聖日礼拝説教

 

者:山本憲治 牧師                           2011.7.3

聖書箇所:ヨシュア記1章1〜9節

「強く、また雄雄しくあれ主が共におられる」

 

今日の聖書箇所を読んでいただきましょう。

 

ヨシュアはモーセの愛弟子であります。また、主の導きの中、モーセがエジプトよりイスラエルの民を脱出させた時から共に歩んだ人物でもありました。エジプトを脱出した時にはすでにユダヤ人は、推定60万人はいたと思われます。ヨシュアの代にはそれ以上になっていたかもしれません。熊谷市が20万人都市ですから、その数は半端ではありませんでした。

モーセの亡き後、ヨシュアは主だけを頼り60万人以上の人々を導かなくてはならない、途方もないプロジェクトの責任者として主から任命されたのです。

人数のあまりの多さに、たとえヨシュアが恐れを抱いたとしてもそれは当然のことであったと思います。しかし、彼がそれ以上に恐れたことは、モーセの時より何度も何度も繰り返された民の不信仰や不従順の姿だったのではないでしょうか。

 そのことを誰よりもわかっておられたのは、神様ご自身であります。今日の箇所では、主が「強くあれ、また雄雄しくあれ。」とヨシュアを励まされ、祝福の約束を与えられました。その祝福の約束は、主を信じ、主に信頼して生きる現代の私達にも決して無関係ではありません。

ヨシュアとイスラエルの民にとって、「乳と蜜の流れる地」現代のイスラエルであり当時カナンと呼ばれた場所が、勝ち取るべき約束の地でありました。同じように、私達一人一人にも神様からの「約束の地」があると思うのです。それは、私達の人生であります。主に信頼して歩むのならば、あなたの置かれている状況すべてに対して、主と共に歩んだヨシュアの歩みを当てはめることができると思います。

ヨシュアは60万人ものイスラエルの民を導くという大問題を抱えていました。私達もそれぞれが問題や困難を抱えて生きています。

今日私達は、自分の人生の中に起きてくる様々な問題に対して、恐れを抱くことを終わりにしようではありませんか。自分の力で立ち向かうのではありません。聖霊の導きの中で、御言から約束をいただくのです。祈りを通して主からの励ましと助けをいただきましょう。人生のさまざまな状況の中で、不安や恐れに対して勝利を勝ち取らせていただくのであります。

確かに、恐れはこれからも私達を襲ってくることでしょう。しかしイエス様は「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と言われます。(ヨハネ16:33)十字架により私達のためにすでに勝利を勝ち取られた、主イエス・キリスト様を信頼してほしいのです。そして、今日の御言を主からの勝利への約束として受け取らしていただきましょう。

 

1.主の約束は、主を信頼して立ち上がり、聖霊の導きを受けながら受け取って行くものです。

主はヨシュアに、モーセが死んだことをはっきりと告げられました。そして、いつまでも悲しみにとどまらないで、立ち上がり主の導きに従うように言われたのです。主は、モーセの代より与えると約束された「カナンの地」をイスラエルの民と一緒に受け取りに行くようヨシュアに言われたのです。しかし、それは自動的に与えられるものではありませんでした。自らの足を使って取りに

行かなくては行けなかったのです。また、その約束の地は、どこでも良かったのではありません。主御自身が決められた場所がありました。その中で、ヨシュア達が足を踏み入れた所は、すべて

彼等のものとなる約束でありました。

 私達にも、主が決めてくださった場所があると思います。それはあなたの人生ともいえるでしょう。その中で主を信頼して、人生のさまざま場面で勝利を勝ち取っていってほしいと主は願われているのであります。 

 時に私達は、自分がどのように進めばよいのかわからずに、足踏みをしてしまうことがあります。ヨシュア達はまさにその状態にあったといえるでしょう。申命記34章8節には、イスラエルの民が「三十日の間モーセのために泣いた。そしてモーセのために泣き悲しむ日はついに終った。」

とあります。終わったといえ、偉大なリーダーを失ったショックはあまりにも大きく、すぐに立ち上がれたとは思えないのです。だからこそ、主御自身がヨシュアに直接御語りになったのではないでしょうか。

 ヨシュアへの主のお言葉は、励ましであると同時に、導きであり命令でもありました。「私があなたを支えるのだから、あなた方のために用意した祝福を受け取りにいきなさい。」と・・・     

主に従うことは、さまざまな現実的問題や困難に直面しなくてはならないことでもあります。しかし、主の恵みはモーセを失った悲しみに留まる事にあるのではなく、むしろその現実に直面していく中にあることを主は言われたのであります。

 病という現実と闘って苦しんでおられる方は、その病の中でしか受け取ることのできない主からの勝利の祝福が必ずあるはずです。自分の能力では、どうにも解決できない問題に苦しんでおられる方は、逃げないで主に祈り続けていただきたいのであります。主が一番良いときに一番良い方法で助けてくださるはずだからです。仕事や生活が忙しく、疲労困憊してストレスが溜まって苦しんでおられるかたもいるでしょう。「もう勝利どころではない、今かかえている問題で一杯一杯だ。」というような状況にあなたはおかれているかもしれません。その時は、まず重荷を主の御前に下ろしましょう。そしてこの御言を思い出してください。Tコリント人への手紙10章13節

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」

 主があなたに受け取らせたいと思っておられるのは物ではありません。それは、主への絶対的信頼、神様への信仰であります。イスラエルの民は、それを荒野の中で時間をかけて訓練され、ついに受け取ったのであります。私達も、「自分の人生」という約束の地で、さまざまな形を通してその祝福を受け取ろうではありませんか。祝福を用意してくださるのは主御自身でありますが、受け取るのは私自身であることを覚えて、今日も主が用意してくださっている祝福に期待してまいりましょう。

 

U.主を信頼して行動を起こす者を主は祝福されます。

ヨシュアが抱えていた問題は、イスラエル60万人を導くことだけではありませんでした。彼が、これから勝ち取って行かなくてはならない場所は、異邦人の土地であり、偶像礼拝が行われ、先住民が住んでいる土地なのです。民を導くだけでも大変なのに、異邦人と戦わなくてはなりませんでした。民を偶像礼拝の誘惑から守らなくてはなりません。またイスラエル民族としての純潔を守るために、他の民族と結婚しないようにしなくてはならなかったのです。そんなヨシュアに対して、5節で主はこのように言われました。

「あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」

問題は次々と振って沸いてくるかもしれませんが、主はヨシュアを生涯守り見捨てず、どんな事にも勝利していけるように約束してくださったのです。

 「主に従うならばきっと祝福がある」と私達は信じています。しかし、目の前にある問題や困難があまりにも大きすぎ、未知の領域であるために足がすくんで前に進めないということもあると思います。

 現在はUFJ銀行となっています元三和銀行の頭取で、渡辺さんという方がいました。この方は、三和銀行が九州のローカル銀行だったのを、世界に進出させた方であります。彼はクリスチャンであり、それも誰もが認める人格者で筋の一本通った方だったそうであります。また、ご両親は牧師であったそうです。今は天に召されましたが、このような詩を残しておられます。

「神に祈りて、最善を尽くし、最善を尽くして、神に祈る」

この詩を始めて読んだ時に、この方がいかに困難な道を乗り越えてきたのかを感じました。困難に会うたびに、執務室で一人神に祈るその姿が浮かんできたのです。別の方になりますが、その姿と同じと思える祈る姿を3年前に私は目にいたしました。それは、韓国のヨイド教会での祈祷会の時でありました。講壇から趙ヨンギ先生が3万人の人々を祈りに導いていました。皆がいっせいに祈る中、私は趙先生がどのように祈っているのか見てみたいと思い目を開けたのです。ところが、講壇に先生の姿はありませんでした。よく見ますと、講壇の後ろから少し離れたところに、背広を着た先生が地べたに額を付けて、床をたたきながら必死で祈っておられました。その姿を見た時に、この先生が何故このように用いられ、いかなる困難をも神の奇跡にて乗り越えてきたのかが分かったような感じがいたしました。人目もはばからず幼子のように、主の前に祈る姿は詩篇に出てきますダビデのようでありました。謙りがどのようなものであるかを、改めて教えられた時でもありました。皆が、趙先生のようになるわけではありませんが、その祈る姿勢を見習いたいと思います。

 主に祈る時に、私達は自分が何をしたら良いのかが見えてきます。イエス様御自身「失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ18:1とあります。見るまで、得るまで祈りましょう。見えてくるものがその時は、わずかな光であるかもしれません。でも、主を信じて一歩踏み出してみてはどうでしょうか。そしてまた祈るのです。その一歩一歩の積み重ねが、あなたの主への信頼を強め、やがては大きな祝福の波となってあなたのもとへ届けられることでしょう。

 ヨシュアに与えた約束を、主は私達に対してもしてくださっています。ですから、人生を恐れずに主を信頼して踏み出していってほしいのであります。主はヨハネ14章13節でこのように言われます。

「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」

主を信頼して、主が与えてくださる勝利を受け取りましょう。

 

V.御言に従うことは、勝利を得る秘訣。(7〜9節)

主はヨシュアに、ここでの最後のしめの言葉として7節でこのように言われました。「ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。」

主は不安の中にあるヨシュアを叱ったり「それではだめだ」などと否定的なことはおしゃっていま

せん。「ただ強く、また雄々しくあれ」と主は言われたのです。この御言は9節を見て分かるように、「主である私があなたと共にいるから大丈夫だ」と言うことであります。しかし、それを確かにするための主からの教えは、御言を守って、御言からそれてはならないということにあります。8節にある、「あなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。」このところでは、「ことごとく」とあるように、御言をことごとく守るべきものとして教えています。

主は御言を守って従うことは、「勝利を得る。」とはっきりといわれています。しかも8節には、「そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。」とすばらしい約束を与えてくださっています。

御言葉をそのまま信じて、御言葉に従って生きて行くように、主はチャレンジを私達に与えてくださっています。途中で挫折することもあるでしょう。失敗もあるでしょう。その時こそ「主よ、やっぱりあなたの助けが必要です」と実感して祈り求めることができるでしょう。主の御言葉に従って行くところに失望はないと思います。

 

主は私達に勝利者としての人生を歩ませたいと思っておられます。それは、主からの励ましと導きを受け、主の智恵と力に満たされてこそできるものだと思います。しかし、そこには私達の方からも受け取りたい、祝福がほしいと、御言を持って一歩踏み出していくチャレンジ精神が必要であることを主は語っておられます。

ヨシュアも、始めは恐れを抱き悩みました。しかし、主の励ましを受け、すばらしい約束をいただいたからこそ立ち上がれたのであります。

強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」

「主が共におられるから、どのような時にも離れることなく支えるから信頼しなさい、大丈夫。」と主が私達にも語られています。

 主の導きを求めて祈り、主を信頼してまず一歩をふみ出してみてください。踏み出して、また祈り、更なる御言の導きを求めるのです。あなたの中に主を信頼する思いが揺るがなくなり、確かな主からの勝利をいただけるまで、主を見上げて失望せずに祈らせていただこうではありませんか。

ヨシュアのごとく、私も主を信頼して従ってまいりますと決心をささげましょう。