聖日礼拝
説 教 者:山本憲治 牧師 2011.6.26
聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1〜11節
タイトル:水をくんだ僕は知っていた
今日の聖書箇所を読んで頂きましょう。
正晴先生が天に召されまして、間もなく2ヶ月が過ぎようとしています。生前の正晴先生への私の印象はどちらかと言いますと、目立つことがお嫌いで物静かなお人柄でしたが、主への熱く燃える思いを内に秘めておられるという印象がありました。しかし実際には、人が知らないところで多くの人々に愛の手をさしのべ、豊かな実を結んでおられていたことを知りました。
葬儀の後にも、次々と沢山の方々から電話や、お手紙や弔問を頂きました。その中で、私がとても感動したことがあります。それは、「正晴先生に開拓時代大変お世話になり助けていただきました。」と言う先生方が幾人もおられたと言うことです。開拓時代の貧しく大変な時にサポートを送り続けて下さったというのです。それも熊谷の出身伝道者の枠を超えて、実に多くの貧しい伝道者達を助けておられたと言うことです。宣教師の先生方を、サポートしている教会も沢山あります。しかし、正晴先生がサポートしていらっしゃったのは、そのような先生方だけではありませんでした。アピールもせずに、遣わされた場所で主の忠実な僕として、水をくんだ僕のごとく仕えられていた貧しい先生方を支えておられていたのであります。
私はこの事に大変感動いたしました。正晴先生がそのようにサポートをなさっていたのは、先生自身、神学生時代から熊谷福音キリスト教会をゼロの状態から開拓しておられたからだと思うのです。先生も同じように、主の御命令に従い水をくんだ忠実な僕であったからこそ、開拓で頑張っておられる先生方のご苦労を理解されたのではないでしょうか。理解できるからこそ、愛を持ってサポートされたのだと思います。そして、私達夫婦もそのようにサポートを受けて支えられていたのだと改めて感謝を致しました。
今日の聖書箇所は、このように語っています。試練や問題の最中にあって、御言に信頼し祈ることを通して、主に助けられた者は主を信頼する確信をさらに強めていただけるのです。確信を頂いた後は、試練の中にある人々をあるがままに受け止めてあげ、励ましてあげたり、祈りの答えがその人に与えられるまで、その人のために祈ることができるように成長させて頂けます。
苦しみや問題は、人によって様々だと思います。どれをとっても、他と比べてあなたの問題は軽いなどと言えるものはないはずです。しかし、確かに言えることは、どのような問題にあろうとも、主はその方と共におられると言うことであります。主があなたを助けて下さり、必ず主への信仰と確信を与えて下さいます。
そのような者へと成長させて頂けるように、今日の御言葉を通して主から励ましと、信仰の力を共に頂きましょう。
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ヨハネによる福音書2章1〜5節をまず読んでみましょう。
イエス様と弟子達は、母マリヤの関係でガリラヤのカナと呼ばれる場所で行われた、結婚式に呼ばれました。普通ユダヤの結婚式は大がかりなもので1週間位い行われたようです。その結婚式でとても重要な物が葡萄酒でありました。場面はその肝心の葡萄酒が切れてしまい、母マリヤが慌ててイエス様の所へ行かれるところから始まります。しかし、このマリヤの行動こそがとても大切なのです。
彼女のように私達も
T.問題が起きた時には、思案する前にイエス様に伝えに行きましょう。
マリヤがはっきりと「葡萄酒がなくなってしまいました。」と、イエス様に問題を告げたように、私達も自分の問題を包み隠さずイエス様に伝えましょう。自分が何を求めてよいのかが分からなければ、主に祈る時にも確信が持てないからであります。しかし、時には何が問題なのか、どのように告げたらよいのか分からない時もあると思います。その時ははっきりと「主よ、私は何が問題なのか、何をどのように祈ればよいのか分かりません。」と正直を祈ればよいのです。問題がはっきりしている人には、そのことに対して主からの導きがあります。はっきりしていない人には、何が問題なのかを教えて下さるでしょう。
結婚式で葡萄酒が切れることは、当時のユダヤではあってはならいこととされていました。ただ単に、花婿が恥をかくと言うことではなく「神様との関係がうまくいかなくなる」と思われていたからです。神様との関係がうまくいかない夫婦の結婚生活が、うまくいくはずがないのではないでしょうか。このままでは、このカップルは新婚から大変な重荷を負わされることになります。だからこそ、イエス様に「どうしたらよいのでしょう」と聞きに行ったマリヤの行動は正しいのです。
詩篇119篇104〜105節に
わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。それゆえ、わたしは偽りのすべての道を憎みます。
あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
このように、主の御言に導きと智恵を求めて参りましょう。ここで大切なことは、主の御言葉を信じることです。伝統と律法に支配されたこの時代の中で、イエス様は最も良い解決を与えておられます。ヨハネの2章4節でイエス様は「あなたは、わたしと何の関わりがありますか。」とマリヤに言われました。母親に対して、とても冷たく聞こえます。しかし、この御言葉は原文からこのようにも訳せるそうです。「あなたとわたしの関心事は同じではありません。」主の関心事は葡萄酒ではなく、マリヤの信仰にありました。マリヤは5節で「このかたがあなたに言いつけることは、何でもして下さい。」と信仰と確信を持て告げています。主が求められることは、あなたが主を信頼して御言葉に従う決断をすることにあるのです。
問題が起きたなら、まず何よりもイエス様の所にまいりましょう。主は信じ求めてくる者に対してはいつでも答えて下さるお方なのです。
さて、6節から8節を見て参りましょう。
マリヤの信仰と求めに対して、イエス様は具体的に動き始められました。イエス様が用意を始められたのは、瓶一杯の葡萄酒ではなく、水でありました。しかも六つもです。時に主は、私達の考えと違うことをなされます。その理由は、
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イエス様の目的が、ただ単に私達の祈りや求めを満足させることにあるのではないからであります。主は祈りに応えると同時に、あなたに主を信頼する確信を持てるようにさせたいのです。
ですから、
U.明確な答えが出るまで、あきらめないで主を信頼し最善を尽くして従いましょう。
最善と言いましても、人によって違うと思います。病んでいる方、人間関係で悩んでいる方、仕事がつらくて必死に頑張っている方、様々であります。「もう、何もする力がない」という方もおられることでしょう。人は、その時その時に主に信頼してベストを尽くすことが最善なのであります。
主に、瓶に水を満たすようにと言われた僕達や周りは、疑問だらけであったと思います。「何故水なのだろう」と思ったことでしょう。しかし、僕として彼らができた最善は従うことなのです。彼らは、イエス様に言われるとおりに従いました。自分達の判断で適当なところで水を入れるのをやめるようなこともしませんでした。口の所まで一杯に水を入れたとあります。
人は、理由が分からないまま従うことほど不安で苦痛なことはないのだそうです。この僕達がまさにそうでした。同じように、私達も今の状況がすぐに変わらないからと言って祈るのをあきらめないようにしようではありませんか。また、状況が良くなったり悪くなったりを繰り返したとしましても、主を信頼して、主を見上げてください。ローマ8章28節にあるとおりです。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
主は私達に一番良いことをして下さるのです。
イエス様の指示通りに従った僕達に、次の指示が出されました。「さぁ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい。」この後主の奇跡の御業が顕わされます。この瞬間こそ僕達が一番緊張した時でしょう。「水を持って行って、もし怒られたらどうしよう。」
「もし」という不安が襲ってくる瞬間であります。「もし直らなかったらどうしよう。」「もし人間関係がもっと悪くなったらどうしよう」「もし解決できなかったらどうしよう」しかし、これは実は不必要な心配なのです。確かに私達の心に様々な不安や心配がわいてきますが、まだ起きていないことをあれこれ心配するのは無駄なことであります。主が答えを出される時には、最も適切な形で答えが出てきます。そして、主が出される答えが私にとって一番良い答えなのです。
水をくんだ僕達は知っていました。彼らが水を一杯にした六つの瓶が見事に葡萄酒に変わったことを・・・。
V.イエス様に従った者達だけが、神様のなさった業とその理由を知ることができます。
料理頭は、良い葡萄酒であることは分かりました。しかし、これが神の御業であることを知ることはありませんでした。それが主の業であることを知っていたのは、そこで主に従い、共に労苦した者達だけでした。「水をくんだ僕達は知っていた。」とある通りです。
主への信頼と確信を持つにはまず、主に祈り、主に従って、あなたの最善を尽くすことです。その方法は人様々であります。仕事で苦労されているお方は、その仕事を通して主を信頼する確信を学ばれると思います。人間関係で苦労されている方は、そのことを通して学ぶでしょうし、病と戦い癒しを求めておられる方は、癒しと共に主を信頼する確信を学ばれると思うのです。しかし、ここにはこの場面で明らかに「水をくんだ僕」ではないのに、「主を信じた」と確信を与えられた者達がいます。
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それは、11節の弟子達であります。彼らはいったいどうして確信を持ったのでしょう。彼らはこの時招待客でありました。いくらイエス様の弟子とは言え、招待客である彼らに水をくませるという裏方の仕事をさせることはないと思います。理由は、やはり彼らがイエス様の弟子であったからであります。弟子は常に師匠の側を離れないで居るものです。直接水はくまなかったもしれません。しかし、彼らはその現場にいて、途中経過を共に過ごし、主の御業という結果を共に見たのであります。
私達にそのことを当てはめると、どのようなことになるのでしょう。それは、問題を抱えている人のためにとりなしの祈りをすることであります。あなたは直接病にかかっておられないかもしれません。仕事や人間関係で今は苦しんでいらっしゃらないかもしれません。しかし、その渦中にある方の悩みや苦労、願いを聞くことができます。そうすることにより、あなたは祈りをもってその方の心に寄り添い、その人の喜びや悲しみを分かち合うことができるのです。当事者ではありませんが、とりなしの祈りをすることにより、自分のことのように祈りが聞かれたことをその人と共に喜び、主への確信を強めることができるようになるのです。弟子達はまさにその恵みにあずかり、主を信じ確信を強めることができるようになったのであります。
諏訪に、70歳代の一人のご婦人がいらっしゃいました。彼女は他教会から転会してこられた方で、人柄はとても良く楽しい方でありました。しかし教会に初めて来られた当初は、彼女の信仰姿勢はおせいじにも良いと言えるものではありませんでした。以前の教会でも、聖餐式のある月一回の礼拝に出るくらいで、礼拝をよく休まれたようであります。しかし、その方が劇的に変えられる時が来ました。それは、彼女の脳の一部の機能が突然止まってしまうという異変が起きたのです。そのためにホルモン分泌が働かなく体のバランスが壊れ、それを補うための薬の副作用によって大変な苦しみが始まりました。
その苦しみは、共に祈っていた私達にとっても辛いものでした。「主よ、助けて下さい!」いったいどうなってしまうのだろうと、不安を抱えながらとりなしの祈りをしていました。しかし、私達の心配をよそに、彼女は日を増すごとにその内側が変えられていったのです。「苦しい辛い、死にたい」からいつの間にか「今日も礼拝に来られて感謝」に言葉が変わっていったのです。体調の良い時悪い時は相変わらず続いています。一部の脳の機能も停止したままです。でも彼女の顔からは笑顔が絶えなくなり、言葉には「感謝」が溢れてまいりました。礼拝に何が何でも出席するという姿勢に変えられて行ったのです。
正直励まされたのは、とりなしの祈りをしていました私達の方でした。共に祈っていたからこそ、主の御業と愛を実感することができました。彼女の病との戦いは続いています。でも、心から大丈夫という平安を確信することができています。彼女のことでは、大きな主の恵みを私達も共に体験させていただき、主の御名をあがめることができました。
試練の中にあって主の恵みを祈り求め、御言に信頼し御言葉に従って行く者は、主への信頼をさらに深めていただけます。そして確信いただいた後は、苦しみや問題を抱えている人をあるがまま受け止めてあげ、励ましたり、その人のために祈り続けるものへと成長させて頂けるのです。
そのようなに成長させてくださいと、万事を益として下さるお方に信頼し、従っていく決心をいたしましょう。
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