熊谷福音キリスト教会 聖日礼拝
説 教 者 山本憲治 牧師 2011.6.19
聖書箇所 使徒行伝3章1〜10節
今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。
昔日本に二人の宣教師が遣わされました。一人は日本に遣わされることを快く思えずに、いやいや日本へ来ました。もう一人は、神様に期待を膨らませながら日本に渡来いたしました。任期の半ばに差し掛かった時、それぞれが本国に宣教報告をいたしました。日本を嫌っていた宣教師の方は、「この国は最悪です。野蛮で福音にまったく耳を傾けようとしません。早く本国に私を送り返してください。」と言って、彼は任期を満了することなく、宣教の実を結ぶこともなく帰国したそうです。一方、いったいどのように主が、働いて下さるのか自分を用いて下さるのかと主に期待し、祈りながら渡来した方は全く違う報告をいたしました。「日本は素晴らしい国です。こんなに豊かで神様に祝福された国はありません。彼らは実に素直で、福音を受け入れます。働き手が足りません。もっと人を送ってください。」彼は、多くの実を結び、沢山の日本人を救いに導きました。彼の名はフランシスコ・ザビエルと言います。この二人の違いはどこにあったのでしょうか。それは、主に期待し、主の愛に立っているかどうかの違いではないでしょうか。日々イエスキリストの愛を、御言を通して学び、その愛の姿に似た者へと成長することを祈り求めていく時に、私達はイエス様の愛に生きる者へと変えられて行くようになります。
ザビエルのように私達も主に期待し、素晴らしいイエス様の愛が私を通して表されていくように祈り求めてまいりましょう。
T.イエス様の愛と信頼の関係が築き上げられていく時に、私達を通してイエス様の愛が表されていくのです。(1〜4節)
私達は素晴らしいイエス様を信じています。しかし、「信じている」と言いながら、主への信頼と期待感が弱ければ、人にイエス様を紹介する力は湧いてこないでしょう。
1節を読みますと、ペテロ達を通してイエス様の素晴らしい奇跡の業が表されたのは、午後3時の祈りの時でありました。この祈りの時間は、ユダヤ教では敬虔な信仰心の現れであり、熱心な信仰者には絶対欠かすことのできない大切な時間であったようであります。
ペテロ達がいつ頃からこの祈りの時を守っていたのかは分かりません。たぶん、イエス様と伝道旅行をしていた頃からなのではないでしょうか。イエス様が熱心に祈られていた姿を彼らは見ていたはずなのです。けれども弟子達が自分達の意思を持って、心を一つにし熱心に祈り始めたのはイエス様が復活され召天なさってからでした。
今日の場面は、イエス様の弟子であるペテロとヨハネが、熱心に祈り始め、聖霊を与えられ、力強い聖霊の導きと助けとを受けるようになってからの話であります。
足の悪い男性は毎日「美しの門」にいたのです。彼にとってそこは日常の生活の場であり、生まれつき足が動かないという悲しみを味あわなくてはならない場所でした。この当時、生まれつき足の悪
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い人は、「神に呪われた者」とされていたからです。
男性は、ペテロとヨハネに出会い、ほどこしを求めました。多くの人々は、きっと彼に金銭を与えたでしょう。お金は彼のお腹を満たすことはできたと思います。その日、その日を生きながらえさせてくれたかもしれません。しかし、彼の心の本当の求めには答えになっていなかったはずです。
彼が本当に必要としていたものは、救いであります。「神に呪われたもの」と言われ、さげすまれる日々からの解放であったはずです。
4節にペテロとヨハネは、彼を「じっと見て」とあります。主の導きの中、彼らはその男性の心の叫びを聞くことができたのでしょう。
私達のまわりにも、救われてほしいと願う、愛する家族や友人知人が沢山いると思います。その人の、心にある重荷や苦しみを知るには、イエス様に日々祈り、聖霊の導きを求めイエス様の愛をもって、その人に寄り添うことではないでしょうか。
イエス様の愛をいただいて、その人のかかえている問題や悩みに、耳を傾けて聞いてあげましょうTコリント12章15節に
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」という御言葉があります。
私は、正晴先生の牧会の全てを知っているわけではありません。妻と結婚をしてから、年に何回か会う程度でありました。しかし、お会いするたびに先生の心の温かさ、優しさにふれ、自分を受け入れて下さっているという安心感がありました。そして、それはきっと、私達の見ていない処で、祈り続けていて下さったからだと思うのです。祈ってくださっているからこそ、正晴先生の中よりキリストの愛があふれ流れてきたのではないでしょうか。
そのような愛で、祈り支えられてきたことを改めて感謝し、私もそのような者へと成長させていただきたいという思いであります。
このように
U.イエス様の愛が信仰者を通して表される時、主の御業も顕わされるのです。 (4〜6節)
ペテロとヨハネは、男性に「わたしたちを見なさい」と言いました。きっと、彼を汚らわしく見る者はいくらでもいたことでしょう。しかし、ペテロ達のように愛と信仰をもって見つめる人はいなかったと思います。その結果、彼の心にどのような変化が起きたのでしょう。それは、「期待」であります。「期待は」前向きで肯定的な姿勢であります。彼の場合、それは「受け取りたい」と言う姿勢になって表されています。彼は二人に注目しました。福音をまさに語ろうとするペテロとヨハネに、期待して注目したのです。そして、その心に向かってペテロは語りました。
「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。
彼はイエス・キリストの名によって救われ解放されたのであります。
V.主の救いの御業は、その人、その人にあった方法で表されます。(7〜11節)
7節を見ますと、「彼の右手を取って起こしてやると」とありますように、神様は私達を通して人々を救われます。ですから、愛の配慮ある行動が大切になってきます。ペテロ達が、言葉だけではなく手を取って起こして上げたのは、まさにその愛の配慮ではないでしょうか。
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キリストの愛が、その手からはっきりと伝わった時に、彼は癒されました。私達もイエス様の愛に満たされ、時にかなった愛の行動がとれるように祈りましょう。
ここで私達は、もう一つ気を付けなくてはいけないことがあります。それは、信仰を持っていない者に対するイエス様の御心はその人の救いであり、癒しが優先されるものではないということであります。救いが先か癒しが先かは、主の御心の中にあることです。主の御心は救いであることを忘れないようにいたしましょう。
足の悪かった男性の喜びは、癒されたからであることは確かであります。しかし、その癒しの意味は、足が治ったということ以上に「神に呪われた者」というレッテルや、人のさげすみの目から救い出され解放されたことにあるのです。
イエス様の御心、聖霊の導きは、イエス・キリストを信じて救われた私達を通して、人を救いに導くことにあります。その働きの中で大切になってくるのが、苦しんでいる人々への思いやりや愛の配慮であります。ペテロ達が足の悪い人に示したのはまさに、思いやりと愛の配慮の実際の姿です。ザビエルも当時の日本人たちに多くの愛を示したことでしょう。
私達も、主の愛を家族や友人知人に表して行けるように祈り求めましょう。まず自分がどれほど主から愛を与えられ、愛によって救われ、愛によって導かれてきた者であるかを思いおこして下さい。
愛は受けるだけでは本当の素晴らしさは分かりません。受けたのですから、今度はイエス・キリストの名によって受けた愛を与える者へと変えていただこうではありませんか。