聖日礼拝メッセージ

 

説教者:山本憲治 牧師                                   2011.7.17

聖書個所:マタイによる福音書1章1〜17節

「神様の愛の御計画」

 

皆さんは、御自分の系図を調べたことがありますか。現代の私達にとって系図はあまり関係のないものであると思います。よほどの財産家が、自分の財産を家族に譲渡するようなことでもない限りあまり縁がないことかもしれません。ある方が私にこのように言われました。「人は本当に儚い存在だ。その人が覚えてもらえるのはせいぜい親子3代くらいまで、4代目の曾孫になると、1代目の曾お爺ちゃん、お婆ちゃんには会ったこともなく忘れられていく。」確かにそうかもしれません。しかし、主イエス様を信じる私達クリスチャンは違います。何が違うのでしょうか。それは、私達の継承していくものが違うのであります。私達が継承していくものは、家名でもなければ家系図や財産でもありません。イエス・キリストを信じる信仰であります。それは人々に、キリストだけが与えることのできる信仰、希望、愛と永遠の命を手渡していくことだと思うのです。私達がこの素晴らしい福音を人々に伝える為に、主は愛の御計画を立てられました。

 今日はこのイエス・キリストの系図より、私達のために主が立てられた愛のご計画を教えていただきましょう。いま私達がどんなに祝福された主のご計画の導きの中で生かされ、用いられようとしているのかを教えていただこうではありませんか。

 

T.神様の私達に対する御計画

イエスキリストの系図は、14代ずつ三つに分けられています。17節を見ますとアブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚まで、バビロン捕囚からイエスキリストとなっています。この系図にある主の御計画を見ることにより、私達に対しても主の恵みあふれる御計画があることを教えていただきましょう。

@    は主の愛を表す存在として創造されました。(1〜6節)

アブラハムからダビデ王までをまず見てみましょう。創世記1章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し」と書いてあります。神様は私達と素晴らしい関係を築いて行くための御計画を立てておられたようです。神様は人間を、神様と交わりが出来る命あふれる存在として創造されました。

系図にあるように、主はアブラハムという名もない一人の人と共に歩み始めらました。途中には様々な艱難や試練をイスラエルの民は通らされました。しかし、ダビデ王が起こされ神の国イスラエルを建国出来るまでにさせてくださいました。神様は14世代もの時間をおかけになったのです。 

愛と忍耐をもって、イスラエルの人々の信仰を成長させ豊かな繁栄を与えてくださいました。

主は私達一人一人に対しても、同じように愛の計画を持っておられます。それぞれが、主と共に歩む時、祝福された人生へと導いていただけるのです。その人生から流れてくる主の愛と恵みによって、家族が幸せになり、豊かな地域や学校、職場を作り出していけるのです。私達はそのようは祝福を受けるべき存在として、主に愛されていることを覚えて感謝しようではありませんか。

 

A人は神様に背を向け、神様との愛の関係を失ってしまいました。(6〜11節)

次の14代はダビデからバビロン捕囚までであります。ソロモンの時代までは神様からの繁栄が

続きました。しかし、それ以降はだんだんと国は没落していったのです。それは、王を始め人々が神様と共に歩むことをやめ、自分の欲望のままに生きる罪の奴隷になり下がっていったからでした。 

堕落していく中でも、預言者の声を聞き、主に立ち返り国を復興させようとした王もいました。しかし、次の世代へとは続かず国は北イスラエルと南ユダの半分に分断されました。イスラエル人同士で敵対し、神殿には偶像が堂々とまつられるまでになってしまったのです。

国力が衰えたのですから、近隣諸国に狙われて当たり前であります。やがて北イスラエルは、領土拡大を目指すアッシリアに完全に滅ぼされてしまいました。南ユダは、バビロン帝国に戦争で負け占領されました。そして、多くの民がバビロンに捕囚となったのです。しかし、これは神様が望んだ御計画ではなく、人が自ら招いた結果なのではないでしょうか。

神様は私達に、自由な意思をお与えになりました。それは、私達に無理やりではなく、自由な意志を持って神様の愛に応えてほしかったからだと思うのです。しかし、私達はその自由な意思を、神様の愛に応えるために用いることをしないで、むしろ自分を満足させることに使っていることが多いなのでないでしょうか。今日、自分の心の在り方を考えてみましょう。あなたの中に、自己中心の問題があるかもしれません。私たち皆、その罪に陥る可能性を持っています。

本来なら神様は、イスラエルを滅ぼすことなど考えてもいなかったでしょう。私達に対しても同じであると思います。ですから今日主の前に、膝まずき、自分の心の中を探っていただきましょう。悔い改めるべきことを気付かせていただいたならば、神様に悔い改めましょう。

 

B神様は私達が失った愛の関係を、築きなおしてくださるお方です。(12〜17節)

 最後の14代は回復の時であります。神様は、バビロン捕囚から人々を帰国させてくださいました。それは、民がその捕囚期間に神様に心から悔い改め、神様を求め、イスラエルの回復を祈るようになったからです。捕囚後、確かにイスラエル国は復興しました。しかし、その後、国は再びローマ帝国という大国に占領されてしまいます。しかし、この時代は、前とは少し違いました。何故なら、イスラエルは偶像礼拝などで、背信行為を行っていたわけではないからです。確かに国民の中に神様への信仰が律法によって根付いたようであります。 

人々の叫びも、国の回復の為に「メシア」救い主の到来を求めていたのです。それは、神の言葉である預言の成就を求めるものでありました。その願いが聞かれたように、イエス・キリスト様が誕生なさったのです。

 主はイスラエルの民が、神への背信と罪による愚かな行為によって、滅んでいくことを見過ごすことができませんでした。それと同じように、主は私たち一人一人がその罪によって滅んでいくことを見過ごすことがお出来にならないのです。

人は律法に従うだけでは、罪から救われることはできません。何故なら、従うという人の行いだけでは、罪を贖うことはできないからです。ですから、主は素晴らしい御計画を私達の為にお立てになったのであります。それこそが、主イエス・キリスト様の十字架であります。

 神様自らが人の姿となり、罪ある私達の身代わりとなってくださいました。私が負うべき罪の呪いと裁き、その苦しみを私の代わりに背負ってくださったのです。

イザヤ53章2〜5節には、このように主の十字架に対する預言が書かれてあります。

「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」

失われたはずの愛の関係を、確実に取り戻していける道を、イエス様は十字架によって築き上げてくださったのです。神様は、イスラエルの民を何世代にも渡って回復へと導かれました。私達も毎日主イエス様の十字架の愛に心を向けましょう。主と共に歩む中でも犯した罪を許していただき、身も心も癒され、素晴らしい愛の関係を築きなおしていただこうではありませんか。

 

U.神様はあなたを恥とはしません。(5節)

 イエス様の系図を見る時に、ユダヤ人の系図としては驚かされることがいくつかあります。それはまるで、イエス様が罪の世界の中で虐げられている人々を解放するために来られていることを告げているようでもあります。

@    ユダヤ人と異邦人との差別を取り除かれるイエス様

 ユダヤ人には、昔から神に選ばれた民族であると言う選民意識がありました。ユダヤ人にとって系図により、純潔が証明されることはとても重要であったことが分かります。イエス様を預言されたメシア(救い主)として証明する系図です。祭司以上に、純潔であることを証明すべきではないかと思うのです。しかし、イエス様の系図を見ると、そこには堂々と2名の異邦人の名が書かれています。5節です。ラハブとルツの名が書かれています。ラハブは、ヨシュア記に出てくるエリコの女性で、しかも遊女でありました。ルツは、ルツ記に出てくるモアブの女性です。

 私達は、異邦人と聞いてピンとこないところがあると思います。しかし、旧約聖書から見るならば私たち日本人は立派な異邦人であります。神様の恵みと救いにあずかるはずもない人間なのです。私達が今クリスチャンとしてこの救いと恵みにあずかっているのは、イエス様の十字架の故なのであります。十字架がなければ、私達は滅んでも当然と言われる存在に過ぎなかったでしょう。

A    男女を平等に見て扱ってくださるお方。

今は、男女平等に扱う社会になってきています。当時のユダヤでは、女性は平等どころか公では数にも入れられませんでした。それにもかかわらず、イエス様の系図には2名の女性の名前と、もう一人はウリヤの妻という3人の女性が名を連ねているのであります。イエス様の前には男女の区別はありません。

B    罪人への差別をなくされたイエス様

当時はいったん罪人のレッテルを貼られたならば、それは一生続いたようです。現代の私達の間でさえ、罪人犯罪者の汚名が着いたならば、それをぬぐい去ることは困難なことだと思います。しかし、ラハブは遊女、ウリヤの妻は、ダビデとの不倫の相手と社会的には制裁を受けるべき存在でした。しかし主は恥となさっていません。何故でありましょうか。

それは、ヨハネの福音書3章17にある通りであります。

神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

考えてみてください。この系図の上で神の御前に罪のない者は、実はイエス様以外いないのであります。主の十字架の故に、私達は神の祝福を豊かに受けています。私達のことを恥とせずに愛してくださっていたのです。私達の為に十字架の苦しみを受けてくださり、救いの道を開いてくださった主に心からの感謝をささげましょう。

 ユダヤ人にとってイエス・キリストの系図は、預言にある通りダビデの家系から出たメシアであるかどうかを証明するものでありました。しかし、私達にとっては、神の素晴らしい愛の御計画を知る恵みの記録であります。そこにはユダヤ人で有ろうと無かろうと、区別はなく、罪人への差別もありません。 

キリストの御前では、誰も恥とされることもなく神様の豊かな御愛と赦しを受けることが出来るのです。キリストの血肉による系図はここで終わっていますが、神の愛の御計画は今日に至るまで続いています。それは、主が再び来られる日まで続くことでしょう。救いに系図による証明はいりません。ただ必要なのは、クリスチャンとしての私達の生きた証し(証明)であります。私たち一人一人が、主の生きた証し人となって主イエス・キリストの素晴らしい御愛と救いを証ししていきましょう。その為に今生かされ、私の人生が用いられていることを主に感謝しようではありませんか。