

@イエス様と共に歩ませていただく為には、主が生きておられる私の個人的な神様であることを信じ、祈りを持って、聖書を通して聴き、教えていただく必要があります。今日の個所にもキリストが、

40日間現れ続けて下さったことが記されています。それは単に、キリストが復活されたことを示しているだけではありません。 

イエス様が生きておられ、いつも一緒にいて下さるお方であることを示されているのです。先週のメッセージでも話しましたように、40日の間全ての出来事が記されているわけではありません。しかし、復活の主との出会いの場面を一つずつ自分に当てはめて読んでみて下さい。聖霊様が、御言を通して必ずあなたに語りかけて下さるはずです。聖霊様は、御言を通して働きかけて下さるのです。ですから、あなたが「イエス様は復活されて、今も私と共に生きておられる、私の神様であることを教えてください。」と明確な祈りと目的を持って聖書を通して聴くならば、きっと神様からの答えが来るはずです。もちろんそれは、復活され弟子たちに現れた場面だけではありません。神様からの答えを求めておられるのならば、聖書の全ての個所に対してそのような明確な姿勢を持って読まれることをお勧めいたします。

 

A私がイエス様を自分の個人的な神様として受け入れた時のことです。私はキリスト教会に行くようになる前に、一時期新興宗教の「統一教会」に異端の教会と知らずに通っていたことがありました。そこでは、同じ聖書を開き、イエス様が話の中に出てきます。驚くことに十字架の贖いと許しが大胆に語られました。実は私は統一教会で、自分の罪を、涙を流して悔い改め、十字架を自分の為と自覚して、イエス様を自分の神様と真剣にお迎えしたのです。しかし、異端の恐ろしいのはそこからでした。すっかり統一教会に心を許しイエス様を受け入れたところで突然、「イエス様は聖書にある通りに実はすでに再臨しているのです」と言うのです。そして、統一教会の教祖である「文鮮明」が再臨のキリストであると紹介するのです。聖書知識の乏しいたいていの若者は、そこで真剣に文鮮明に献身していきます。若者たちはイエス様の12弟子に自分を重ねてしまうようです。ところが私は少々違いました。小学生の時から、毎朝礼拝があるミッション系の学校に通っていたこともあり。聖書の話は、それなりに知っていました。その為でしょうか。文鮮明が再臨のイエス様であると、どうしても受け入れることができませんでした。親も私が統一教会に行っていることを知り、強く止めたこともあって行くことをやめました。やっと自分の生きる道を見つけたと思っていた私としては、行き詰まってしまったわけです。しかし、その行き詰まりと叫びこそが、私と生きた復活の主と出会う切っ掛けとなったのです。一人部屋にこもりこのように叫んだことを今でも覚えています。「僕はこれからどうしたらいいのですか」その時、私の心の中にこのようにはっきりとした思いが湧いてきました。「お前には復活の主イエス様がいるではないか!」と・・・。

これ以上ないくらいに、イエス様こそが私の神様なのだとの確信が自分の心の中に来たのです。そして、導かれるままに聖書を開き第一ペテロ5章7節を読みました。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」

すると私の心にあった岩のような重荷が一瞬に消えて、重苦しい心が軽くなったのです。イエス様は生きておられます。そして、日々あなたに御言を通して語っておられます。どうぞあきらめないで、はっきり「イエス様は復活されて、今も私と共に生きておられる、私の神様であることを教えてください。」と祈り御言を毎日求めて読みましょう

次のポイントは                                                                                  

U.父なる神様が約束してくださった聖霊のバプテスマを待ち望みましょう。 (4〜8節)

@聖霊のバプテスマに対して、誤解や偏見を持って毛嫌いしてしまっている方がおられます。たいていの方は、その個人的体験から来ているようであります。理由はともかく、今日は体験談からではなく、明確な聖書の御言に学びましょう。あなたがどのような体験をなさったかは知りません。また、問いません。今はそれを横に置いていただけますでしょうか。良い体験も悪い体験も、ひとまず置いてください。使徒行伝1章4節を見てみましょう。そこには、このようにあります。

「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

 ここには「父の約束」とあります。父なる神様の約束とは何でしょうか。それは、聖霊のバプテスマという神様の祝福であります。約束である以上与えてくださるのが絶対条件なのであります。神様自らが約束を破るということはありません。何故なら、人の罪は神様との約束を守らなかったことから始まっています。その結果としてわたしたちの罪に満ちた悩み多き人生があるのです。神様は絶対に約束を守るお方であります。私達の方から約束の聖霊を拒むことのないようにいたしましょう。そして、是非その恵みを受け取っていただきたいと思います。

A約束に対しては待ち望むことであります。今日はこの所に説得や体験談は入れません。ただ純粋に神の御言葉に立っていただきたいと思うのであります。イエス様自らが言われました。「父の約束を待っているがよい。」待っているがよいと言われたのですから、それを求めて待ち続けることが神様に従うことではないでしょうか。使徒行伝1章7節には

「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」

私達の思いや立場はこの場合関係ないようであります。ただ主を信頼して待ち望むことを主は求めておられます。私達の理屈や拒む自由は条件に入っていないのです。確かに、拒むことはできます。でも、神様の側にはその条件は明記されていないのです。ですから神の権威に従い待ち望みましょう。

Bただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。            使徒行伝1章8節

聖霊様がくださる力は、主を伝える力であります。インスタントに能力や賜物を増幅する力ではありません。雄弁にする力でもありません。健康促進する増強剤でもありません。それは、また祈りの力でもあります。神様とのホットラインがもっと太くなることなのです。ですから、祈り続けなくてはなりません。聖霊のバプテスマを受けることはゴールではなくスタートラインに立っただけであります。そのスタートラインに是非立っていただきたいのです。その祈りが始まる時に、今まで以上にあなたと神様との関係が深くなっていきます。

来週はまさにその聖霊降臨を記念するペンテコステの日であります。この一週間、全ての自分の体験や知識を捨てて素直に御言に立って待ち望んでください。弟子達も何が起きるのか、何時どうなるのか何も分かっていなかったのです。彼らはただ素直に、父なる神様の約束を信じ、イエス様の言われる通りに祈りつつ待ち望んだだけであります。それが聖霊のバプテスマを与えられることにつながっているのです。素直になって、「父なる神様が約束してくださった聖霊のバプテスマを私達にも与えて下さい。」と祈りましょう。

 

 

 最後になります。

V.私達の人生にはタイムリミットがあります。(9〜11節)

弟子たちは、イエス様から父の約束をいただくまで待ち望むように言われました。聖霊のバプテスマを受けることにより、主への確信と福音を伝える力をいただける約束をいただきました。しかし、それらが具体的に何でありどのようなものであるのかは、まったく分かっていなかったと先ほどお話しいたしました。しかし、彼らはそれが神様の約束された祝福の道であると信じたのであります。 

@信じ受け止める決断をする時に主の、新しい働きが始まります。イエス様は弟子たちが受け止めた時に、その場から天に昇天されました。イエス様が天に戻られた後、今度は聖霊様が来られました。私達にも、そのように人生が変えられる節目が用意されています。そして、それはあなたが自分の心のかたくなさを素直に認め、今の現実を受け入れ、神様に信頼して歩む決断をする時に起きるのです。

A神様は善にして、善をなしてくださるお方であられます。主のなさることに間違いはありません。弟子たちが天を見上げていますと、御使いが現れのんびり眺めている場合ではないと彼らに言いました。主は、再び来られるのです。早速行動を起こさなければ時間には限りがあることを伝えました。私達の人生にはタイムリミット(時間制限があります)があります。自分の寿命がいつまでなのかもわかりません。主がいつ来られるのかもわかりません。私達はいつまでも若くはないのです。全てにタイムリミットがあります。しかし、聖書はこのようにもいいます。伝道の書3章1、11節

3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けら

    れた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

人生にはタイムリミットがあります。その時々に、神様の愛の配慮あるご計画があることを聖書は語っています。あなたの為に神様が用意しておられる恵み豊かな人生を、どうか無駄にしないでください。自分の欲望のために生きるのではなく、イエス様にあなた自身をおささげし、イエス様と共に歩みながら、毎日御言を通して養われ導きをいただきましょう。

 

神を信頼し、神と共に生きる人生に対して傍観者とならないで下さい。

人生に起きてくるあらゆる事柄に、また人と人とのかかわりの中に神様の導きを求めてください。もしあなたが孤独や虚しさを感じておられるならば、いつまでも答えの出ない問題に目を向けるのをやめて、すべての問題に答えを持っておられるイエス様に目を向けましょう。キリストは、私たちの人生に闇ではなく、光を灯してくださいます。

主が与えてくださると約束してくださいました聖霊を受けましょう。イエス様の弟子達は、その約束を素直に信じました。聖霊を受け、神様の愛が注がれ、力を与えられ、癒され、平安と喜びの人生を歩んだのです。これこそがキリストに生かされている喜びの人生であります。

 皆さん、主の前に素直になりましょう。そして、主に従う決心を捧げ、キリストに生かされている喜びの人生を歩みましょう。

 

祈ります