熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝

 

者 山本憲治 牧師                            2011.6.12

聖書箇所 使徒行伝1章1〜14・36〜47節

 「約束の聖霊によるバプテスマ」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

 今日は教会総会があります。この教会総会を迎えるに当たって、わたしはとっても感動したことがございました。何に感動したかと言いますと、まず、総会資料を1週間前にいただけると言うことであります。皆さん是非これを当たり前と思わないで下さい。このために役員の方々が一生懸命に準備を致しました。その努力は大変なものであります。これも、イエス様の教会である熊谷福音キリスト教会が問題なく前進し、教会員の皆さんと共に主の恵みを感謝するためであります。この愛の配慮と御労苦にまず感動いたしました。また、資料を見てさらに感動いたしました。1ページ目にこのように書いてあったからであります。

 <教会総会とは> 

●教会総会は今までの教会の歩みを主に感謝する時です。

  教会総会は感謝の時なのであります。日本の教会のどれほどが、そのように総会を迎えているで

 しょうか。次に、

●教会総会は『主イエスキリストへの献身』を新たにする時です。教会の頭であるキリストを見上げ、 

 聖霊の導きのもとに共に祈って、主に仕える決断を致しましょう。 とあります。

 素晴らしいですね。それに何よりも聖書的であり、初代教会の姿に通じるものがあります。今日お読みいたしました、使徒行伝に出てきます教会の姿によく似ていると思います。それは、人の力ではなく、聖霊によるキリストの愛の御支配により築き上げられた姿であります。初代教会のように、愛と恵みに満ちあふれた教会になるためには聖霊の力が何よりも大切となって参ります。その恵みを今日の箇所から共に学んで参りたいと思います。その前に一つだけ覚えておいて頂きたいことがあります。

 今日のメッセージの中で、「聖霊によるバプテスマ」について語らせて頂きますが、誤解してほしくないところがあります。それは、「父の約束」とイエス様が言われた「聖霊によるバプテスマ」を頂いていないと言うことは、聖霊があなたと共におられないと言うことではありません。何故なら、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」と第一コリント12章3節にあるからです。イエス様を信じている方全員の内に聖霊はおられます。ご安心下さい。では、イエス様が待ち望みなさいと言われた「父の約束である、聖霊によるバプテスマ」とはいったい何なのでしょうか。それは聖霊の助けにより、イエス様を信頼することを、御言の確かさを、常識の枠を超えて確信する者となるための恵みとも言えるでしょう。

 初代教会の最初に起きた出来事と発展を、昔の話と思わないで下さい。初代教会の発展があったからこそ熊谷福音キリスト教会が存在しているのです。そういう目で見ますと、初代教会は熊谷福音キリスト教会の原点とも言えるでしょう。主が与えて下さったこの豊かな恵みを私達も受け継ぐべきではないでしょうか。初代教会の姿から主にその恵みを教えて頂きましょう。

 今日の第1のポイントです。

T. 聖霊の恵みは、神に祈り期待していた弟子全員に注がれました。(1〜4節)

@聖霊は、「待っているが良い」とイエス様が言われました父の約束を、待ち望んでいた者達一人一人に注がれました。3節を読みますと「とどまった」とありますように、これが一時的なものではなく、永続的なものであることが分かります。旧約聖書の中にも、「聖霊に満たされて」や「神の御霊に満ちて」また「神の霊が激しくのぞんで」などと一時的な満たしはありました。しかし、使徒行伝に出てきます聖霊降臨は、助け主なる聖霊が確かに信者の中に住んで下さっている確信を与えて下さるものでした。そして、聖霊が私達の中におられる確かな印として次の印が与えられたのです。 4節

Aすると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

「御霊が語らせるままに」とありますように、聖霊がのぞまれた時に、その支配に身を委ねたことが分かります。その時に、聖霊の導かれるまま他国の言語で語り出したのです。これを私達は「異言の祈り」と呼んでいます。この聖霊がくださる恵みは、求める全ての人に与えられると聖書にあります。

ルカ 1113

「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」

しかし、ここで勘違いしてはいけないことは、求めるべきことは異言の祈りではないと言うことです。求めるべきは聖霊御自身であります。その印として「異言」が与えられるのであります。

 主体は聖霊を受けること「聖霊によるバプテスマ」であって、異言ではないことをしっかりと覚えておいて下さい。しかし、聖霊を受けることによって何が私達に起きるのでしょうか。

次のポイントは                                                                                  

U.伝道は聖霊の導きと力による業であります。 (5〜14・36〜41節)

@福音を語るべき魂へと導いて下さるのは聖霊であります。6節を見ますと、聖霊が降臨されると大きな物音があったようです。そこには多くの人々が住んでいました。その物音に驚き人々が集まってきました。その状況は、決して弟子達が計画して集めたわけでも、のぞんだわけでもありません。聖霊によって集められたのであります。集まった人々はそれぞれの憶測を持って勝手なことを言っていたようです。そこで立ち上がったのがペテロと使徒達でありました。

A弟子達は聖霊によって大胆に確信を持って語る力を頂きました。それまでは、いつもイエス様について行くだけの者でした。しかし、聖霊を受けることによって、福音への確信が与えられました。聖書の御言が明らかとなり、無学な弟子達が預言者のごとく御言を通して、福音を解き明かしました。その姿は、聖霊に満ち溢れたイエス様のごとく大胆に見えます。

B福音への確信を持つ時に、私達はキリストを大胆に証しする者とさせて頂けるのです。ペテロの大胆な説教によって3,000人が救われたとあります。これは凄いことです。何故なら、イエス様がヨハネの福音書1412節で次のように言われた御言がここで初めて実現した場面であるからです。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」

聖霊を受けるならば、この現代でも3,000人もの人々が、一挙に救われるようなことが起きるのでしょうか。それは何とも言えません。

 もし、あなたが本気でそのような神のお働きを望むのでありましたら、できるのかどうかと悩む前に、聖霊を求め「わたしを用いてください」と祈って下さい。主があなたにそのようにしたいとお望みであるならばそのようになるでしょう。

 最後になります。

 

V.聖霊によって謙りが与えられる時に、神の御業が顕れます。(42〜47節)

@初代教会がここに始まりました。教会が、イエス様が言われたとおりに始まったことが次の御言葉からも分かります。 マタイ28章19〜20節

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」

聖霊はわたし達を通して、御言を実現して下さるお方であります。

 42〜43節に、聖霊の導きの中で信者達は、使徒達の教えを守り、信徒の交わりをし、祈りをしていたとあります。そこに使徒を含め、彼らの中におそれの念が生じたというのです。それは恐怖ではなく、偉大で愛に満ち溢れた神様への確信と感謝の思いから生まれた謙りと言えるでしょう。

A神様が求める謙りは、人の努力によるものではなく聖霊の業であります。その謙りは、個人的にも与えられるものですが、結果的に教会全体に与えられたものであることが聖書から分かります。教会員全員が聖霊に満たされて神様の前に謙る時に、奇跡の御業が起き始めることを聖書は語っています。これこそが、人が傲慢になることから守られる一番の方法かもしれません。教会全体が聖霊によって謙る時に、信者の心に一致が生まれ、主の恵みを互いに分かち合うようになるからであります。この姿は、ヨハネによる福音書15章12節にある、イエス様の御言が実現した姿と言えるでしょう。

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 互いに愛し合うことこれこそ聖霊の御業ではないでしょうか。

 

 イエス・キリストの教会である初代教会も、私達の熊谷福音キリスト教会も神様の目からは何一つ変わらない、愛されている教会であります。私達自身も初代教会の信徒も神様にとっては同じように愛すべき存在なのであります。初代教会に驚くべき聖霊の御業をあらわして下さった神様は、現代の私達に対しても素晴らしい御計画を持っておられます。そこに必要とするものは、私達の考えや計画ではありません。大切なことは、 聖霊に自分の全人生を委ねて、導いて頂くことを祈り決断をしていくことであります。

 聖霊は、一人一人に注がれました。それと同時にそれは教会全体に降り注がれた恵みでもありました。そこには聖霊による一致が与えられていたのではないでしょうか。それは、「イエス様が愛したように」とある、愛によって一致が与えられていたと思うのです。その結果として、主が日々救われる仲間を加えて下さいました。きっと互いに愛し合う姿を見て、また、共にいることに喜びを感じたからこそ、そこに多くの仲間が加わってきたのだと思うのです。

 初代教会にあらわされた聖霊の恵みを、まず私達一人一人が体験させて頂き、教会としての一致をもとめてまいりましょう。聖霊の御支配に全てを委ねていく決心を捧げ、聖霊を受けることによって実現していただこうではありませんか。

 聖霊の恵みにどっぷりと浸ることができるように、ここにおられる全ての方々が聖霊の御支配を

求めていくことが大切であります。「聖霊によるバプテスマ」とはまさにこのことを言っているのだと思います。バプテスマとは「どっぷりと浸す」「埋め込む」と言う意味だからです。聖霊を個人的に求めると同時に、教会の一致のためにも求めてまいりましょう。個人的にはもちろん、教会全体にキリストの愛と、聖霊による一致が実現して行くように、共に祈り求めて、決断を主に捧げて参りましょう。